「 チェルノブイリの現在、福島の未来」 宮台-東対談 メモ #genroncafe
「 チェルノブイリの現在、福島の未来」 宮台-東対談 メモ #genroncafe
(全体の概観)
1、観光地化についての概観
【 (1) 事故の忘却曲線に抗う必要性】
【 (2) 事故という多面体】
2、情報=チャンス=コミュニケーションの継続の必要
【 (1) テクノロジーについて】
【 (2) ストーリー・パッケージ:救いと閉じ込めの二重性】
3、無関連化と笑い(関連化)について
【 (1) シリアス/娯楽、真面目/笑いの差異を解消する】
【 (2) 笑いと欲望の関係】
【 (3) 知恵の動員にも動機が必要】
4、事故の「受け入れ」「その後」を争点化する倫理:統治権力による「分断」に抗う
【 (1) 過剰な引き受けという問題:諸例】
【 (2) 分断に抗う共同性・冷静さ】
【 (3) 今後の国際的連帯】
【 (1) 国際関係という争点と絡めた場合の「脱原発」という標語の妥当性】
【 (2) グレーな領域の中をどのように生きるのか?】
6、質疑応答
1、観光地化についての概観
【 (1) 事故の忘却曲線に抗う必要性】
・忘却=ノイズ排除(原爆ドームの前例:フィクションの繭)
→忘却さえしなければ議論が続く。
・洗礼:深く水に沈め浮かび上がらせる=沈めないこと
【 (2) 事故という多面体】
・報道の一面性の問題(今日の朝日新聞)
その反面としての、様々な言説が存在するということの厚み(混合)
「朽ちていく廃墟を博物館にしよう」vs.「風評被害こそが問題」vs.「…」etc…
→日本にも類比的:日本の一存では原発を止められない状況
(米による核の備蓄基地化状況)
→認知的整合化(…止められない中でどうすればいいか?)が生じるが、これを転用:
勝機=商機の確保
2、情報=チャンス=コミュニケーションの継続の必要
【 (1) テクノロジーについて】
・テクノロジーはもともとコミュニケーションの「ネタ」として利用されていた
・焚火を囲むようにテクノロジーを囲んでいた(宮台)父母世代
→現状はテクノロジーを巡って分断されている
→一方、テクノロジーについて「open」だからこそ
繋がれるコミュニケーションこそ、traditinalであるともいえる
→テクノロジー事故すら「ネタ」になる。
それを前提としたコミュニケーション志向。あるいは、共同体自治。
→テクノロジー・ストーリーを(閉じて)一つに束ねないことが重要
【 (2) ストーリー・パッケージ:救いと閉じ込めの二重性】
・認知的整合性・認知的不協和の帰結を転用せよ!
・人間は認知のフレーム・スクリプトを作らないと前に進めない存在
→「単一のものでいい!」という訳ではない
→複数のストーリーを概観できるということ
・日本では、「事故が「自分の物語」に矮小化されてしまう」問題
→他人に押し付けない「自分の物語」?(これは重要ではないのでは?)
→デジタル・アーカイヴによるオーラル・ヒストリーによる補足という手法
しかし、本当に人が喋りたいのはカメラの前ではない。
単なる「自分の物語」に矮小化されてしまう
→より個人的な話とともに、社会について喋りたいウクライナ人達との差異
・他の例:宮台による沖縄の調査
→同じイデオロギーを保つ事が重要ではない
→共同的なコミュニケーション(「対立」を「認識」すること)があって初めて、
ようやく迫る事ができる
→対立の「争点」が重要だという認識の「共有」がある。
3、無関連化と笑い(関連化)について
【 (1) シリアス/娯楽、真面目/笑いの差異を解消する】
・観光に行きながら遊ぶ、という混ぜ方が必要なのだが…
→例えば、アートが根付かない国、日本:
遊びでありながら介在するという二重性を、許す事が生理的に出来づらい…
・関西:ぼけを介在させながら、真面目な話しをせよという二重性
→ 一方で特権叩き問題
旧住民が許してきた「問題」を、新住民がゆるせなくなってきた
=新住民化による厳格化
→ 真面目と笑いが混在した「B級映画批評」が難しくなってきたことなど…
分断が進み、孤立が進んでいった事によって「ネタ」の共有が出来づらくなっている
在特会という分りやすい「ネタ」しか流通できないというあさましさ・さもしさ
→よって、情報の内容(message)に加えて、
コミュニケーションの回路(関係性)を開くことが重要となる
【 (2) 笑い】
・笑いとは欲望に他ならない
→デジタル・アーカイブ化されても、10000時間もあれば、見たいと思えないだろう
→誰が見に行くのか?どのくらい近いのか?
