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書肆短評

本と映像の短評・思考素材置き場

6/20『言の葉の庭』視聴雑感:絶えざる「距離」、「約束」の予感

 新海誠の最新作『言の葉の庭』を先日観た。しかし筆者は、新海作品については、うまく物語を解釈する事ができないでいて、今回の最新作でも、どこに力点を置いて観ればいいのか、見終わったあと時間を置いた現在でも、明確に把握できていない。(要するに、新海作品の「いい読者」になれていない。)

 そのため、今回の記事は(著者自身にとり残念な事だが…)個々の作品の読解からは遠く離れた雑感に留まらざるをえない…とはいえ、雑感なりともそれをまとめ、次の視聴体験へと繋げるために、以下(本当に)ざっと書いたものを備忘的に記しておく。

 

 

【目次】

1、新海作品の構造概観

2、『言の葉の庭』の構造

3、跋

4、補

 

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1、新海作品の構造概観

(1) (新海作品についての個人的見解:導入ムービー性?)

 率直に言えば、筆者は、新海作品のいずれについても、ある完結した物語としてそれを観る事が、なんだかとても難しく感じる。というのも、仮に新海作品の各々を、それぞれ完結した物語として解釈してしまうと、いずれもが思春期の人がもつ(あるいはその思春期に取り憑かれている人がもつ)特有の「距離」感覚についての、遠近とその再定義を巡る、ありふれた筋に回収してしまいかねないからだ。

(そのためだとおもうが、新海作品の最終場面では、筆者は、新海作品の末尾に至るところで、急に幕が引かれた感を覚えることがしばしばある。誤解を恐れつつ言えば、筆者は、作品の全話を通じて、ある別の作品への導入ムービー・予告編のようなものに見えてしまうことがあるのだ。)

(2) 新海作品に於ける「距離」と「媒介」

 さて、ここでいう「距離」とは、物理的なものでもあるし、時間的なものである(『ほしのこえ』『秒速5センチメートル』)。或いは、現実と夢との間にある抽象的な「距離」かもしれない(『雲の向こう』)。その「距離」を、主人公たちは互いになんとか埋めようと躍起になり、「距離」を無化しようと試みる。

 その「距離」を媒介するために用いられる道具は、移動手段・交通機関(『秒速5センチメートル』では電車やロケット、カブなどの交通機関が頻出する。)に限られず、携帯電話や手紙、または抽象的な「約束」であったりする事もある。(『ほしのこえ』ではメールだけが二人を物的に繋げてくれる。『雲の向こう』では飛行機に関する「約束」と「夢」という中小物が二人を繋げることになる。)

(3) 新海作品に於ける「距離」と「セカイ」

 そのような道具立ては、同時に、主人公が認識できる「セカイ」を構築するための道具でもある。(『ほしのこえ』:「セカイっていうのは携帯電話の電波が届く場所なんだ」)

 主人公たちは、その当時の年齢や社会的境遇、或いは技術的環境によって「セカイ」を構築する。そして、同時に、互いの隔たりを内包する「セカイ」において再会するために、距離を埋めるための移動をし、メールや手紙を互いに送り続けるのだ。

 これらの移動や送付行為は、言わば主人公達の認識の下の「セカイ」を続けるために、なされるものと言ってもよいだろう。『ほしのこえ』のセリフを借りれば、互いなしでは「なにもない」に等しいセカイである以上、互いを呼び合う事だけがセカイの継続を保証する切なる願いとなっている。

(4) 上記「距離」構造とその帰結

 しかし、いずれにおいても、それらの「距離」が、①一瞬「魂」において触れるという奇跡が生じることで無化される瞬間(『秒速5センチメートル』:「魂」に触れる瞬間)を経た後には、②その(魂の邂逅という)奇跡が持続しない或いは奇跡が裏切られるという不可避の「距離」の再経験が挿入される。主人公たちは、絶えず、偶然によって邂逅した奇跡的関係を、壊され、裏切られ続ける。むしろ、媒介としての「約束」によって、その未到達の可能性が常に可視化され、その「未到達」という名の亡霊に取り憑かれるようでさえある。

