読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

書肆短評

本と映像の短評・思考素材置き場

5/25 「すべてがちょっとずつ優しい世界」展 西島大介×水野祐 「Magic and Law―複製芸術における権利の境界線」に伺ったメモ(5/28加筆完了)

5/25 「すべてがちょっとずつ優しい世界」展 西島大介×水野祐 「Magic and Law―複製芸術における権利の境界線」に伺ったメモ(5/28、加筆完了:主に問題提起2以降)

 

1、概要
 西島大介さんの「すべてがちょっとずつ優しい世界」の展示が現在(~6月8日まで)行われている。場所は、両国のAI KOKO GALLERYというアパートの一室(6-7畳くらい)(大変アットホームな展覧会でした)
 展示されていたのは、漫画・原画には収められていない、6cm×6cmを中心とした特徴的な正方形の作品群。「すべちょ」の原画がコピー・印刷を見越して粗く塗りが施されているのに対して、今回の作品はコピーに抗するようにきわめて丁寧に作られている。そして、壁にかけられた作品のすぐ下の床に、「すべちょ」の原画がばらまかれており、観客は、この原画を踏みつけ、また手に取ってじっくり見ることもことができる。
 このような形で展覧会が催されていること自体を反省的に考察する視点を含めて、5/24の展覧会には9人目の「誰かさん」として弁護士の水野祐さんが招かれ、西島さんと議論を交わしていた。論題としては「複製芸術における権利の境界線」が掲げられていたが、著作物についての権利処理関連の話題にとどまらずに、西島マンガのもつコピーとしての、またコピーの後に向かう先を見据える創作態度全般についての解読がなされていた。

 以下は、その議論のうち、個人的に気になった部分について、検討解釈を加えた部分のメモである。

 

2、問題提起1:著作権が発生しにくい西島マンガの記号性・抽象性

 著作権は作品を作るだけで、無方式で自動的に、発生する権利である。このことは現在では揺るがない前提とされている。しかしこのことは、すべての表現物に著作権が付与されることを保障しない。それが「ありふれた表現」であれば、独自の表現として区別することができないためだ。
 そうすると、マンガ表現について考えると、キャラクターや絵柄には著作権は発生しやすいといえるが、フキダシや抽象的なキャラクター性、コマワリや構図、背景には著作権は発生するのかは判然としない。さらには、ネームは、作者と編集の共同著作物か否かなど、複雑な問題が生じてくる。

 ここから、マンガ家の歩む一つの方向として、(1)印刷を経てなお爪痕が残存するオリジナリティーを希求する方向が考えられる。(大友克洋松本大洋五十嵐大介などの名前が挙げられていた。) この試みが持続するか否かは別として、オリジナリティーによる訴求力は、一定の成功を収めているし、今後も一定程度そうであり続けることにかわりはないだろう。

 これに対して、西島マンガは、書き込みが極端に少ないキャラクターを使用することで知られる。そうすると、(単純に)書き込みの要素が少ないという理由で、著作権が発生しにくい著作物を西島は作成していることになる。その理由として、おそらく西島は、原画のラフさが印刷物に至れば消滅してしまうという”原画なしの作品”という、漫画表現の避けられない性質を、自覚的に保持しようとしていることがあげられる。つまり、西島マンガの方向は、(2)オリジナリティーが欠如することが避けられない環境のなかでいかなる作品を作るか、という問題意識に支えられている。それは、マンガのテーマの上でもそうだし(ex.世界の終わりの魔法使い』:「影」に価値は宿るのか問題)、表現の上にもみられる。後者について、可能な限り図像を切り詰め、単純にすることで、はじめてマンガがコンセプチュアルなものになる、と西島は考えているようにみえる。

 この点にこそ、西島マンガ独自の批評性があると、水野は指摘する。西島にはオリジナリティーに対するある種の諦念が横たわっている。オリジナリティーがあるとすれば、それはすでにコピーされたものとしての薄められたオリジナリティーでしかありえず、パクリのパクリのパクリの…という経過を経たものでしかありえない。そのようなメタ性を折りたたんだ表現として西島マンガがある、という指摘だった。

 

