書肆短評

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劇場版『Steins;Gate---負荷領域のデジャヴ』視聴感想:痛みとともに可能世界の記憶を保持・生成し続けること(仮)

「大幅に書き直して、別紙掲載予定」としていましたが、掲載がずいぶんさきになりそうなので、ここに載せておきます。

 

 

1、雑感

 

 劇場版『Steins;Gate』は(ひとまず原作を措くとすれば、)TV版『Steins;Gate』の続編として、その1年後からの世界が描いている。

 

 ざっくりといえば、TV版は岡部倫太郎視点から牧瀬紅莉栖の救出劇・世界線の選択劇を描いた物語、劇場版は牧瀬紅莉栖視点から岡部倫太郎の救出劇・世界線の収束劇を描いた物語である。前者では岡部倫太郎が、後者では牧瀬紅莉栖が、互いの救出を図ることで物語を駆動させていく。

 

 劇場版は、視点変遷を経てTV版の上に物語を重ねてくれる点において、人称転換の群像劇として、ひとまずは楽しむ事ができる。

 

 

 

2、劇場版の特徴について

 

 一方で、劇場版は、上記群像劇に留まるものではない。劇場版は、観測主体であるキャラクターが同時に世界線の間を移動する主体であるというTV版でのモチーフとは、異なるモチーフを扱っているためだ。

 

 TV版では、まゆりの救出を図る事(それ自体ラボメンの一旦なしえた幸福を逐一解除する事で辛うじて成立している。)で不可避的に招来されてしまう牧瀬紅莉栖の死という結果を回避するために、岡部倫太郎が偽計(「”最初のお前”を騙せ。世界を騙せ。」)を講じる事で、複数の可能世界の内からSG世界線を選び抜く…その脱出路が模索されていた。

 

 それに対して、劇場版は、その選び抜かれた完成後の世界における岡部倫太郎の消失から物語が開始する。劇場版で、牧瀬紅莉栖は(岡部が紅莉栖を観測できたようには)岡部倫太郎を観測できないし、世界線の間の移動もできない…あくまでも世界線の間の移動をするのは岡部であり、それを観測しようとするのが紅莉栖であるという視点分離の点において、TV版とは異なる。

 

 ここから、牧瀬紅莉栖は、移動(複数世界を平等=等し並みにみてしまう移動経験)によって”この”SG世界線に定位する事ができなくなった岡部倫太郎を、SG世界線から(r世界線へと)はじき出された「迷子」の岡部倫太郎を、”この”SG世界線に留まりながら観測し続けることに注力する。

 

 以上より、劇場版のモチーフの一つは、複数世界線からの一つのものの選択法にではなく、複数世界線への経路を持ちつつ単一の世界へアンカリングするための観測作業法にある。(カント原理からライプニッツ原理へと言い換えることもできそうだが、これは措いておく。)

 

 

 

3、牧瀬紅莉栖の観測作業法について(1):デジャヴ概念について

 

 なぜ岡部倫太郎がSG世界線からはじき出されたかと言えば、岡部倫太郎が(鈴羽云うところの)「デジャヴの過負荷状態にある」ためであった。

 

 デジャヴとは、通常は、短期記憶と長期記憶のずれが引き起こす脳の記憶異常のことを指す。しかし、劇場版『Steins;Gate』においては、この時間のずれは、脳における情報処理のずれ(時間の折りたたみ)ではなく、世界線の間の事態のずれ(世界の折りたたみ)に置換、同視される。つまり、劇場版の世界では、複数の時間軸が蓄積したあり得たかもしれない過去と未来が、収束・拡散させられたデットストックとして「デジャヴ」の形で時たま浮上する…。劇場版『Steins;Gate』はそのような世界像を採用している。

 

 岡部倫太郎は多様でありながら孤独へと誘うデジャヴに取り憑かれており(=「デジャヴの過負荷状態にある」)、客観的に成立しうる複数の世界の中に同時に漂う事で、いずれが現実の世界なのかを識別できないでいる。通常は孤独から救うための多様なコミットメントの契機を持ちながら孤独へと誘われる理由は、多様な世界のうちで複数のいずれの経路を辿ったかの来歴については距離が残り続けるためだ。

 

 

 

4、牧瀬紅莉栖の観測作業法について(2):デジャヴに対する4つの態度

 

(①対応:「夢」の否定)

