書肆短評

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8/3 脱構築研究会「ポール・ド・マンと脱構築」 発表メモ(未了) #脱構築研究会

 

0、冒頭

 

デリダ没後10年(鵜飼:デリダ哲学の不在)

 

(宮崎)

 「脱構築されるべきものを構築する。脱構築それ自体の脱構築

 「署名できないものの名、そのもの」

(鵜飼)

 「plus d'une langue(ひとつならずの言語/もはやひとつの言語はない)」

 

 

 

1、発表:宮崎裕助「ジャック・デリダポール・ド・マン

 

(1) Deconstruction is/in America

近年のド・マンについての邦訳・特集(『理想』とか)

ジャック・デリダポール・ド・マン、二人の脱構築=二つの脱構築の「関係」とはどのようなものか?

英語化した脱構築

1966国際シンポジウム(批評の諸言語と人間諸科学)におけるド・マンによるフレンチセオリーのアメリカへの導入

 

デリダによる『memoires』p.38におけるド・マン評

脱構築…にあるのは、ただ転移についての思考であり、それも脱構築というこの語が一つならずの言語で担ったあらゆる意味、何よりも諸言語間の転移という意味においてそうなのである。…それでも脱構築について単一の定義をするとすれば、それは一つの合い言葉のように短く、省略的で、節約的な定義として、文章の形ではなく、こう言うでしょう。plus d'une langue(ひとつならずの言語/もはやひとつの言語はない)と。」

 

(2) ド・マンによる、デリダ『グラマトロジー』への批判

デリダは、ルソー『言語起源論』に「現前の形而上学」(「パロール>エクリチュール」という転倒図式の無意識的利用)を見いだした。(デリダはこのルソーのコンテンツと筆致の二重性を暴きだす)

 →デリダ は、ルソーのテクストに(解釈上の理由からの)無意識の飽和、を見いだそうとする

 ※デリダ は、病者としての「ルソー」として解釈している?

反対に、ド・マンは、ルソーが意識的にこの二重性を利用していたと主張する。ルソーは批判されるべき混乱した書き手ではなく、明示的に意識された筆致利用者として解釈する。(『盲目と洞察』p.204, p.208, p.235-237)

 →ド・マンは、ルソーのテクストに(解釈上の理由からの)意識化された物語言語利用の、跡を見いだそうとする

 ※ド・マンは、修辞性についてのプラグマティストとしての「ルソー」として解釈している?

 

(3) ド・マンによる批判に対する、ド・マン自身の反省とデリダの対応

デリダ は、病者:ルソーのテクストに(解釈上の理由からの)無意識の飽和、を見いだそうとする

ド・マンは、プラグマティスト:ルソーのテクストに(解釈上の理由からの)意識化された物語言語利用の、跡を見いだそうとする

 →「ルソーを盲目性から免除したいというド・マンの欲望」『memoires』p.127

 →「ルソーがエクリチュールの修辞性に特有の問いについて、ルソーが盲目ではなかったという事を示そうとした」『memoires』p.127

 『盲目と洞察』前書きで、このような読みを反省し、『読む事のアレゴリー』での方法論構築へと繋げた。

 

(4) ド・マンの脱構築の方法論

脱構築を、あえて(思弁的ゲーム、テロ…ではなく、イデオロギー混じりについての反省を踏まえた)方法・技術として用いる。

『読む事のアレゴリー』xiv-xv

それにより、厳格な創発力(a power of inventive rigor)を作り上げる事が出来るし、そのような力にテクスト自身が自覚的であるという仮説のもとで、テクストを読むべきだ、と主張する。

『理論への抵抗』p.231-32

(※デリダは、脱構築を方法論化することに否定的だった。この反対をド・マンは行く。)

 

ド・マンによるまとめ

 →デリダ :哲学 :テクスト外部からの介入+外部からの脱構築性、に着目

 →ド・マン:文献学:テクスト自身の自己認識+自己自身による脱構築性、に着目

宮崎によるまとめ

 →デリダ :方法論的不可能性による脱構築自体の神秘化?

 →ド・マン:テクスト内在権威の再-神秘化(否定神学)?

 

(5) 脱構築の応用可能性

方法論化できないということを強調するだけでは脱構築が無力になってしまう、神秘化されてしまう。

脱構築運動の形骸化に抗しつつ、形式的利用の可能性を拓いた点では、ド・マンの功績は大きい。

 →形式化不可能性に抗しつつ、形式化する力を応用する?どのように?

