東 「一般意志2.0』とその後」第五回 メモ #genroncafe
東 「一般意志2.0』とその後」第五回 メモ #genroncafe
目次
1、前回の復習:
2、概観
【 (1)政治的決定とは何か?: 構造としての「基盤」→「決定」→…】
【 (2) 主体と意志との関係:「意志」の基盤となる「主体」の位置】
【 (3) ドストエフスキー『カラマーゾフの兄妹』における「今」の問題点】
3、テーマ:政治と欲望(無意識の関連づけ)
【 (4) リベラリズムの問題点:意志に対する過度な期待】
【 (5) 主体と無意識概念を関連させる必要】
4、解釈:ルソーの解釈について
【 (6) ルソー解釈①:野蛮人と「憐れみ」】
【 (7) ルソーとローティの同型性:身体のネットワーク】
【 (8) 「共感」について】
5、理論:共感と責任のねじれた関係
【 (9) 「共感」と時間・責任のねじれ構造】
【 (10) 俺たちの身になってみろ、という暴力】
6、質問
1、前回の復習:
①放置のリベラリズムとは何か?
②自己決定(主体性)とは何か?
③何故ルソーは性に関心を持ったのか?
2、概観
【 (1)政治的決定とは何か?: 構造としての「基盤」→「決定」→…】
・昨日の都議選における民主党の大敗:政治の”無党派”化の帰結
・上記②自己決定について
自分では「如何ともしがたい条件」を支持してくれる政党を選ぶこと
実はこれが政治的決定の「基盤」を作る。
この「基盤」を欠くと、無党派化することは必然。
【 (2) 主体と意志との関係:「意志」の基盤となる「主体」の位置】
・ジジェクにおける受動性
「サブジェクティヴィティ」ではない「受動的主体」
(by『否定的なものの下への滞留』)
・主体は時間を内包する。
主体性とは、時間に貫かれたサステナビリティ
時間とは「自由意志」に反する
よって、主体とは「自由意志」に反する存在である
※主体と意志のこの混同を避けなければならない。
・(図式的要約)
主体 =ストック=時間的持続
自由意志=フロー=リアルタイム(「現在主義」のこと?)
※フローだから「無党派」が帰結するのは当然
・現在には責任は伴わない
・意志を、半ば強制的に規定”してくる”ものとしての主体性
(「意志」に先行する「主体」)
【 (3) ドストエフスキー『カラマーゾフの兄妹』における「今」の問題点】
・アリョーシャの言っているのは弁証法の時間
絶対精神=「最後の審判」の中に、「今」を解消しようとする
一方で、イワンが言っているのは「今」の苦痛の除去
・アリョーシャ・イワンはどちらも「今」にとらわれている。
どちらにも「時間」がない。
アリョーシャは最後を「今」化し、イワンは「現在」を「今」化する。
・時間の一方向性
(80歳の自分がいるときには20歳の自分は「いない」)
・時間無しに政治が持続可能にならない
3、テーマ:政治と欲望(無意識の関連づけ)
【 (4) リベラリズムの問題点:意志に対する過度な期待】
・ロールズ
「無知のヴェール」=全面的な主体交換の論理
①互いが「自らの属性」を全く知らない条件を剥いだところの「ゼロ主体」(みんなが「みんな」になれる場合)において、②互いが合意できる最小原理(マキシミン戦略)
・サンデルによるロールズ批判
「負荷burden」が残る。
①差異を認め合い、②話し合う主体
・しかしなぜロールズが「負荷」を除去したか?
アメリカの多文化構造を内包していたため。
よって、強制的に「交換可能性」をプレ-インプットしなければならなかった
【 (5) 主体と無意識概念を関連させる必要】
・主体の二重性
「リアルタイムvs.サステナビリティ」
「主体に帰せられる「意識」vs.主体の外にある「無意識」」
・ベンヤミン『複製技術時代の芸術』
(エッセイストとしてのベンヤミン:同書でフロイトの無意識を生産的に読み替えた)
映画とは「視覚的無意識」を露にする装置。
低速度撮影/高速度撮影によって、認知できない物が認知できるという経験を与える。
ビッグデータ分析のはしりともいえる
・ユング「集合的無意識」?オカルト主義に回収されがち。
実際的に解釈すれば「エスニシティ」の話を強調したかったのではないか?
