7/26 東 「『一般意志2.0』とその後」第六回 メモ(了) #genroncafe
0、目次
1、政治状況(政界再編の一旦の終焉)について
【 (1) 政界再編の終焉による影響】
【 (2) ネット選挙と熟議の困難の現れ】
【 (3) 熟議vs.リアルタイム動員(ソーシャル・ネット)】
2、民主主義=一般意志、を統御する「決定」の役割
【 (4) 民主主義の理想】
【 (5) 前々回の復習:法と正義】
【 (6) 今回の議論との接続】
【 (7) 一般意志2.0に「決め」させない制度設計】
3、人間を「人間」+「動物」+「植物/土地」として見る:アニミズムの功績
【 (8) 人間と自然の併置】
【 (9) 非-人間の取り込み:梅原猛の「人類哲学序説」】
【 (10) 人間と動物:ハイデガーの「セカイ」論】
【 (11) 太陽と森】
<a.太陽>
<b.太陽と森の区分>
<c.個別性と永劫回帰>
<d.東の着想:超-長時間を思考せざるを得ない原子力・宇宙の問題=「超越」の pre-install 問題>
4、欲望の側を政治に取り込む
【 (12) 欲望/欲求の区分】
【 (13) 欲望を含み込む「政治」】
5、質疑応答
1、政治状況(政界再編の一旦の終焉)について
【 (1) 政界再編の終焉による影響】
1945〜1993〜2012 (〜2022 ?) までの流れ
(政権交替の実質を確保する)勢いある野党という偶像
ゼロから政界再編を作り上げるということの困難(スタッフ・技法etc…)
→若手論壇ブームの終焉(批判的知識人or与党リベラル擦り寄り、という立ち位置選択を強いられるだろう)
【 (2) ネット選挙と熟議の困難の現れ】
(鈴木寛の理想たる)ネット選挙で鈴木寛が負けるということ、及び、鈴木寛の「熟議」のネット上での失敗
twitterを例に挙げる:同じ発言のRTが非常に多い。熟議がなされるよりは、同じ内容が発信されるだけ。(西田亮介の議論を思いだしてほしい。)
【 (3) 熟議vs.リアルタイム動員(ソーシャル・ネット)】
ネットが熟議を可能にしない、ネットは(とりあえず現状では)リアルタイム動員を強化して終わった
(ではこれからはネットに、(あるいは、利用者リテラシーが高まれば)日本のネットに期待できるのか?---否)
(行儀のいい鈴木寛の失敗:エリート主義?:「熟議」に期待し過ぎた?)
2、民主主義=一般意志、を統御する「決定」の役割
【 (4) 民主主義の理想】
民主主義の避けがたい理想状態は、上記(3)における「リアルタイム動員」の強化に他ならない
すると、頻繁な選挙(※注:鈴木健的な制度かな?)=世論調査、直接性が高まるだろう。
民主主義そのものは何も意味していない
【 (5) 前々回の復習:法と正義】
デリダ「法律というのは脱構築可能/正義というのは脱構築不可能」という理念
この発言についての東の解釈:「正義というのは法律の無限の変更可能性そのもの」
メタ的な変更可能性・解釈論争をずっと保持し続けること、が正義。
【 (6) 今回の議論との接続】
熟議は法、リアルタイム動員は正義に割り当てられる。
熟議=法は、絶えず、無理矢理、「決め」続ける。しかし、その「決め」は変更可能性=正義に晒されていく。(つっこみ役としての正義=一般意志2.0=単なる「”感情”の”集まり”」)
しかし、その突っ込み訳たる正義は決定不可能である。即ち、リアルタイム動員では何も決まらない。
感情の集まり=動員=一般意志2.0は、何も「決め」ない。
【 (7) 一般意志2.0に「決め」させない制度設計】
ここから、民主主義は、リアルタイム化したポピュリズム以外の何も生まない
よって、民主主義に「決め」を打てる機能を付加・updateしなければならない。
3、人間を「人間」+「動物」+「植物/土地」として見る:アニミズムの功績
【 (8) 人間と自然の併置】
ネットは、動物的なフレーズの集合、情念の集合として捉える事ができる。
(理想の熟議を掲げた鈴木寛の敗北)
その動物性を否定する事無く取り込む制度(を維持する事が正義である)
【 (9) 非-人間の取り込み:梅原猛の「人類哲学序説」】
梅原の「人類哲学序説」:柄谷の近著、中沢-国分の近著を混ぜた様な本
梅原の主張:ヨーロッパは「人間」のことしか考えてこなかった(=天台宗のいう「草木国土悉皆成仏」=縄文的狩猟採集民的なアニミズム)
梅原によるデカルト批判:思考する私の肉体(※注:「時間」「系譜」「関係」のことか?)を無視してきた。
デカルトの「私」が蔓延した近代的状況(近代的主体)から外れる事
【 (10) 人間と動物:ハイデガーの「セカイ」論】
ハイデガーによる区分:人間、動物、石 (※国分さんの本に出てくる)
ハイデガー:自分の死を死ぬ存在が人間だ(個別性の極端な重視)
ハイデガーの区分は、結局「言葉」(※注:現象学が体内化した近代的人間?)による捉え方
ハイデガーの言語中心観の問題:「言葉」と「(動物的)さえずり」の厳格な峻別
※梅原曰く、反対に世阿弥(或いはルソーの言語起源論)は、自然の風や動物の鳴き声までも「歌」「言葉」として捉える。それらは連続性をもつとされる
【 (11) 太陽と森】
梅原による「太陽」と「森」の混同は分けた方がいい
<a.太陽>
原子力のメタファーとしての太陽、という構図
無限の芳醇(不死?)を手に入れたいという欲望の暴走:科学技術に拠る自然支配欲の象徴
<b.太陽と森の区分>
超越(太陽)と複雑系・創発(森)は分けて考える
通常はここから、自然-森との共生(ex.反原発)に移行してしまう。所謂、創発民主主義(=一般意志による「支配」:一般意志は「調和」を意味しない)
<c.個別性と永劫回帰>
ギリシア的なハイデガー(=個別性・一回性の重視:自分固有の死を死ぬ存在が人間だ:個別性の極端な重視)の反対にある、永劫回帰性(※注:個別性を包む領域に場所を与える事?)
