書肆短評

本と映像の短評・思考素材置き場

『花咲くいろは』(TV+劇場版) 視聴雑感: 自ら名付けた名を学ぶ…「ぼんぼり方」の方法論

 

※原則として、このブログの短評群は、作品を視聴後直に(評論を見ずに)書いている。例外的にこの『花いろ』に関する記事は、TV版で見ていなかった歯抜け部分を @makito3 の『花いろ』論読了後に、補完する事になった。(通して見返すいい機会になり、とても感謝しています)

 

 @makito3 の『花咲くいろは』論を昨日読んだ。そのうち同人誌にまとめられる事になるはず、とのことであるが、とりあえずreply飛ばすのが長くなりそうなので、視聴感想とともに、まとめておく事にした。

 内容については、ネタばれにもなるし、当該同人誌(未定)を見てもらう事として、詳細の内容紹介は省く。以下では、 @makito3 でも触れられていたキーワード(「家族」「期待」「ぼんぼる」)の役割と、これを補完する緒花の「夢」概念について、ざっと検討を記すに留めることとする。

 

 

1、「家族」の成立:『花いろ』論(@makito3)の「はじめに」の部分、a節部分

 第一の問いは、劇場版における緒花-皐月-スイの家族関係において(団欒のない家族でありながら)いかにして家族の紐帯が生じるかという、家族の成立条件についての問いである。このような問いを立てるのは、劇場版のサブタイトルが「Home Sweet Home  我が家」でありながら、(TV版の13話、26話と異なり)緒花-皐月-スイが一堂に会する事はなく、皐月はスイを避け、緒花は皐月を避けつづけるかにみえるためだ。しかし、緒花や皐月は、業務日誌により、或いは母の後ろ姿により(即ち痕跡を介して)家族を探究し、同じように喜翠荘の前から走り出す。脚本担当の岡田磨理自身が述べるところの「想いのリレー」をこの探究作業に重ねて紹介するのが、a節である。

 勿論、視聴者目線からは、1時間強の劇場版の時間の中で、緒花-皐月-スイが喜翠荘の前を走る姿を、それぞれに重ねることは、そこまで難しくない。それに加えて、視聴者は、緒花-皐月-スイが互いの目的の相容れなさゆえの衝突を介しながら、再度(今度は会話を介する事なく)独立しつつの共存を確保していく様を見る事が出来る…この三者の姿の重なりに、三者共通の「我が家 Home Sweet Home」を見いだす事が出来るはずであるだろう。この指摘においては、自分も異論はない。

 なお、自分としては、この「家族」の形態が、後述する「ぼんぼり」や「夢」同様に、継続的なものではなくその都度成立しつつ続いて行く断続性を描くものとして解釈されてもいいのではないかと思う。家族は、生まれ落ちたところから所与でありながら、(意志的に、或いは意図せずに)抜け出る事が出来る、それでいて、家族が相互を想い合うとすれば、その形は、必ずしも記憶の継承や共有、土地や血のつながりといったものによるものではなくなる。そうではなく、『花いろ』における「家族」とは、その都度一回限りの生き方を、各々の家族の構成員達の前に、一見家族とは関わりを持たないように見える「仕事」を介して示すことに他ならない。

 そう考えて行くと、喜翠荘で緒花-皐月-スイの三人が偶かの邂逅をしようとも、次の瞬間には各々の離脱が予定されている…そうでありつつも、”この”「仕事」(それは、緒花-皐月-スイの「目的」や使命によって志向されたものではない「仕事」だ。)の瞬間には”同じ”方向を向く事の出来る…そのことにより関係が形成されるものとして、『花いろ』における「家族」の暫時的成立を理解する事が出来るだろう。(cf.TV版2期ラストの結実)

