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書肆短評

本と映像の短評・思考素材置き場

11/22 東浩紀・千葉雅也 「関係しすぎない関係を巡って」 #genroncafe

今回は実況をしていたので、自分のtweetから切り貼り。

 

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(冒頭):千葉・東の出会いについて。

千葉:QFについての会で存在論的郵便的についての反響を受けた。

東:その後、『思想地図』で原稿依頼。哲学論文でもファッション論でもない「変わった」テクスト。(東の近年までの活動総括:togetter.com/li/6707)

千葉:今回の本は博士論文がベース。序論を中心に書き直し。ドゥルーズの哲学は、880-90年代に、水平的=繋がりの哲学とされた。しかし、それだけではまずい、ということから、本書を書いた。「リゾーム」における切断が背景として重要。ヒューム的な考えかたの導入。ベルクソンを中心にしてきたこれまでの読解:連続的世界観としてのドゥルーズに対する読解。それをヒューム(英米哲学)的に読むということ

千葉:基本的に僕の考え方は存在論的。存在を考えると、全部繋がっていると考えている方がよほど簡単。分離の発想のほうが、存在論的には、極めて困難。

東:それはindivisualの問題と繋がる:たとえば鈴木健の「つながり」の問題。そこには「切断」がない。「なめらかさ」の問題。

千葉:では、その「敵」とはなにか?僕も含まれるのか? 「なめらかな社会」において「敵」が、”逆説的に”強調されてしまうということの意味を問わねばならない。

東:「存在論的・郵便的」における「存在論」の継承者ということの意味。つまり、離散的なはずの「郵便的」を存在論に投射したときに出てくる本として読んだ。「郵便」は精子の話、「動きす」は尿道の話。デリダ的な「ばらまかれ」の問題。

千葉:肛門機と精子の違い。尿は不毛であるとともに、「流れ」を象徴する。精神分析だと、肛門から性器への移行しかみない。その手前に、尿道的統一(まとまり)があるのではないか。性器的快感の主眼は、中二的な着眼。フロイトの問題関心は性器に中心化されている。デリダは、性器だけではなく、「バラバラな」「残余」について考えている。

東:部分対象に分割された快楽の束が、「まとめられた後」の話しが、デリダのサエン論であり、責任論の話なはず。

千葉:精子的な責任の所在をデリダは考えていた。尿道はどうかと考えると。

東:液体について考える。上で涙を出す、下で(…)というのが並走しているのが美少女ゲームの問題圏。僕のほかの小説(ex.クリュセの魚)もそう。存在論については小説でだけ語っている。哲学は全て郵便的に書いている。

千葉:それを僕は「尿道」と称して哲学で書いている感じかも…。もう一つ、ジェンダーについて考えている。一つのフレーズを導入したい「男性の欲望」と「女性の欲望」というラカンの区別についての東『存在論的・郵便的』の注に注目してる。ファルスは女性の「所有」という到達不可能な問題になってくる:究極の不可能性:あらゆる欲望の前提となる。不可能性の周りをぐるぐるまわるのではないのが、「女性再度」の欲望=「全てではないもの」=「郵便的なもの」、ではないか?

東:偶然と必然の問題。

千葉:二元論的に両方あると?

東:超越論/経験論とかいう区分よりも「前」の話しとして理解したい。子どもが出来たとしてそれは「偶然」にすぎない。こどもが「偶然」にすぎないということこそ慄然とすべきこと。出生に籤が組み込まれている。親にとっては「偶然」、しかし、子にとっては「必然」でしかありえないこと。この非対称性から全ての問題が生じているのではないか?

千葉:所詮「偶然」というメンタリティは引き受けられないか?