・フクシマに関する欲望を喚起できなければ、フクシマに関する忘却は避けられない
【 (3) 知恵の動員にも動機が必要】
・知識社会の罠:
情報・知識があっても、その発現機会が客観的にあるだけでは足りない。
主観的なコミットメントが無ければならない
・関西的な知恵:
「自分の保っている前提を他人が保っていない事を前提にする」
→関西には、他人とズレても笑いに変えられるという「複雑性への免疫」がある
・会津の歴史的な「貧乏くじ引き」の特殊性
(ダークツーリズムの切り札となるか?)
4、事故の「受け入れ」「その後」を争点化する倫理:統治権力による「分断」に抗う
【 (1) 過剰な引き受けという問題:諸例】
・レーニンの名を冠したチェルノブイリ原発という国家威信をかけたプロジェクト
福島第一原発の重要性との類似が認められる。(=過剰な「引き受け」)
・チェルノブイリ事故では、人々はどのように認知のパッケージに落としていったか…
その受容プロセスに注目すべき。
(フクシマの辺境意識とは異なるのでは?)
・沖縄基地の「引き受け」、受容の例(おもいやり予算)と比較
あるいは迷惑施設問題:
集合的アイデンティティが、どのように受け入れていくのか?という「争点」
【 (2) 分断に抗う共同性・冷静さ】
・脱原発できない我々が「どのように生きていくのか?」という決め方を考える。
単に吹き上がっても仕方ない。
人と人の「分断」に抗う共同性(仲良くする=争点をみなで保つ)
という知恵を作り上げる必要
・ウクライナの冷静さ・諦念:
危険廚の使う「東京はチェルノブイリ並みだ!」の誤導に載せられる現状
そうではなく、他の問題(エネルギー問題)との調整を前提とするべき。
(ex.)現状で日本はTPP交渉の米国が突きつけてきた条件に無関心すぎる…)
何かが問題化されたときに、他の関連問題をスキップしてしまう、という問題
(日本人は、戦後以来、国家的課題の共有がない)
(優先順位をまじめに検討した事がない)
ウクライナとロシアの関係は、日本と米国の関係と似ている。学べる点は多い。
【 (3) 今後の国際的連帯】
・ウクライナ、日本の事例とその解決の経路:これから来たるべき追行国のため
各国が事故の記憶・情報を共有し、連帯していくというプロセス
(地震・津波のときにはこの連帯を(日本以外は)学んだ(パンダアチェ博物館))
日本はチェルノブイリというよく似た相手の連帯意志(同博物館)すら把握できない
・災害:一国で見たら1000年に一度、しかし、国境を越えれば10年に一度
ここから、連帯・知恵の共有を図るという必要が高まる。
・ドイツではウルリヒ・ベッグの功績がある:
原発が「特殊」な予測不能・規定不能ケースであるという認識を作り上げた。
(勿論、これも専門家・素人、どちらにも分らない)
→原発は廃れ行く技術であるという認識はある。
→しかし、原発にコミットする人間を増やせないと原発リスクがどんどん高まる。
【 (1) 国際関係という争点と絡めた場合の「脱原発」という標語の妥当性】
・とはいえ、200も国が在れば、原発技術は手放せないのではないか?
超大国があれば原発技術は避けられるかもしれないが…?