自己自身を規定してくる「エスニシティ」条件
・責任とか政治というのは意識的行為だと思われている
(しかし、これはリアルタイムの決定にすぎない)
そうではなく、本来は、責任や政治は時間的持続を考えることにほかならない
意識ではどうしようもない条件、自分を規定する条件のサステナビリティを考える事こそ、「政治」に他ならない。
4、解釈:ルソーの解釈について
【 (6) ルソー解釈①:野蛮人と「憐れみ」】
・憐れみの情pity
ホッブズ・ロック、とは全然異なる
ホッブズ・ロックによれば、社会(契約)は「合理的意志」から始まる
一方で、ルソーによれば、社会(契約)は「憐れみ」から始まる
・ルソーによる野蛮人savageへの好意的解釈
『社会契約論』『人間不平等起源論』『学問芸術論』『言語起源論』
文明に毒されていない幸福を見る仕方(レヴィ・ストロース「パンセ・ソバージュ」にも受け継がれる)
『言語起源論』:言語は歌から成立した:離ればなれに生きてきた人間が(身体的な音である)「歌」でコミュニケーションを図っていた、それが忘れられて「言葉」が生まれた、という理論。現在の岡野「さえずり言語起源論」にも通じる。声帯を用いる事ができるのが「人間」と「鳥類」だけだという点から、鳥と人間の「言葉」の同型性を主張するもの。人間は頭がいいのではなく喉がよかった、というところから「言葉」の起源を探る理屈。
※このレヴィ・ストロースへの批判がデリダ『グラマトロジー』、再批判がポール・ド・マンおよびスタロバンスキー
・ルソーは「身体」によって社会が作られると本気で信じていた
文学者ルソーによる「孤独」と『告白』における放浪経験
ルソーが文学・オペレッタに「性」に持ち込んで、追い込まれての放浪。
ルソーが「性」について語るところから、社会を考えなければならない。
・ルソーにおける「憐れみ」
「意識」の追及は人々をバラバラにしてしまう。
「身体」(「無意識」)が人々を繋げる可能性。
【 (7) ルソーとローティの同型性:身体のネットワーク】
・ローティ『偶然性・アイロニー・連帯』
①我々は自己の受けた「偶然性」を忘れることはできない
②それでもその偶然性を相対化できる「アイロニー」のうえに、
③「連帯」を構築しなければならない、
・ローティの公私区分:「神」の普遍性について意識が信じるということはこれまで「公」と看做されてきた。しかし、「神」を「私」化するのがローティ。
・ローティによれば「共感compassion」こそが「公」のもの。
※「共感」自体が文化的に作られていくプロセスもあるが(感情教育)、そこはあえて捨象した解釈を、ここでは採用する。
・ルソーが提起した「文学と政治」が同じ根をもつものだという解釈が、ローティまで忘れられてきた。
文学が「プライベート」だという解釈こそが誤りを含んでいた。
人が繋がるのは、政治的「イデオロギー」によってではなく、文学的「共感」によってである。
【 (8) 「共感」について】
・人が同じ思想を共有しているから社会をつくるわけではない。(いわば「ツリー」)
物理ネットワークが繋がってしまえば社会が作られてしまう。(いわば「ネットワーク」)
・「共感」への批判:共感のランダム性・無責任性?