3、問題提起2:西島マンガの記号性・抽象性のもつ(反転した)創造性

---(1)の方向性---

 もちろん、戦略上は、(1)の方向性のほうが、一見したところ、より強固な訴求力を持つように見える。しかし、その一方で、(1)の方向は、逆説的なことに、訴求の力の優劣による区分、その区分された者同士の対立を生み出し、共同体を閉じる方向に向かうように思える。やや抽象的に言うならば、(1)の方向性は、(本来、作品を受容してくれる一つの)共同体を、その部分たる複数の共同体に分割し、部分共同体内部での(当該作品の、当該作品の評価の)共有関係を強固にすることで、部分共同体を自ら閉じこもらせ、部分共同体の衰退(飽きや忘却)とともに作品も巻き添えにしてしまう。(1)の方向は、閉じた共有の仕方、言い換えれば、「open」でありながら閉じた共同体を作り出すものだといってもいいだろう。

 (もう少し、言葉を足すと…) 一般に、オリジナリティーを希求するということは、テーマとしては、ほかに代えがたい作品を作り出すことに向けられている。つまり、テーマとしては(一応)「close」な作品を作り上げることに注力しているはずである。しかし、オリジナリティーを希求することは、同時に、それが共有される受容環境については、批判的に検討することを要しない。テーマ的には「close」に見える作品がある一群の人には容易く共有され、また別の誰かの反発を生むことに通じる(閉じるとともに(排他的な)親密さをopenと称するようになる)。即ち、テーマとしては「close」であることを「ネタ」や「売り」(=open)にして、受け入れる事を可能にしてしまう。しかし、受容環境・受容態度は何も変わっていないので、その「close」さを受け入れる「open」は、あくまでもその「close」な部分共同体に留まってしまう。それゆえに、(1)の方向では、ある種の人々が共有する閉じた部分共同体が再生産されること、作品がその共同体に専有される一部になってしまうことを、避けることはできない。

 要するに、(1)の方向は、作品を共有しようとすることで却って閉じてしまう(再参入を封じてしまう:部分共同体とともに記憶され-部分共同体の衰退とともに忘却される)、という振る舞いを止めることができないように思われる。

「「close」な作品を理解するopenな我々」というcloseな部分共同体が再生産されてしまうのである。

(メディアミックスによる共有のされやすさ、は同時に、閉じた炎上体質と表裏一体のものになりがちなことも、この例として挙げられるだろう。)

---(2)の方向性---

 これに対して、(2)の方向は、そのままでは閉じたテーマについて、技法として単純化・記号化を繰り返すことにより、受容環境そのものをopenにすることにその志向が向けられているように思われる。

 (西島マンガの方向であっても)テーマ自体がopenで解りやすいというわけでは勿論ない。しかし、西島マンガにおいては、閉じたテーマを環境とともにopenにする営みとして、その環境改変過程として、作品を作ることを志向しているのではないだろうか。closeなテーマであることを読者に認識させない筆致のもとで、受容する共同体を閉じる事なく開いていく志向性が認められるのだ。

 (もう少し、言葉を足すと…) (2)の方向を押し進める西島マンガは、その図像において、その語り口において、一見すると取っ付きやすい。ある種の記号化を経て切り詰められた西島の表現技法は、共同体の分割を引き起こす事なく多数人がマンガを手に取る事を可能にする。それと同時に、その表現の抽象性により、特定の記憶からこぼれる事なく、ある種の残像・コピーとして他の表現を観たときに(西島マンガを)思い起こさせる、想起の作用を引き起こすことになるだろう。

 (筆者の誤読を恐れつつ敢えて言えば)西島マンガは、部分共同体間の憎悪と闘争(炎上・怨恨)によってではなく、共同体の大気(atomosphere)にふわふわ漂う亡霊的な作用・既視感を、読者に対して引き起こす。それ故に、亡霊としての西島マンガが彷徨う道筋に沿って、作品がopenでありつづけるように作品を自生・流通させる環境が整えられつつある…そのように私には思える。

 

4、問題提起3:流通と権利:CCと非炎上性:ひらめきマンガ学校という試み

 この西島マンガの表現上の特性は、おそらく、水野の展開していたCCによる流通拡大方針や、流通-再生産過程についての西島の試みである「ひらめきマンガ学校」などと並行している。

 (1)のオリジナリティーを希求する芸術作品が、大きさに比例した値段がつくという半ばマッチョで数字に依拠した世界観に寄り添っていたり、あるいはある種のデモ運動が動員数(物理的訴求力)の力比べ状態になっている状態は、「openさの拡大」という目的に駆られた閉じた部分共同体相互の争いを、止めることなく寧ろ加速させることになる。一過性の話題形成や炎上商法、それらの断続的な持続によって「open」でありつづけようとすることは、その部分共同体の(たまさかの)生存・闘争に依拠したマッチポンプ構造ゆえに、成長の限界を持つだろう。