東:…柄谷の単独性のロジックは「子どもから見られた視点」。絶対的な起点が「子ども」的には生じてしまうということ。ある視点から見れば「私」の代わりがいっぱいいるということ。構造的な差異。この問題は、「世代」や「超越」の問題の雛形になりうる。デカルトも「家族」を語らない。すべてが「子ども」の哲学になってる。人間存在に刻まれている究極的な非-対称性:「人は親にならなくてもいいけど、人が親を消去することはできない」。

千葉:generationの問題が究極というのは小林康夫に通ずる。

東:故郷ということを考える。典型的な団塊ジュニアである僕の場合にはあまりわからない。しかし娘の場合にはもはや歴史を引き受けてしまっている。大田区に努めたいとかいってる。この僕がgoogleで「偶々」選んだその土地が「重要な故郷」になる 。故郷について、娘を介してtraceしている感覚。僕は基本的に交換可能性の上で生きてきた。しかし、僕がわからなかった、交換不可能な「誇り」や「愛」(=必然性の感覚)について考えることになった。ハイデガーは「必然性」の哲学だろう。da-sei(y)n

千葉:Daの必然性を「リア充」として考えられてきた。そして、ドゥルーズは「Da」重視の思想だと考えられてきたけど、本当は、「そうじゃないもの」を構想する思考法が「非-リア」の偶然性の哲学(=切断の節学)なのでは?

東:この世界を「唯一の世界」とかんがえるか、「様々な可能性の束」として考えるか、という問題。(※敢えてのジェンダーについて考えを提示すると、男女の(理念上の、ステレオタイプの)差異があるとすれば…)

千葉:包摂の哲学をいくら志向してもクイアは結局のところ不毛の哲学(ベルサーリ)ではないか。

東:それでいいのでは?

千葉:新たな共同体の構想の仕方を考えるべき。

東:クイアであること=徹底して「不毛」であること(+)社会的な「通常の」地位を得ること、という二重性が畳み込まれてる。文化(反社会性)と政治(社会性)の分断というものに解消されてしまう。宮台的ナンパや東的エロゲーの置き場がなくなった世界の息苦しさについて。

千葉:全てがopen(公開性)で全てが繋がっている世界が「正義」で仕方ないという立場?

openで承認されるminorityの話に回収されてしまう…

東:物としての人間(興奮の対象)、人としての人間(欲望の対象?)という扱いの差が同時に見るという経験。性の経験の特殊性はあまりにも語られていない。

千葉:レヴィナスは性交を「暴力」と看做しているという問題。

東:暴力や関係の「非対称」の問題を無視していると思う。

千葉:「おひとよし」の哲学、になってしまっている。

(一部割愛)

東:教育と被対称性の話:非対称が暴力を生む:例えば「子ども」の例:絶対的に暴力を孕んでしまう:例えば、環境要因が絶対に(親側からすれば)反映されてしまうということ:「対象」な関係から「非対称」が生まれるということ、をマルクスフロイトは考えていた。しかし、いまは「対象」な関係をどういう風に構築するか(擬製するか)という問題にr注力してしまっている。それは必然的にしょうじる「非対称性」を無視している考え方では?

千葉:なくならない「非対称性」。そこでは、部分的に、対称性を設定する状況設定の問題。

東:対象から非対称という考え方を裏返してみよう。非対称を前提に対称性を考えるという方向へ。

千葉:ヒュームからア・ポス手織りなカントへ、という方向を考える

東:一般意志2.0はそのほうこうだけどぬるい。今書くのなら「性」の話をするはず。ルソーはロマン主義者、文学者であり、にもかかわらず、社会契約論を書いたということはどういうことか?(日本でも、文学者と政治学者で、分離されてルソーは輸入された) 吉本(左翼)、江藤(右翼)に対して外部にいた柄谷(引きこもり)、いずれも頓挫。ルソーについて考えるとすれば、この「性」を考察すべきでは?