※ なお、本節で @makito3では「直視/斜視」という対概念を提示している。しかし、①その概念の曖昧さとともに、②その視線の主体として、特段の検討を経る事なくキャラクター(緒花)および視聴者の二者の視点が混在している点において、この提示は読者を混乱させるように思う。よって「直視/斜視」概念については再度の検討を要するのではないかと思われる。(実際、次のb節においては、緒花のずらし作業が「斜視」として捉えられている一方で、a節では視聴者が「斜視」をもつかどうかとして、問題が捉えられていたように思うのだが…。)

 

 多くの視聴者にとっての『花いろ』のイメージはこの「家族性」によって構成されるように思うことから、以上の点は、特に争いなく認められるように思う。どちらかというと、以下で検討する「期待」「ぼんぼる」そして「夢」概念の方が、より論争を誘うように思われる。

 

 

2、「期待」の系譜(b節部分)

 全話視聴後、自分としては、岡田磨理回を通じて繰り返される「期待」という語の意味変遷については、以下の(1)から(3)のように整理している。

(1) 「期待するな」という昔の母、皐月の教え

(2) 「期待する」「期待したい」という緒花の願い(以上2話)

(3) (期待を踏襲しつつ)「期待」を越える驚きを「期待する」喜翠荘に帰ってきた皐月(13話付近)

 一方で、@makito3 の論は、この(1)から(2)からの移行場面の特徴として、あえて流れを止める「嫌いな物」に注目し、この澱みによって初めて関係に意志や関係自体の変動がもたらされるものであると考えるものである つまり、この期待(2)が、「嫌いな物」(2-3話)によって初めて媒介されているというのが、@makito3 の主張である。その主張の核は、以下のとおりだ。

 「「嫌いなものを食べさせる」行為は、自分に向けられた相手の見えざる「意志」の存在に触れる機会を生み出すものだった。謝罪の為に慣習化された儀礼では相手の「意志」が宿る/宿らないが見えない。その為、一回的な儀礼を生みだす必要があったのだ。「斜視」でしか見えないものに接近し、触れようとする緒花の発想は興味深く、正面からでは擬制に留まる「他者との格闘」を斜めから行おうとする工夫がある。」

 自分なりに上記の文を解釈・拡張すると、それは以下のような主張であると考える。

 慣習化された謝罪によっては、おそらく、緒花は民子や菜子に触れる事はできなかったはずだ。なぜなら、もともと、謝罪は、これまでの来歴をキャンセルする働きを営むもので、それ以上の追及を遮断するためになされる儀礼だからだ。謝罪は、自己の内心を開示する事なく、また相手の内心を検証することなく可能なプログラム化された作業であると言ってもいい。しかし、緒花は民子や菜子のことを「わかりたい」。そうであるとすれば、緒花は「謝罪行為」を裏切りつつ、民子や菜子に迫る必要が在るだろう。それが「嫌いな物」を介する食事ゲームというわけだ。

 このゲームに巻き込まれれば、「嫌いな物」に向き合わなければならない。しかし、その「嫌いな物」を食することの意味について自省しつつ、メタレベルで相手がその「嫌いな物」を食べさせようとしたことに思いを馳せる。その食べるまでの間の思いを馳せる行為、遅延された食事ゲームの拡張は、緒花と民子、緒花と菜子の関係性を、キャンセルするよりもむしろ強化することに繋がるだろう。いわば、民子の言う「これで終わりにしてやる」(=関係性の「終わり」)は、民子の気づかぬうちに延び延びにされているのである。

(自分は、上記の場面をみても、単に関係構築の一場面かなと思うだけだったので、この点、新鮮な指摘に感じられた)

 

 さて、一方で思うに、「嫌いなもの」を媒介にしつつ”意志”を生じさせるコミュニケーション形態を検討するにあたっては、①2期末尾の24話の民子による緒花へのお弁当が開けられる場面(民子が嫌いなほうれん草のおひたしの味見の上で弁当をつめた場面)、および、②孝一が「苦手」な珈琲を飲む場面(孝一が珈琲を「苦手」な理由・記憶が氷解していく場面)、を検討することで、なお広がりが生じるかもしれない。