 たとえば、メールの到達時間は絶えず遅れ続けるばかりか、ノイズまじりで読み取り不能になってしまう(『ほしのこえ』)。また、「約束」は、現実と時間の断絶による記憶喪失とともに「失われ続ける」だろう(『雲の向こう』においては、「約束」の記憶さえも失われ、もはや「なにか」としてなづけようもなく、絶えず「失われ続ける」)。『秒速5センチメートル』では、手紙は相互に送り合うにもかかわらず、郵便事故により、不到達のままに終わる。それにも関わらず、主人公たちは数年のときを経て邂逅する偶然を得るが、その遮断機での離隔を経た後、もはや、彼女はいない。彼女が振り返る事を主人公は信じたが、それさえ無かった”かもしれない”…主人公は、そのことを確かめる事さえもはや叶わないのだ…。

 このように再経験された「距離」のあと、③主人公はきびすを返して、失われた記憶・失われた奇跡から現実へと、意志を以て互いに離隔(離反)するように歩みだす。そうして、携帯電話といった道具を媒介してのみ繋がりうる(そうでなければ「セカイ」の共有は無い)と思われていた「セカイ」(①②的な関係性)から、別の、かつてそうありえ、これからもそうありえるかもしれない偶然の邂逅に満ちた「セカイ」(③的な関係性)が、現出することになる。③にいたることで、「セカイ」の意味、現実の意味が二重化することになるのだ。後者の「セカイ」へと歩みだす事で、その予感が示されることで、新海作品は、静かに幕を閉じる。

 この①から③の一連のプロセスにおいては、いずれの新海作品も(それこそ『彼女と彼女の猫』以来『言の葉の庭』まで)共通した構造をもっているように思える。「僕も、たぶん、彼女も、このセカイの事が好きなんだと思う」。この「たぶん」を交えた距離を保つことで、初めて、新海作品の「セカイ」は、主人公による歩みを得る。

 概観は以上の通りである。

 

2、『言の葉の庭』の構造

(1) しかし、そうすると、物語の筋そのものは、どうしても「距離」というテーマの構造を描くに留まり、上記③その後の予感を目の当たりにするも、その予感とともにぷっつりと終わりを迎えさせられてしまうように思う。これが冒頭で「ある別の作品への導入ムービー・予告編のようなもの」と述べた趣旨である。

(2) この事は、『言の葉の庭』でも同様に当てはまるように思えた。15歳のアキヅキは、料理の件にあるように、現実の生活をやりくりすることに長けているが、同時にその現実にどっぷりと浸かることを堪え難く感じ、焦燥に駆られている。「靴を作ることだけが、自分を別の世界に連れて行ってくれる」。いわば、アキヅキは、二つの「セカイ」に、最初から同時所属しようとしている存在だ。

 そして、この焦燥は、27歳のユキノにも当てはまる。ユキノは、職場(アキヅキの通う高校)での学生からのいびりに耐える事ができずに抑鬱的な症状を発症した後、前に進む事が出来ずに「同じ場所」を彷徨しつづけていること(あるいは現実適合的に装うためのファンデーションが砕けてしまう事)に、類比的だ。ユキノもまた、現実の社会的身体に調和できない、孤独の実存的身体をもっており、二つの「セカイ」の間にもどかしくも引き裂かれている。

(3) 一つ異なる点があるとすれば、『言の葉の庭』での二つの「セカイ」というのは、観念的関連と物理的関連や、夢での連関と物理的連関のように次元を異にする訳ではなく、あくまでも、この一つの世界における二つのフェイズの差異として現出している点※である。『言の葉の庭』では、ユキノとアキヅキは、同じ場所を最初から最後まで共有している(御苑と学校)。

 それにも関わらず、ユキノ、アキヅキ関係において、新海作品特有の「距離」が生じてしまうのは、ユキノとアキヅキが、ともに、二つの身体を伴う二つのセカイに引き裂かれており、その2×2=4つの身体をどの身体と重ね合わせればいいかについて、混乱し、変調を来しているためであると考える。