(英語圏のアカデミアについて:割愛)

(千葉フランス話:割愛)

(日本の哲学界隈の話について:あまり社会との違和感を抱えている人は少ない:割愛)

(編注:東浩紀修士論文デリダ論とバフチン論(副論文)だしてたのか…)

千葉:バフチンの中の幽霊的なものを追及している論文

東:それは「声」。バフチンの「声」はむしろデリダに置ける「エクリチュール」に相当する、という話しをしているもの。ロシア誤では、デリダの「エクリチュール」が文字=手紙という後に翻訳される。ソルジェニーツィン論:手紙の集積(伝聞の集積)でしか表現できない悲劇と、過負荷的な悲劇の違い、を論じた。デリダの「アルシーヴの病」について当時考えていたことがあるが…本当はフランスとロシア(=表現散逸国)の比較をしたかった点もある。西ヨーロッパでの対立(エクリチュールと声)ではない、ロシア的な対立(イコン)の差異が見える、はず。

 

(質疑1への)千葉応答:①再生産ではない形での人間の進化について考えうる。②子どもを作るという物理的じゃない「概念」は考えうるはず。

東応答:人間なるものが存在しないということを考えている。どっちかに染色体が決定されているということの「意味」を考える

東:ホモサピエンスが「我々」しかいないということは、歴史的にはきわめて偶然的。人間っぽいけれども「他者」に属する亜種について考えうる。

「人間」という知的生命体というカテゴリーと、生物的カテゴリー、その下位区分としての「性」のカテゴリーは偶然的なもの

東:純粋理性批判における宇宙人の議論が面白い。人間以外の知的生命体についての考察。それがハイデガーでは失われてる。この意味では18Cに回帰すべき。既存のカテゴリーが前提にしてる複数のものを分割する

東:性の問題と、種の問題を重ねたSF作品がある(ロバート・J・ソーヤー)

東:身体(肉体)の差異は顕著。「女」だけど種が違うから妊娠できない、という問題が、「リベラルな問題」になったらどうするか?宇宙人に説明する段になっては困ってしまうのではないか?

千葉:当座の理論としてのジェンダー問題

東:ハイデガーDasein)とかカント(超越論的哲学)とかは不変的。フロイトは、我々の生物学的条件に密接に関連しているので、多分説明できない。

千葉:対宇宙輸出できる哲学と役に立たない哲学

東:「cool〜」な哲学…

東:「対等」でないものを「対等」であれ、といわれてることで、人はどうしたらいいかわからなくなる。ジェンダーというよりも、肉体的な身体差をどうかんがえればいいか?という問題

(話題的に一部割愛)

…欲望の対象たる「分身」「似たもの」のことを考えている。「異性」は単に「性」的な情動のコミュニケーションの外にいる。他の「種族」のようなもの?個々人の特異性が端的に「種族差」的なものにまで拡張されている状態。

society, addociationまではいいが、familyとはなにか?(これは既存の家族と照らし合わせなければいけないのが、難しい。familyとは子づくりのための方便にすぎない) パートナーシップを超えた「何か」、とはなにか?

産む主体が「選択」の問題になりうる。非対称性がここに残る(現状では残っている)。俺の子どもという「観念」を変更すればいい?(これはミーム的なものにすぐ回収されてしまうがこれはまずい)

子ども=非-意味的接続、そのもの。ミームは、意味の継承の問題になっている。子どもの、非-意味的接続性を考えうる。名も知らぬものとの、言葉も通じないものとの間でも子は生まれる。この非-意味性、無-意味性を考える。

体液交換には非安全性-人間関係的な背負い、がある。そこには危険がある。

(安全な性交と言うイデオロギーは謎)

性関係は「意志の尊重」の向こう側にある、絶対にそこには暴力が含まれてしまうのだから。

 

(質問)寄生虫についてどう考えるか?

東:寄生とは疑似家族の問題ではないか。生物学的絶対主義に立つ訳ではもちろんない。家族を家族たらしめる「なにか」が何なのか。生物学的な遺伝子が通じていない「もの」とはなにか?(法的-制度的な話にしてはならない)

近代的自我が溶解していくということ(中沢、鈴木の方向)との距離をとって、切断、を強調する意義。それは何かの「単位」が残るということ。勿論、唯物論的には繋がっている。しかし、その外に、現に存在する「幻想」がある(必要とされたか)ということが重要。