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書肆短評

本と映像の短評・思考素材置き場

12/3 かぐや姫の物語: 視聴雑感

 

1、雑感

ストレートに話が展開されて行く。わかりやすく、謎も特に残されていない。画も綺麗。

なので、特に自分が語ることはない(ほんとにない)。すごくよかった。個人的に『風たちぬ』より好み。

以下は、蛇足の備忘録。

 

 

2、場面と構造

「かぐや姫の物語」は、映画のコピーから連想されるように、なにがしかの「罪」を背負ったかぐや姫が「罰」を負わされて地上に落とされ、「罪」を償うことで月へと帰る話、ではない

より泥臭く、人間的感情と葛藤に引き裂かれた主人公が、プログラム化された運命のなかで、世界と生を肯定する話(しきれなかった悲劇の話)である。

 

(2-1:概略)

概略を示せば次のようになる。

感情を持つことで天上社会に溶け込めなくなったかぐや姫は、地上で再度、一から成長過程をやり直させられることになった。そこでは、人間的な形を与えられるとともに、記憶を抹消され、身体も赤子へと退行させられる。そうして、再度、動物から社会的動物へ、そして感情の苦痛を脱した観想的主体へと生育するようにとお膳立てされて行くのである。いわば、天上の神々の一員となるべく、教育をやり直させられているのである。

そもそも、都合良く、かぐや姫が急成長したり、大きくなったところで金や着物が竹から出てくるのは、貴族になれると喜び勇むととさまのためでも、大して都での生活に興味もないかぐや姫のためでも、ない

この仕組まれた道筋は、天上の神々の「異端者」を、再度矯正し、仲間に引き入れるためのものだ。贈呈品に見えるものは、地上のととさまという御しやすい手駒を用いた「かぐや姫-更正プログラム」の一貫なのである

5人からの求愛を断ることで、天上の神々は、感情を自ら捨て去るこの「更正プログラム」を踏んだものと判定し、「罪」が贖われたとして、許すことにした。天上の神々からすれば、動物たるかぐや姫は社会に生きるようになり、次いで最後に社会の感情を捨て去ることで、再び天上の神の一員になる資格を付与された、というわけである。

これを「罪」と「罰」(と贖罪)と呼ぶのは、勿論天上の神々の視点である。天上の神々とととさまとが協同で作り上げた社会、そこの緩衝地帯としてのかかさまの役割は、期せずして、共犯関係を取り結んでいるのである。

 

(2-2:かぐや姫の抵抗と挫折)

これにたいして、かぐや姫は、一旦は感情を獲得した「異端者」である。そうやすやすと社会化はされない。事実、中盤、「顔を見せろ!」と迫る粗野な貴族たちから逃れて、かつてあった村での竹取りの日常へと帰ろうとするだろう。

けれど、村にはもはやかつての日常はない。かつての家には新たな家族が住み、捨丸たちは別の山へと旅立って行ってしまう。流転しないものは「社会」を除いてはないかにみえる。

だから、都へ帰ってきたかぐや姫は反抗することがない。どうせ、かつての日常はすでに失われてしまった。そうであれば、自分のいるべき場所は、どうせこの狭苦しい社会にしかない。その中で、どうにかこうにか裏庭のような)日常「らしきもの」を作り上げて行くしかない…そのように考えたはずである。

勿論、この日常の疑似性を拭うことはできない。折角作った裏庭を壊して「こんなの偽物 よ」と叫ぶとき、かぐや姫は、自分のいる場所のどこにも落ち着けなくなっている。花見をした自然へと帰ることも出来ず、かといって社会にも落ち着く場所はない、かつて会った日常が常に失われ行くものであることも知っている。

 

(2-3:かぐや姫の着地点)

そんなかぐや姫が行き着いたのが、「鳥 虫 けもの 草 木 花」がただともに生きるこの世界、季節が別の形で回帰し続けるこの世界の流れとともに生きることである。それは自身が子どもに「なる」ことで達成される、社会にも日常にも拘束されない、歌と舞踏の世界に生きることに他ならぬ。

(※女童が子どもを引き連れて、天上の神々の金縛りにもかかわらず、歌い、踊り続けていたのは、このことを示している。)

ここまでくれば、罪と罰(と贖罪)が、いささかも、かぐや姫の視点から見て、なんらの罪でも罰でも贖罪でもないことは明白であるだろう。感情をもつことが罪になる訳はないし、それを捨て去ることが罰であり、贖罪である、というのは、どこまでも神の権威を特権化する作業以外の何物でもない。 

 

 

3、抽象化

これをより抽象化すれば『かぐや姫の物語』では4つの階層が描写されている、と整理できる。

即ち、(1)天上界、(2)社会、(3)日常、(4)世界の4つである。

 

(3-1:4階層構造)

天上界の神々は、かぐや姫の翼をもぎ取り、(3)の動物的な生から、(2)社会的な生を経て、それを自らの意志でかなぐり捨てることで、(1)の天上界へ復帰するようにと、更正プログラムを組んだ。天上界の神々からすれば、「罪」は(1)を離反する堕落過程、「罰」は(2)から(1)へと復帰する際の苦痛に対応する。

天上社会に人間的感情を持ち込んだかぐや姫はその人間的記憶を奪われ、動物からやり直すようにと、そして社会的行為態度を身につけ、最後にその感情を捨て去るようにと、再教育を施されたのである。それは、観想的生といえばきこえはいいが、かぐや姫をほぼ自動機械にするための処方だといってよい。

しかし、かぐや姫が求めたのは、最後まで抗った(1)の天上界の観想的生でもなければ、ととさまが望んだ(2)のゆたかで華やかなコミュニケーションに満ちたソーシャルな生でも、かつてあった(3)の捨丸やかかさまとの(真の or 疑似の)日常でも、なかった