 

 そのデジャヴの浮上(顕在化、現勢化)を、岡部はまずは否定しようとする。まゆりが、岡部による別世界線における救出劇を思い起こそうとするとき、岡部はそれを単なる「夢」に過ぎないとして棄てさせようとすることが、この態度を顕している。

 

 しかし、冒頭主題歌にもあるようにこの「夢殺し」は失敗する。「夢」は別の世界線の現れであり、口上の否定によって存在を抹消する事はできない。現実とされたSG世界線には、岡部倫太郎サイズの新品の白衣が、岡部倫太郎から贈与されたマイスプーンが痕跡として(或いは痕跡の痕跡として)残る。「記憶はコントロールできない」。

 

 それでも、岡部倫太郎が否定を続けるのは、「夢」の探究はその探究者をデジャヴの過負荷状態に不可避的に誘うと考えるためである。

 

 タイムマシンがある限り、過去改変は「可能性」として見えてしまい、「人は何度でもその可能性に賭けてしまう」。その「可能性」へと自己を投じる事が、精神を摩耗させ、孤独を増幅する…。それゆえに、岡部倫太郎は牧瀬紅莉栖に、岡部の事を「忘れろ」と主張することになる…

 

(②対応:「夢」の否定の否定

 

 勿論、このような岡部の願いを、紅莉栖は受け入れられない。そもそも、このような可能性を紅莉栖が認識し得たのは、「夢」のデジャヴ(「夢の様な夢ではない記憶、現実であって現実ではない記憶」)を岡部と分有しているためである。その「夢」「可能性」をなきものにすることは、岡部が「放っておいたら消える」ままに任せる事であり、その「生きた証を失う」事、「生きた意味も失われてしまう」事を意味する。それは「死ぬよりも残酷な事」であることから、到底紅莉栖は受け入れられない。岡部消失後、紅莉栖が、あたかもTV版での(まゆり死亡時の)岡部のように、「夢」を思いだすや否やドライバーを手に取り、タイムマシン作成へと乗り出そうとする様は、「夢」の否定の否定という出口のない状況といった感覚を与える…

 

(③対応:「夢」の忘却行為)

 

 この紅莉栖の探究行動は、まゆりによって「辛いだけだと思う」とされ、この後、牧瀬紅莉栖は一旦は、現実と「夢」とを峻別し、もはや「夢」に立ち入らないようにと決意する。紅莉栖が、「紅莉栖とまゆりが生きている世界」を生きる事を、「岡部が願った事」として、了解可能なものへと変化させてしまうことが、この作業に当たる。紅莉栖は「現実としてこの世界を受け入れ」、「ただ先の解らない将来に向かって歩こう」とする。つまり、ただ単に、”時間的な意味において”先が解らないだけの将来であるという含意が、この独白にはある。「これがこの世界線の現実」と牧瀬紅莉栖は言うが、牧瀬紅莉栖はここで岡部倫太郎の喪を執り行い、終わった事へと向かわせてしまいそうになるのだ…

 

(④対応:「夢」の二重の重ね合わせ)

 

 しかし、この上で、牧瀬紅莉栖は鈴羽によって、この忘却行動さえもはみ出す将来の牧瀬紅莉栖の行動を予示する。牧瀬紅莉栖は未来において「いずれにせよタイムマシンを作ることになる」、それも(極めて異常な事に)「タイムマシンを使用してはならない」という条件付きでである…。

 

 牧瀬紅莉栖の複数の衝動は未来において、②対応と③対応の間で矛盾し続ける。それはあたかも、①対応を希求しながら、牧瀬紅莉栖に「海馬に残る記憶」を2度にわたって植え付けた岡部倫太郎の矛盾行動を反復している様である。

 

 ここから牧瀬紅莉栖は、倫理的葛藤を飛び越し、SG世界線の内部から、いかに観測者たる岡部倫太郎をいかに”この”現実の世界へと収束させうるか、岡部倫太郎にいかに”この”現実の世界を与えうるかを模索することになる。

 

 「痕跡がなくとも」「思いは世界線を越える」。一方で、「思いは世界線を越えても、事象は収束してしまう」。そうである以上、事象を変える事で「思い」を届け、識別するための記憶を与える事はできない。つまり、「思い」は既存の記憶を変えてはならず、新たな記憶を付与する者であってもならない。ここから得られる方法は、「世界への干渉にならないように」この世界戦が「他とは明らかに違うという記憶を一つだけ植え付ける」というものだ。