 ①民子の弁当は、喜翠荘の閉鎖と母との再会という新たな局面に向かう緒花に対するエールとして、「嫌いな物」の味見の上に成立したコミュニケーション過程を可視化してくれている。それは、一旦は母の夜逃げとともに断絶した皐月-緒花の関係、次に、居場所としての喜翠荘がなくなるかもしれない事態におけるスイ-緒花の関係を「終わらせない」ために、「嫌いな物」によって関係を動かし続けるためになされたものだ。

 また、②孝一は、今の「仕事」とともに動いている緒花(の”封切られない”映画…作成途中で”未完”の映画…の映像)をTV画面で見るとことで、かつての孝一(=緒花と離別することになった場面(マクドナルド)を想起させる珈琲をトラウマ的に回避していた。)を、固定した珈琲(緒花)の記憶から解き放ち、今の緒花に会いに行く事を意志を形成した。封切られない映画の緒花は、今も「仕事」の途上にいる。その途上の緒花を孝一は捕まえなくてはならないと決意する…

 このように、①②のいずれも、固定させられそうになる、或いは既に固定させられたコミュニケーションを溶かし、別のコミュニケーションを作り上げるプロセスへと向かわせてくれるのだ。

 

 

 更に、もう少し言えば、「憎たらしい母親」という像についての、緒花-皐月-スイの関係も、これと同型に見る事ができるだろう。

 「親が正しくないのは幸せ」だと皐月は表現していた。おそらくこれは、親であるスイが「いつだって正しい」皐月のケースであれば、(スイを避けようとする)反抗行動を介しては(本当は戻りたい、スイのようになりたいにもかかわらず)「正しさ」へと向き合う事が困難になるためだ。反対に、親が「正しくない」緒花のケースでは、(皐月を避けようとする)緒花の反抗行動によって、一周して「正しい」スイの下へと、自然とたどり着く事が出来るためだ。だからこそ、皐月は、「正しく」、母と祖母との関係を再度取り結んだ緒花を見て、「緒花に先、こされちゃった」と、嬉しさとともに嘆息を漏らすのだろう。

 この上で、13話、(スイの泥酔により)”届かなかった”皐月の「いつまでも憎たらしい母さんでいてよ」という言葉は、遠く26話にこだまして、スイからの「憎たらしい母親で居続けてやるよ」という”直の”応答(しかし表現上は斜めからの応答)を得る…これに「ありがとうございます」で”直に”応答する場面において、視聴者は、スイ-皐月(緒花から見れば祖母-母)の母子関係の結実を見る事になる。スイ-皐月関係は、単なる”直の”応答を与え-受けとるとすれば、これまでの対立の歴史をキャンセルし、無かったものにされてしまう。だからこそ、皐月が「いつだって正しい」スイのように、あるいはまっすぐな緒花のようになるのではない形で、(表現上は斜めからの、態度上は直の)応答を受け、(これまでかつ)これからの関係を持続させる時間を得ることによって、ようやく母子関係を一回りさせる事が出来るのである。

 

 期待は期待内容によって相手を縛るために在るのではない。期待によって、相手がどのように変わっていくのか、その道筋を示し合うための時間の遅延をもたらすために、存在している。期待の形成過程を期待すること、(1)から(2)の過程は、(3)のプロセスまで包含する事で、初めて、関係へ時間をもたらすことができるだろう。

 

 

3、「ぼんぼる」の系譜(c節部分)

 さて、最後に、緒花が自ら名付け、自らに言い聞かせる「ぼんぼる」という造語について検討しよう。@makito3 では、緒花の「ぼんぼる」の意味は、不確定なまま最終回まで先延ばしにされている、とされる。これは、「ぼんぼる」という緒花の想いの意味が固定していない(固定し得ない)状態を指示している点では、妥当である。

 一方で、自分としては、2、と同じく、全話を通じて繰り返される「ぼんぼる」という語の意味内容の変遷に対する言及なくして、分析はできないと考える。現状では、自分は「ぼんぼり」概念について、ひとまずは、以下のように整理している。

 

(1) 当初の「ぼんぼり」(4話?):