<d.東の着想:超-長時間を思考せざるを得ない原子力・宇宙の問題=「超越」の pre-install 問題>
この問題が示しているのは、「人類は「神」なしでやっていけるのか?」という問題
「森」の思想というのは、「神」なしでやっていけるという楽観主義
東の着想:人間は「神」なしではやっていけない存在である:人間は「超越」への欲望を捨て去る事はできない
4、欲望の側を政治に取り込む
【 (12) 欲望/欲求の区分】
欲望/欲求の区分
(欲望は対象を持たない/ 欲求は対象を持つ(ニーズとして自省・把握できる))
このように人間は「対象物」を持たない感覚、人間の能力を超えた対象を狙う衝動をもっている(ex.恐怖/不安、美/崇高など)
【 (13) 欲望を含み込む「政治」】
政治においても、「欲求」を充たしたから我々の生活が望ましいものではない
政治の場は、欲望と欲求、それら双方を満たさなければならない
衝動を排除する短期的な思考(科学に対する反動的-金縛り的思考:合理計算と真偽判断を前提とする思考)は、政治的に失敗する。これは避けられない。
では、どのように衝動を内部化すればよいか?これが問題。
人間はいずれにせよバイオケミカルのセカイで生きている。原子力(元素転換)。人間は、人間の領域を越えたもの、科学を手放す事は出来ない。
5、質疑応答
<Q1:太陽=空の問題:超越の問題は宗教的な装いに基づくものか?>
宮崎駿の「太陽/森」の問題=「風立ちぬ」問題
飛行機の欲望を肯定するならば、科学技術への欲望を手放す事はできないと、視聴者は気づかねばならないのではないか。
(視聴者は宮崎さんの反原発運動にギャップを見いださねばならないはず)
太陽は天文学・数学・科学的秩序への欲望と関係している。
宗教というよりは、(圧倒的スケールを見ようとする)科学への信仰を失うという事はないだろう。
「太陽」の思想は人間に似ても似つかない「神」を見いだす事:「森」の思想は、人間に似た者を「神」だと見る様なもの
<Q2:最終処分場案についての質問>
最終処分場を造るとしても、最終処分場を見る事が出来るならば、「忘却」から救い出すチャンスが出来る
人間の圧倒的無力さを可視化する装置になりうるならば肯定できるだろう
<Q3:日本に関するイメージを変えるための案?アクティヴィズムの功罪?>
我々のチェルノブイリに対する目線を、自分への目線として捉え帰さなければならない
放っておけば、勧善懲悪(政府が悪、子どもが可哀想)のステロタイプな議論になって終わってしまう。
偏見というのは取り除けない。
<Q4:ヤノベケンジについて>
ある世代についての「原爆と万博」の密接な関係
それは各種のインスタレーションにも表れていた
シリアスな作品を少しずらしている滑稽さ(笑いのアート)については積極的に評価できた
<Q5:自民党の立ち位置は?>
自民党については、丹下健三、田中角栄的な哲学と、その後の再分配マシーンとしての哲学を区分したほうがいい。
全体としては古い人間主義という感じ。
<Q6:太陽と森をブリッジする何かはあるのか?>
(中立化か、ブリッジかはまだ未決定だが)
「森」の思想には人間には留まれない。人間は粘菌的な論理、DB論理だけではうまく行かないというところは分る。
現在は、「太陽」「森」に加えて「水田」のような、人が作りし自然の秩序を再構成しなければならない、というように考えている。
(※注:「太陽」も「森」も神的である。その一方で神を馴致する調和的制度としての(森を拓き、太陽を用いる)「水田」を開墾せよ、ということか?)