 (2)西島はより穏やかに、受容可能性自体を広げるような試みに移行している。西島自身の非炎上体質もあいまってか、炎上によって成立する一過性の共同体ではなく、何度もコピーを繰り返すことが可能であり、そのコピーが受容されていく過程を内包する事で、時間を通じてなお残存する抽象性への期待が、西島の作品と実践には込められている。

 例えばひらめきマンガ学校においては、肩書き上教師であるはずの西島は「なにもしない」。あたかも西島自身が亡霊として、黒子的存在として、学校と呼ばれる抽象的な場に浮遊しているようにも思える。ただその作家が集合する環境があることで、ゆるやかに変化を生じさせるような場(大気)となればいい。そこには、確固とした作品を中心とする階層的な共同体ではなく、作品を生じさせた大気の下でゆるやかにつながった未来の作家群・作品群を、絶えず(変容を受け入れてなお)生き延びさせることへの意思が感じられる。

 そもそもひらめきマンガ学校自体が、物理的な学校とは違い、たまさかに成立する十数日の間の講義であることもまた、学校そのものの亡霊性を際立たせるように、私には思える。そこでは学校や教師は大気(atomosphere)の中に溶け込んでおり、その場で息を吸う事で、生徒たちのマンガの中に、そのコピーを薄らと残していくかのように思えるのだ。

 

5、問題提起4:西島大介のもつ両義性:作家性の否定の裏に(そっと)置かれた、不可視の作家主義

 以上のような(2)の志向を、ネット環境によって変わりつつあるマンガという媒体やマンガ制作過程にも重ねることはできないではない。

 かねてより、サンプリングのような手法は一部のマンガ家の間で採られていたが、これはネットにより適合的な表現であるだろう。それのみならず、ネット環境においては、物理的なマンガ(見開き2ページ)という制約条件からはときはなたれる事で、縦スクロールへの移行やページ概念のない(回転表現を用いる)マンガなどが見受けられる。更には、マンガ製作過程としても、あるコマやページのためだけのアシスタントを掲示板で募集したりするという薄らとした共同作業が既に実践されているようである。ここから、集団的に創作がなされたり、その共同作業の薄い広がりがよりなされる事で、マンガの変化が生じうる事もありうるかもしれない…。

 ただ、(私見では)西島はこの環境に依存することをよしとするわけでもなく、両義的な態度をとっているように見受けられた。

 即ち、西島は、まずは作家性(=(1)的な訴求力勝負のやり方)を排除するように、意図する。この点は揺るがない。その一方で、西島は、作家性を排する作業に自覚的であるための作家主義を強固に保持している。この(2)の方向を進めるためには、誰もが(2)の環境の中で漂うだけでは足りない、(2)を促進するために絶えず自ら(と作品)を記号化し、抽象化し、コピーに留まらせ続けることで、openな環境を持続させるように働きかけねばならない。(いわば、自らを絶えず亡霊化し続けなければならない)

 そのように、(2)方向で環境改変を志向することを企図する西島は、強く、自らの批評性を(半ば職人芸のように)耐え抜いているようにも思える。西島は「作家」としての自らをあえて抹消し、見えなくする(不可視にする=亡霊化する)振る舞いを、絶えず、ある種ストイックな"作家"としての矜持とともに、耐えているのではないだろうか…)

 

6、まとめにかえて:ハードとソフトの二面性、作家としての両義性

 マンガにはハード性とソフト性両方が備えられている。この二面性は、西島の両義的な態度を顕しているように思える。

 ネット環境それ自体はハード性の急激な変化が先行した現象である。このハード性の変化にひきずられた制作分業過程だけでは、西島の想定するマンガは成立しそうにない。西島マンガの持つソフトとしての性質(亡霊的性質)は、記憶を部分共同体からときはなち、それでいて想起をもよおさせる作用を営む。

 しかし、ソフトの振る舞いが、再度炎上騒ぎによる訴求力勝負になってしまえば、やはり(1)の運動がついて回る事になる。それは西島の望むところではないだろう。(そのような意味で、作品の質と、環境改変の作業は、明確に別の作業であるといえるだろう)。

 オリジナリティがはく奪されるべき(それが不可避の)環境において、オリジナリティーを標榜・主張するもの同士の闘争ではなく、オリジナリティから離れた大気の豊かさを増進させるために、環境と作品をともに-同時に作り上げようとする西島固有の志向。「非-固有」な環境を維持するための西島「固有」の志向…という両義的なポジションを、西島は意図的に、かつストイックに、選び抜いているようにおもえる。

(5/28:加筆完了)