 

 

 

2、発表:土田知則「文学理論家としてのポール・ド・マン

 

(1) ド・マンの文体の特徴

短文に要素を詰め込む、主語述語を対応させない

 →訳文を作った瞬間、自動的に「意訳」化されてしまう

 

(2) 岩波『理想』でのド・マン特集における訳の問題

・blindness: 盲点か盲目か?

・allegory: 形式の(単一の)アレゴリーか、(複数の)諸アレゴリーか? …

 

(3) ド・マンにとっての言語の性質:アレゴリー・アイロニー・メトニミー

●ド・マンによるルソー読解から見れる言語観=アレゴリー的規制

 a.)言語の要素①:修辞(文法的な規制)

 b.)言語の要素②:機械(物質的な規制:意図せずして、意味とも関係なく”機械的”に口をついてしまう音)

 →ド・マンによるアレゴリーとは?これら、逆の意味を持った言葉、ソウハンする言葉が同時に出てしまうという言語表出の条件のこと

 →①と②の重なりを保持するのがアレゴリー

●ド・マンによるプルーストニーチェの取り扱い

ニーチェ読解から見えてくる言語の本性としての「修辞」性

・主体・欲望・言語という系列概念の失敗、むしろ言語により動かされる受動的主体

●ド・マンは表層の思想家として捉えられる

・深層まで降りない思想家(反対に、デリダは深層に降りていく思想家)

・ド・マンの分析の謙抑性、メタファーにコミットしない、隠喩を脱構築する思想家

 (直喩利用者であるプルーストに着目するのはこのため)

●メタファーにおける「類似性」という概念を覆していく

・単に、本来別々であるはずのもの同士が、同時存在しているというだけ?

・ド・マンによるアレゴリーの積極的な利用

●ド・マン=体系を作らないラディカルな形式主義者、言語分析家

 

 

3、質疑応答

 

Q1-1.) デリダは、相手のテクストのロジックの矛盾・非徹底を問題化する。むしろ、相手であるフッサールハイデガー・ルソーなどのテクストの「脱構築効果」を転用・利用・我有化しているのではないか?

 むしろターゲットである伝統的な「フッサール」解釈、「ハイデガー」解釈、「ルソー」解釈としての現前形而上学を仮想的に前提として(そこに囚われることを受け入れつつ…?)、自己の脱構築を作り上げているだけなのではないか?(エクリチュールの特徴を前置しすぎている?)

 要するに、デリダによる(現前形而上学の「外」としてではない)エクリチュールの新理論は、現在までに出せているのか?

A1-1.)

 ド・マンによる回答に表れているように、デリダでさえも、その時点における「ルソー解釈」について前置している事はそのとおり。

 しかし、デリダは、現前形而上学が、パロール優位であることを自覚しつつ、そこに足を掬われつつ、否定的に浮かび上がってくるものを掬いとろうとしている。「エクリチュールの哲学を作り上げようとすると、それは端的に不可能なままに留まる」と主張しているように思う。

 このように、デリダ哲学が立ち上がるという事はかなり困難になるように思えるけれども、それでも構わない。デリダの倫理性は、テクストに可能な限り寄り添う仕方にこそあらわれているように思う。

 

Q1-2.) その境界再設定作業は、pure過ぎるのではないか?

 結局、(現前形而上学という歴史的なフィクション(=ド・マン曰く「物語上の約束」)に拘る事で、その批判もまた再度)形而上学に舞い戻るだけではないか?

A1-2.) どこまでも二項対立の反覆からは逃れることができない。(批判が、批判対象との対を構成してしまう。)

 

Q2.) 「脱構築の教育」の形として、デリダ的教育、ド・マン的教育の現れの違いは考えられるのか?

A2.) 明確には分ける事は出来ないけれど、背景は異なっている事は事実

 (※聴き取れず…)

 

Q3)  ド・マンの中ではオリジナルなもの、主体というものの地位が弱い。どのように教育が可能であるのか?