・EUのような超国家ありきで、ドイツは原発を外せた
Asiaではどうか…行き先は暗い。
・争点にされるべき(汲み取るべき)問題を、政治倫理はどのように取り扱うべきか。
これは、どうしたって単一の脱原発なる答えが在るわけではない。
複数争点の中での決断があるにすぎない。
(宮台がオバマの立場にあったら、脱原発に踏み切れるかは分らない)
【 (2) グレーな領域の中をどのように生きるのか?】
・フクシマ:問題の収束ということはあり得ない
被害の実態が明らかになる事はない(今後の統計解釈に委ねられる)
よって、「問題が収束してないのに」「被害実態が明らかになってないのに」という批判は妥当し得ない。
・いずれにせよ、解釈上、グレーな領域は残る。
複雑に、モザイク上に展開していく今後の事態を、チェルノブイリに学べ。
白か黒かを決めろ、という圧力が見られる。
・今回の対談すら、一つのメッセージをもつ:
「グローバリストによる是々非々でしかない?といっている奴(東浩紀)がいる」という反論を喚起する事すら、共同体を繋げるためには大事になる。(宮台)
6、質疑応答
【 (1) 一個目:?】
【 (2) 二個目:他者論】
【東】
(チェルノブイリ関係ないけど…)
・リベラリズムは共感ではなく、放置によって基礎づけられるべきだと思う(東)
相手の身になるというのは厳しすぎる要求。
日本でなんで政治がうまくいかなくなったか?
(みんなが(自己の条件に関わらない)「意志」が暴走している?)
・政治とは何か?
自分によっては意志によっては変えられない環境条件(引き受け)を反映させるもの。
結局共感できなかった、というのが、今在る状況なのではないか。
相手の気持ちになるという命法がインフレに陥るのではないか?
・放置と関西の知恵の同型性
共存を守る関西の知恵:関西というのは差別も内包できている
共生=差別という関連性
他人のライフスタイル(夫婦別姓・シングルマザー)
【宮台】
・アメリカ思想史を知っている物からすると成る程なという感じ。
切断しておけばよかった祭りの事例:
新住民はリベラリズムとして「フェアネス」を要求しすぎている。
・もともとは、サンデルの共同体主義:
「お前の事なんてわからん」(負荷ありの主体)というのが健全な社会だった。
絆共同体=小家族主義=市場に適合的
共同体の強制には戻せない、のだけれど、他者の「痛み」を知れ。
アメリカは、共同体主義型:議論はしとこうか、という思想
・リベラリズムというのは事前の策:二流の策でしかない、ということが、忘却されてしまった事に問題がある。
リベラリズム+参加、というのが、ヨーロッパ型
・日本はどちらにもなれずに権威主義に頼り、かつ、おせっかい
距離がとれていない状態:
まずは、ソーシャルキャピタル、ソーシャルコモンズを作れ、が始まり。
【東】
・共感できない、ということを受け入れて、コミュニティを作り上げるという志向
どんどん色んな人と分り合いたい、と思いすぎている。
・無党派層によるだけでは、アイデンティティ・コミュニティなど構築し得ない
・無知のヴェール、かぶり過ぎでは?
或いは他人にかぶせ過ぎ(どうせお前、フクシマの人の気持ち分らないでしょ? というしようもないつっこみが蔓延る。)では?
・包摂性すら偶然では?それをシステム化できるだろうか?
【宮台】
・包摂性が必然のこともある:それを住民投票や考える事で改善していける。
何が自分と他人を幸せにできるのかというリアリティを保ち続ける事
リベラリズムの適切な利用法
(現状ではリベラリズムが過度に重視されすぎている)
「フェアネス」で人を叩く溜飲の下げ方をしてはならない
・自分にしか分らない前提を構築していく事が重要
「まぁひろきくんったら」というのが通用するのがルーマン
共通の前提が厚い閉域を形成しているのが「家族」
「フェアもいいけど、東なら仕方ない」という関係構築の重要性
(ここで「フェア」を言い立てる奴はアホ)
【 (3) 三個目:津田の質問】
(宮台)
変えたいのに変わらない、トイウ状況についての答えを貰えた。