 

 そして、牧瀬紅莉栖は、まゆりにかける言葉をもたない(迷子の)「5年前の岡部倫太郎」創作に、一つだけ、創作を付加する。それが「鳳凰院凶真」のストーリーを岡部倫太郎に与える事だった。牧瀬紅莉栖は「鳳凰院凶真」のストーリーを聴かせ、そのストーリーに照らして行動することができる「可能性」を作り出した。TV版にも既に明らかなように、牧瀬紅莉栖の助力がなくとも、いずれにせよ岡部倫太郎は「鳳凰院凶真」のストーリーを作り上げる事になるわけだが、原初のモチーフ(動機)が岡部倫太郎の創作に挿入される事になったのである。知っている記憶が知っているものになるというデジャヴを彷彿とさせる経験を、「海馬に残る記憶」とともに、牧瀬紅莉栖は導入する。

 

 

 

5、牧瀬紅莉栖の観測作業法について(3):結論

 

 この後は、もはや論ずるまでもないように、「どこにいても私が見つける」「あんたが私を観測し続けてくれたように…」という牧瀬紅莉栖の言葉とともに、牧瀬紅莉栖と岡部倫太郎は揃ってSG世界戦へと帰還するだろう。それは「鳳凰院凶真」のストーリーがSG世界線上で与えられたものでありながら、自己の選択になっていたという二重の経験が呼び起こすアンカリングの経験である。と同時に、「鳳凰院凶真」というフィクションを分有する事で、初めて、暫定的に現実が共有されることになるという事態をも、この観測作業の形は予示している。

 

 「現実」はこのSG世界線であるだろう、しかし、なお「夢」は複数残るだろう。それであっても観測によって、その観測のデジャヴとともに、牧瀬紅莉栖は岡部倫太郎を見いだし、このSG世界線へと新たに連れ出すことができるだろう。それが、この「夢」を巡る牧瀬紅莉栖の態度の最終帰結となる…

 

 SG世界線において「夢」は「現実」と同等の地位を持つ。「夢」は排除すべき対象でもなければ、「現実」における慰みとして存在するわけでもない。「現実」の別の形として、「現実」を脅かすものとして、それでいて「現実」に対する態度を更新する足がかりとして、「夢」の実存を筆者は信じる。そして、この「夢」の実在への信念によって初めて、視聴者は、単一ならざる「現実」の重畳性を自省することへと、誘われるように思える。

 

 世界線の移動がない現実は、あり得たかもしれない可能性に対する「痛み」がなく、ある意味ではチートをしていると評価する事さえ出来る。

 

 激しいデジャヴの痛みの中で、「どこにいても私が見つける…あんたが私を観測し続けてくれたように…」、そのように牧瀬紅莉栖は言葉を差し出していた。視聴者もまた「死ぬ事よりも残酷なこと」である存在の忘却に抗して、劇場版の予後を思いだし、現実ならざる「夢」を現実へと重ね、追想する「痛み」とともに、不在の存在を観測し続けなければならないのかもしれない。

 

 

 

6、(ほかメモ)

 

・劇場版では、複数の可能な世界のなかから”この”現実の世界に至るためには、(岡部的な)多様な世界のうちから統一性客観性を選択することではなく、(牧瀬的な)世界開闢が要されることが、帰結する。そして、視聴者は、TV版の岡部的な可能世界間移動、劇場版の紅莉栖的な世界開闢のいずれの位置からも世界を眺めることができてしまうことへの反省へと、誘われることになるのではないか。

 

・物語の外部を持たないキャラクターを救済するためには、その不在の存在の観測を継続することこそが必要な作業であるように思う。もともと、二次元キャラクターは物語の外で、物語の外の生活を営まないために、生身のアイドルが自動的に救済されてしまうのと異なり、忘却に抗して救済されることなしには、金輪際、救済のチャンスを持たない。

 

・キャラクターを二次創作で物語外に引き抜いても、キャラクターを救済した事にはならない(本編では絶望したままである…)。よって、キャラクターを物語の内部で救済することが要される。

 

・なお、この作業は、生身の我々もまた現実においておかしがちなキャラクター化を排除するための思考の支えとなるようにも思う。