 この「距離」構造は、これまで新海作品で描かれてきた「距離」を、むしろメタファーとして捉え帰す事を可能にする、よって現実への解釈適用を容易にするものであるが、構造としての差異は大きなものではない。

 ※この世界構造は、『星を追う子ども』における地下世界と地上世界の差異に通じるところがある。「セカイ」理解として、新海作品の推移として、「セカイ」の質的な差異から世界内部の二つのフェイズの差異への移行に、『星を追う子ども』がある、とひとまずは考えておきたい。

(4) ストーリーをおえば、次のようになる。

 このような自らに対するとともに他者に対しても2重に引き裂かれた二人を、6月の長雨が、束の間、繋ぎとめている。その雨天時の「さぼり」は、二人のあいだでの暗黙の「約束」を構成し、その「約束」は着実に履践されていくだろう。その「距離」は、物理的な意味でも(「ごつん」という足がおかれる音を交えて、寸法や角度が測られていく場面)、象徴的な意味でも(ユキノのための靴の作成)、漸次的に縮められていく事になるだろう。

 末尾、ユキノが教師である事、教師をなぜ止めたかの理由を知ったアキヅキは、”その事実を知りつつなお”、意を決してユキノへの好意を口にする。その好意を、ユキノは、半ば体面的に聞こえる理由(年齢を隔てた先生-生徒関係であること)によって拒絶してしまう。その自らの行為にさえ絶望するユキノはアキヅキへと謝罪しにいくが、好意を踏みにじられたアキヅキは、”上記事実を知ってなした”告白という歴史と感情を消すがごとくに、ユキノに食って掛かる事になる。ここから、ユキノが自らがアキヅキとの「約束」によって救われていた事を口にしつつ、遠くはなれた実家へと帰省し、手紙がアキヅキの下へと届く場面で(靴をわたす事はできないところで)、物語は幕を閉じる。

(5) この『言の葉の庭』の展開は、これまでの新海作品の構造に忠実に沿うものであるし、それを大きく越え出る物でもないように思える。むしろ、他作品よりも、末尾に裏切りの契機が集中する事で、視聴者は、その裏切りの乗り越えをかなり機械(-神)的に捉えざるを得なくなるように思えた。

 その後の展開も、現実へと帰還してなおアキヅキがどのような生活を送る事になるかは、ほぼ示される事は無い。予感は予感のままに、視聴者に委ねられる。それは、視聴者に自由をもたらすとともに、作品としての完結性を過度に犠牲にしているようにも思える。

 

3、跋

 『ほしのこえ』においては、地上と宇宙に引き裂かれた二人は、「すごくすごくとおくにいる」けれども「ここにいる」とされていた。この「ここにいる」の声は、同じ地上に在りながらも引き裂かれたアキヅキとユキノの二人にも、「雷神の 少し響みて さし曇り 雨も降らぬか 君を留めむ」 と「雷神の 少し響みて 降らずとも 我は留らむ 妹し留めば」という万葉集の『言の葉』を介することで、その字義どおり、等しく届く事だろう。

 しかし、「ここにいて」なおその予感を互いに継続して聴取するためには、つまり、更なる希望を”これから”保持するためには、アキヅキとユキノは、再度、『雲の向こう』云うところの「失われ続ける」過程に抗しなければならないはずだ。

 この抗う方法に関しては、筆者は答えをもちあわせておらず、抗い自体の予感しか、新海作品の中に読み取れずにいる。一方、上記構造把握に拠れば、いかに「失われ続ける」ものへ抗うべきか(あるいは、いかに奇跡を執り行うべきか)という問いこそが、新海作品に読み取るべき問いのようにも思われる。

 

4、補

・新海作品、映像表現の妙は、いつもどおり、すばらしい物があると思います。

・『星を追うこども』はあまり覚えてないので触れられませんでした。テーマとしては共通な気もしますが、ほかよりも尺が長いせいで、表現としては豊かな折り込みがあったように記憶しています。

・新海作品については『second after vol.2』てらまっとさんのディアスポラに関する論考があった気がするので、再読の上、加筆できたらしたい。