A3.) 自分のものとして概念を語るという矛盾を前提に、言葉を引き受けていく作業、というのが教育によって作り上げられる主体に繋がると思う。

 脱構築とは人間主体がなすものではない。受動的な内破性というのを重視する。そういう面を、教える事になるのだと思う。

 歴史的起源というのは本来的に遡れないもの、

 

Q4.) 脱構築はどうしても「名の作用」というものを浮かび上がらせてしまう。これは文献学との関連を持つように思える。とはいえ、そのように通俗化した脱構築の積極的な意味についての考えはあるか?

A4.) 脱構築的読解は古典的な読解との桎梏が生じたことは事実。日本でも、このような通俗化した脱構築はあまり根付かなかった。打破のためには最初は「固有名」というインデックスへの着目は重要。

 デリダ曰く、脱構築は形式化できるのだが、同時に歴史意識(系譜)を導入することもできる。テクスト選択に伴う歴史性を導入するという作業は、形式的な脱構築とは異質な作業。

 こう言ってしまえば、「主体」をカッコ入れしたとしても、「固有名」は自動的に挿入されてしまう。よって、作者性・「固有名」の選択というのは、避けられないものとして、導入を検討すべき。

 

Q5.) 形式化のポジティブな側面

A5.) 言葉が不可避的に従わなければならない、避けがたい「形式」の事を考えていた。

 機械性というのも「形式」と関連している。「形式」があっても、その適用が恣意性を持つ。それが、ド・マンのいう形式ならざる「機械」。

 「反覆」などにも通じるところであるが、「形式」から逃れる作用もまた同時に生じる可能性をはらんでいる。脱形式という偶然性を呼び込むことが重要。

 出来事の偶然性との関連

 

Q6.) 脱構築されるものも構築していかなければならない、とはどのような意味か?とりわけ、文学の価値が凋落した現状において、脱構築の意義というのはどのようなものになるか?

A6.) 現代において、権威的な文学がないとしても、脱構築は可能であり、豊かな脱構築可能性がある。

 勿論、権威があった昔とは異なるかもしれないが、それでいてなお、読む価値すらも脱構築と同時に製作・標榜しうる。

 決定不能性と多様性は異なる。多様性の相対主義化ではない、決定不能性のほうが重要。

 

Q7-1.) デリダのある種「ずるい」介入様式の積極性とは何か?

A7-1.) デリダの介入の仕方は、二次文献を全て含めた、コンテクスト・テクストが混在した様な読解方法を採用している。それを、ド・マン型に安易に一元化すべきではないように思える。

 (例えば、ソシュール読解だって、テクスト原理主義に立たなくても、むしろテクストの外への効果を含めて、テクストが成立しているといえる。よって、テクスト読解の方法もまた多様化するものでもある。)

 テクストというよりは、テクストの歴史性を踏まえたアプローチが採用されている。可視化できれば、問題は無い。

 

Q7-2.) またデリダは「真面目さ」を肯定しつつ否定していた。デリダは二項対立を呼び込みつつ、それに耐えてきた。それに対して、単純な脱構築の作用による決定不能性の内で生じる「彼方」(ex.例えばデリダの言う「正義」の問題)のようなものを立てるべきなのかどうか?応用可能性に飛びつくべきか?

Q7-2.) ド・マンは、造語作りのデリダとは異なり、言葉を作ることというよりは、言葉をずらしていく人。ド・マンによれば、脱構築とは「する」ものではない。言語の潜在的な仕組みとして解釈できる。

 見つけたその仕組みの生かし方というのは諸々ありうる。それは今後の作業として把握している。

 

Q8.) デリダ哲学史の新たな解釈をおこなった。ド・マンには歴史をあまり感じないが、どのように把握しているか?

A8.) ド・マン初期は、かなり直線的な歴史観を持っていた。後期では、歴史はむしろ消えてしまう。そういう意味では、出来事の連続が極度に強調されてしまう。美学イデオロギーなどへの態度にもあらわれてくる。

 

Q9.) 具体的なテクストによって脱構築の方法論が示されるはず。今日はデリダやド・マンが主題化されていたけれど、脱構築の方法の方が知りたい。

A9.) 予めこれだ、という形で示せるものではないけれど、今日のこの会そのものを一つのテクストとして捉える事も出来る。

 また、ルソーを読んだデリダ、ド・マンを読むことで、脱構築をメタレベルで学んでいくものでもある。

 脱構築研究会を拓くということ自体を反時代的なものとして反省しつつ、脱構築という行為の評価を与え続ける事はできるだろう。