そうではなく、かぐや姫は、(4)「鳥 虫 けもの 草 木 花」の萌える世界の中で、(※「咲いて 実って 散ったとて、生まれて 育って 死んだとて」とわらべ歌にあったように、)「生き」そして「死ぬ」ことを願ったのである。

 

(3-2:死と生に対する態度)

とはいえ、かぐや姫がことさら「死」に近いという訳ではない。寧ろ反対である。他の(1)(2)(3)の階層に生きる者はいずれも「死」を忌避しているのに対して、かぐや姫は「死」を受け入れた生を生きている。

他の(1)(2)(3)の階層に生きる者はいずれも「死」を畏れ、遠ざけ、或いは時間を止めることで、それに抗うとともに、その反面で、「死んだ」ような生を内包してしまっている。感情を殺した天上の神はもとより、世情に感情を窶したととさまも、自らの子どもとともにある日常以外を「夢」と切って捨てる捨丸もまた、生きながらにして半ば死んだように、自動機械のように生を送っている。

そのような「死」に塗れた生の一切を、かぐや姫は拒否しているのである。

かぐや姫は、時間を止めることなく、早めることなく、来るべき「死」の可能性とともに、一瞬一瞬を生きようとする。そこでは、たえず、かぐや姫は「死」をその身から懸命に引き離しているのである。しかしそれは「死」への畏れからではない。そうではなく、次の、いまではない、未来の瞬間に「死ぬ」ために、今は理に抗う選択をするのである。

捨丸との一瞬の逃亡劇を繰り広げるとき、天上の神々からは禁止された「逃亡」が、今この瞬間には意志できるということ、そこに、(4)の世界で生きるものの「希望」がある。なぜならそこでは、いかなる禁止も、この生の可能性を剥奪することは出来ないためである。

 

(3-3:回帰する世界にある死と生)

(4)の世界では、丁度、わらべ歌にあったように、「春 夏 秋 冬」の四季が絶えず繰り返す。しかし、それは決して同じ春が繰り返すのではなく、別の春を待つための繰り返しであり、二度とない瞬間をたぐり寄せるための、世界への身の委ねに他ならぬ。

かぐや姫は、人間であることを、世界の気まぐれな移り変わりを生きることを、その一回一回の反復不可能な繰り返し(永劫回帰)を、願い続けた。しかし、そのようなかぐや姫こそ、当初感情がない(1)世界に生き、そこから地上への流刑に処され、そして再度、勝手な都合で(4)世界から隔離されるという稀有で悲しい過程を経た、神にも人にもなれずにその生の豊かさを抹消された、ひとりの不遇の少女なのである。

 

 

4、おわりに

 

(4-1:いくつかの「読み」の排除)

以上のように、話の筋は特に混乱することはない。つまらぬととさまへの義理人情に大きな期待を寄せなければ、専らかぐや姫の関心が、捨丸やかかさまと、運命を課してくる天上の神々との間で引き裂かれる状態にあったことを見ることは容易いだろう。

それゆえに、かぐや姫が社会規範にがちがちに拘束されたために地上で願いを叶えることが出来なかったことだとか(社会の観点(2)に寄った読み)、最終的には偽の日常を作り上げることに固執するしかないことだとか(日常の観点(3)に寄った読み)、慣れてしまった一切の感情を失ってその意志に反して地上から連れ帰られてしまったことであるとか(天上の観点(1)に寄った読み)に、同情を寄せることは拒否されている。そのような同情は、「かぐや姫の物語」が提示した様々な「かぐや姫のことを分かってあげられない者たち」の凡庸な視点を、単に反復してしまうためだ。

そうではなく、これらの観点・視点のいずれも、かぐや姫に対する理解を欠いてさえ成立してしまう(その無知に対してかぐや姫はあまりにも優しく振る舞う…)ということに対して、悲しみを寄せる必要があるように思う。かぐや姫が何度も何度も、手をかえ品をかえ挫折させられたのは、無知をもっても「理解」が成立するということにこそ、その原因があるのだ。

 

(4-2:一つの読みの提案)

「かぐや姫の物語」において、はらはらしたり、わくわくしたりすることは、おそらく、ない。すべての「筋書き」は、よく見えている。

ただ、上述したように、日常からも世界からも隔絶され、天上の偽物である社会の中に容赦なく突き落とされ続けるかぐや姫の姿は、ただただ悲しく(すくなくとも僕の目には)映る。

わらべ歌は何度か引用したが、再度引用しよう。「まわれ まわれ まわれよ 水車まわれ、まわって お日さん 呼んでこい、鳥 虫 けもの 草 木 花、咲いて 実って 散ったとて、生まれて 育って 死んだとて」、その後、歌の末尾は次のように続いていた。「風が吹き 雨が降り 水車まわり、せんぐり いのちが よみがえる」

その、風が吹き雨が降り移り変わる世界、「せんぐり いのちが よみがえる」永劫回帰する世界から、かぐや姫が遠ざけられてしまったということにこそ、かぐや姫の絶望が、そして天上の神々の「罪」と「罰」とその贖罪というプロセスが強いる欺瞞(※これこそがかぐや姫に対する罪ではないだろうか?)が、隠れている。

かぐや姫は、贖罪をさせられることで、その豊かで一回的でかけがえのない多様な生を、永久に無時間的な月へと固定されてしまった、この世の誰よりも哀れなひとりの少女なのである。

 

「かぐや姫」の挫折、理解という名の無理解によって全てが剥奪された少女のことを、僕は「必ず 憶えて」いようと願う。その記憶が「未来の希望」になることを、ただ希っている。