 「頑張る」の代替語としての名付け

(2) 非-反省的「ぼんぼり」(11話・12話):

 「ぼんぼる」の自分ばかり性、ぼんぼる気取り性

(3) 離隔的「ぼんぼり」(12話):

 「こうちゃんをふりまわしたくない」「日常が(東京からは馴れて)もう(喜翠荘に)ある」という自他断絶的な「ぼんぼり」。「諦め」型の「ぼんぼり」。

(4) 共感的「ぼんぼり」(21話・22話):

 「片思い」的「ぼんぼり」。民子と徹を引き合わせようとする”ときの”緒花が見ていない「徹の気持ち」、徹と緒花を引き合わせようとする”ときの”民子がみていない「緒花の気持ち」に、それぞれが気づき、その気持ちへ向かおうとする「ぼんぼり」の形態。複数の気持ちの人称転換を逐一行う「ぼんぼり」の形態

(5) 共闘的「ぼんぼり」(24話・25話):

 「変わらなきゃいけない」という「窮屈すぎる」ぼんぼり、敵と味方を区別するぼんぼり(敵を中心化した、「女将さんばっかり見た」ぼんぼり)、勝敗に裏打ちされたぼんぼりの形態

(6) 可変的な「ぼんぼり」(13話・25話・26話):

 「守るため」に「変化」し続ける「ぼんぼり」の形態。「孤独」でありながら「本当のひとりには絶対にさせない」、「自分で見つけて、自分で作って行く」「ぼんぼり」の形態。

 時間の流れの中でその場(と空気)を作り続けるスイ・緒花(「自分だけじゃみつからなかった、いろんなひとのぼんぼりが照らしてくれたから」、「私を夢見てくれる孫もいる、許されるなら「もう一度」「もう一度」…」)と、その場を共有する事ができる喜びを享受する菜子達(「女将さんは自分が走れる人だから…夢をもっている人について行く事、それが夢になる人だっているんだから」)という二層の「ぼんぼり」によって構成される

 上の「ぼんぼり」読解のために必要なのは、( @makito3 ではあまり触れられていないが、)おそらく「夢」についての各人の見解である。

 

 

4、「夢」について

 視聴後に思うに、『花いろ』の緒花において、「夢」は見られるものでも、生きられるものでもない。「夢」は現実を忘れさせるものでも、現実にとって変わるものでもなく、現実を作り上げる方法に他ならないのだ。以下、詳述しよう。

 このことは、喜翠荘の閉鎖がスイにより告げられた際、それを守ろうとする24話以降をみると、よく比較できる。緒花を除く従業員は、喜翠荘の在りし姿の「夢」を見、喜翠荘を守るという目標に終始する。それは、無茶な客とりによって、「仕事」を回す事もままならず、喜翠荘の従業員たちの関係性を「喜翠荘」に注目させすぎる事で、逆に功を奏しない。更に、ぼんぼり祭りの「願い札」に書くべき「願い」さえも”書き忘れて”しまう。「願い」を見て見ぬ振りをしてしまうのだ。

 しかしこの事は、既に見たように、記憶の喜翠荘をむしろ固定し、それを逆説的なことに、「終わり」にさせる行動に他ならない。スイが既に13話で指摘していたように、喜翠荘を「守る」ためには「変化」を呼び込む必要が在る。喜翠荘を変えないためには、その維持のための弛まぬ変化が地下に横たわっていなければならない、その「守る」「変化」という運動に、従業員たちの目的適合的(に一見見える)行為は、合致していないのだ。

 従業員たちの目的適合的行為は、喜翠荘をただ(対-スイという名目の下に)闇雲に変化させる事や、逆に在りし喜翠荘を(今において)ただ維持する事にしか繋がらない。(これは作中の「Say anything」=すべてが現実に適合/調整される関係、が招いてしまう(縁-崇子の旅館経営を巡る)不協和(=崇子の平手)とも重なるところである。)