共感は暫定的でランダム、直ぐに忘れられてしまうかもしれない。
(見返りを求めない無私性を要求されないでいられるという意味では無責任)
・すこし脇道のはなし:東浩紀-線路落下事件:
「今回のプレーは駄目だったな」という感覚
一方で、助けてくれた人たちは、リスクを撮っているし、コストも払ってる。それでも、そのような行為を無我でしてくれた。
これは「合理性」とその外部(不合理)という解釈をするよりは、端的な「共感」によって繋がれている。
・文学(欲望・あるいは「経済」)こそが公的領域
→この、コンスタティヴには「無責任」とされる行為の連鎖こそが社会を作る
政治(理想)こそが私的領域に回収されるはず
5、理論:共感と責任のねじれた関係
【 (9) 「共感」と時間・責任のねじれ構造】
・自由意思=非政治的=固有名=純粋主体
(アレント的なポリス概念)
vs.持続可能性=政治的=確定記述=属性
(アレント的なオイコス概念)
・この二つの間にあるはずの、顔の領域(欲望の領域)
解釈がまじる曖昧な顔の領域=誤配可能性の領域
※顔で判断するから間違う、という常識に適合している
・三項図式
どんなにアレント的なポリスが作られても、現実的には「属性」は顔で表示されてしまう。アレントは、固有名でありながら匿名でありうると、強引に解釈していた。
しかし、放っておけば、オイコスとポリスは融和してしまう。
【 (10) 俺たちの身になってみろ、という暴力】
・「無知のヴェール」の暴力性;
みなが「俺たちの身になれ!」と方々に言い合う暴力性
2chと朝日新聞が似ている理由:みながポリティカル・コレクトになれと罵り合う世界
・
6、質問
【 (1) 質問1】
Q) 理想は原理的に存在しないという理解にたっているのか?選民主義はありうるのか?
(オルテガの「大衆の叛逆」を参照)
A) 社会全体について、ある一つの絶対審級を決めるというのは、ほぼ無理。
現実においても市場任せにする部分が多い。
しかし、語義的には「政治」的でないと思われていた経済・欲望こそが、(物的には)政治であると考えたい。
(統治機構によるネットワークの監視は要求されるのではないか?)
Q) 最小限のリバタリアン社会でありながらしょうじてしまう、欲望の偶然的な盛り上がりをどう考えるか?
A) 社会の制約が現在は見える状態。
かつて男性と女性がきれいごとで話をしてきた。欲望が噴出していなかったため。
しかし現在では「欲望」(「民意」の暴走)が可視化されている状態。
この欲望を一定程度抑える必要はある。
A) ちょっとまとめると、
・自由意思=非政治的=固有名=純粋主体 vs. 持続可能性=政治的=確定記述=属性
という図式は、いずれにせよ「上半身的な話」(ポピュリズムもまだ「上半身」)
これに対抗するのが第三項である顔の領域:つまり「下半身的な話」を理解しつつ、それを忘れずに制度を回す必要がある。
【 (2) 質問2】
Q1) リバタリアニズムと共感の関係は?
A1) ---
A2) 人間をどう考えるか、による。直接重なるわけではない。
政治的なコミュニケーションでは、属性が全面的に可視化されてしまう(顕名性)
2ch的なコミュニケーションでは、属性が完全に失われてしまう(匿名性)
→「私の実態を見ろ」という情報押しつけ系の議論によっては、どうしたって「過剰な情報」を他の人が情報処理できなくなる領域がある。それによってこまるのは、マイノリティポリティクス系のリベラリズムを主張している人たち
→ステレオタイプ(笑い)を介したコミュニケーションで切断するのが放置のリベラリズム。ステレオタイプ(笑い)化・キャラ化によってリベラリズムを安定させる必要が在る。
→imageはステレオタイプ・キャラ化にほかならない。それを利用する必要がある。
【 (3) 質問3】
Q) 「被災以降」の絆について
A) 絆は必要と言っては必要。一方で、絆に巻き込まれすぎると困ることもあるでしょう。
写真の共有というJRによるワタリウム美術館のインサイドアウトのアート:「怒り」がなくなっている
「みんな頑張ってます」という主張・写真は有効ではない