 それにもかかわらず、喜翠荘を表面上守ろうとしない緒花に対し、徹が「変わったのは喜翠荘じゃなくてお前だよ」と罵る時には、(5)の徹はその意志に反して、喜翠荘(の場所性)を破壊するものであるといえるだろう。

 

 しかし、そうであってはならない。みんなの「夢」たる喜翠荘は、緒花のように、喜翠荘それ自体(あるいはその象徴としての「女将さん」)を注視することなく、「お客さん」ごしに、その接客の度ごとに垣間見られるものでしかない。というよりも、その接客の度ごとに成立するものでしかない。

 喜翠荘とその仕事が従業員たちみなの合作であったとしても、その「ぼんぼり」「夢」が、「お客さん」を見る事からはなれてしまえば(つまり、喜翠荘の「夢」を見る事に終始してしまえば…)、「お客さん」を介して繋がれていた喜翠荘という共同体は(その時間的・構造的な可変性にしたがい)たちどころに消えてしまうだろう…

 だから「夢」は、かつての(東京で孝一と話していたときの)緒花の独白に表れているような「現実的な」もの、であってはならない。『花いろ』の緒花の願い札に書かれた「夢」は、属性に還元できないという意味でフィクショナルな、そして、現実にはそうはなりえないという意味で突拍子もない、「四十万スイになりたい」という「夢」でなければならなかった。ここに至って初めて、「夢」をもつことの意味は、「ぼんぼる」の(5)の意味から(6)の意味へとシフトする。

 「女将さんのように仕事に誇りを持って、一生懸命になって、ちょっと子どもっぽくって、いつまでも一番最初の気持ち、最初の夢を”忘れ”ないで、そんな風になりたい」、そのように緒花は願い、「お客さん」へと向かうのだ。

 

 願いを”忘れて”現実に向かう従業員らと、”忘れない”ことを願い夢見る緒花が違うのは、この「ぼんぼり」と「夢」の関係の取り結び方においてである。「夢」を現実に還元してしまえば、「夢」は現実の中へ霧散してしまうだろう。しかし、緒花によれば、「ここ(喜翠荘)じゃなくてもきっと、どこでだってドラマは起こせる」。その「夢」「ドラマ」に向けられた言葉は、場を固定せず、殺さず、「終わり」にせず、かといって喜翠荘の閉鎖という現状追認に堕しないための、変化の呼び込み行為として機能するだろう。

 この変化の呼び込み、「夢」を彫克するために(6)の「ぼんぼり」は機能する。それは、第一に、(1)での名付け行為に始まり、(2)で他人の願いを見ない事を排除しつつ、(3)むしろ他人との接触を断つミニマリズムへと帰着する。しかし、第二に、(4)そのミニマリズムで排除されていた自らの思いに気づくとともに、(6)自らを可変的な「夢」へと開いて行く事へと、向かうだろう。それは(5)の他者から見れば、現実的に妥当ではない「夢」物語に見えるかもしれない。それは「孤独」に見えるかもしれない。しかし、そのような罵倒をうけてもなお、みなで顔を向かい合わせることなく作り上げられる「夢」がある。その「夢」が、そのたびごとに、一回毎に、喜翠荘の名のとおりに、誰かを「喜ばせる」場を作り上げる可能性を開くのだとすれば、その「夢」を現実のプログラムに堕してはならないだろう…

 『花いろ』において喜翠荘という場所は「夢」としてしか現前しない事が示された。それは現実の我々にいきる家族、場所、関係性、義務etc…についても、「現実」と「夢」の交錯として把握しなければならない事を示唆するだろう。かいま見られた「夢」を保持するためには、固定する”記憶”に抗するとともに、”忘却”に抗しなければならない。それが、自ら名をつける事で「現実」を二重化した緒花独自の「ぼんぼり方」の方法論であり、「夢」を弛まず作り上げるための方法なのである。緒花はみずから名付けた「ぼんぼる」に込めた意味を、「終わり」にすることなく、自ら学んで行く。ここにこそ『花いろ』の妙味がある。