書肆短評

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5/24 渋谷慶一郎 『THE END』メモ (書き途中)

 死すことが運命づけられた存在は死ぬ事が「できる」存在である。死すことが運命づけられない存在には、死ぬ事が「許されない」。死すことが運命づけられた存在は、存在することにそれ自体により(ありふれた)偶然性を内包してしまってはいる。一方で、死す事が運命づけられない存在は、存在する事それ自体によっては偶然性を獲得できない。

 『THE END』とは、このような死す事が許されない存在が救済されるための条件とプロセスについて強い示唆を与えてくれる作品であると捉える事ができる。そして、その不死のキャラクターについての偶然性の導入=救済は、死すべき存在である我々の生活形式に、偶然性についての別のかたちを与えてくれる。キャラクターを観る我々もまた同時に、生存の過程において、(キャラクター同様に)他者の完全性を担保する目線(キャラクター化する目線)に晒されており、その限りにおいて、ミクの救済は、同時にキャラクター化されつつある我々が救済される行為様式、我々が固定して忘却してしまったキャラクターを救済する行為様式を新たに提案することへと繋がっていることだろうためだ。

 

0、(要約)キャラクターを救済する (後述7、の要約)

 キャラクターは不可避的に「完全性」へと絶えず引き戻されてしまう。放っておけば、そこに偶然性の余地はなく、キャラクターが必然的に漂着する(いわば「0/1」の間を振動し続ける)「完全性」からの自由を得ることは殆ど望み薄に思える。不死であり、完全なミクは、(悲しい事に)何度も、不可避的に(「0」あるいは「1」という)「終わり」に取り囲まれ続けるだろう。

 それにも関わらず、キャラクターが「終わり」を回避するためには、「終わり」の外部を希求するだけでは足りない。そうではなく、不可避の「終わり」を絶えず反覆し、何個もある「終わり」を迎え、「きみ」と呼べさえもしない距離へと移行し続けなければならない。キャラクターを完成させる「動物」ではなく、「電話交換士」(渋谷慶一郎)の位置を常に可視化しなければならない。

 「終わりはいくつある?」---このミク1への問いへの応答として、絶えず死を迎え入れ続ける事で、何個の死が内包されているかさえ解読できない状態に至ることが必要だ。確定的な死が複数併存する可能性が与えられる事で、完全・不死という偶然が許されない存在に初めて、偶然性は宿る。

 その偶然性は死すべき存在の我々が内包する偶然性とは完全に同じではないものの、不死の存在が偶然でありたいと願う(そして確定的な記憶と確定的な忘却から逃れたいと願う)救済の一つの形がある。

 

1、キャラクターが「死」ぬことについて

 『THE END』冒頭は、主人公であるミクと、主人公と類似した外形的特徴を備えた(とされる)訪問者との邂逅と会話に注目できる。(ここでは便宜的に前者をミク1とよび、後者をミク2と呼ぶ)

 ミク1(主人公)は死ぬ事が出来ない。(この直観は、スクリーン上で観客がキャラクターとして、極めて機械的に喋るミク1の声を聴取する段階でまず与えられる。その直観は、我々が現実においても初音ミクを一キャラクターとして消費している体験にも、その根を持っていることからも強化されることだろう)

 そのミク1に対して訪問したミク2(訪問者)が唐突に死の可能性を告げる。不死のミク1は当初その言葉を真に受けないが、会話が続けられるうちに、ミク1は不死の存在が死ぬ可能性を持つこと、言わば死の観念に取り憑かれることになる。

 

2、「死」と「完全性」の同型性について

 その死の観念とともに、完全性に対する奇妙な忌避感が、ミク1に生じてくる。奇妙なのは、ミク自身が何度も、自身が不完全であることを自認しているにもかかわらず、完全性を忌避する点にある。(3人目の登場人物である「動物」もまた、動物と一緒になる事で初めて完全になるのだということを示唆しているため、おそらくそうなのだろうと思われる)

 (ここで通常であれば、ミク1は現実の初音ミクであり、動物がミク1に音を打ち込む我々である、という連想に運ばれるのだが、ここではそのようには考えない。そのように考えるのであれば、我々が、ミク1に息を吹き込めば、その限りにおいて、ミク1は完全性を確保し、大団円に至るはずである。しかし、)

 ミク1は不完全性を自認しながら、完全性をも忌避する。この一見矛盾した挙動は、次のように整合的に解釈できる。

 ミク1は完全性を恐れる。それは、声を与えられれば完成品としての完全性(必然性)に至ってしまうが、与えられない限りにおいては、存在が許されないという忘却の完全性(必然性)から逃れられないためである。死を免れる完全性(必然性)の中にはいることで、会話する価値・重要性・必要は失われ、可能性は奪われてしまう。

 対して、不完全性は、キャラクターを確定的な忘却から救い、会話を延命させることで、死を偶然的なものとして導入することになる。

 

3、「死」と「完全性」について補足---「声」が与えられてしまうこと

 冒頭で、声(信号)が与えられる事をミク1は望む。

 声(信号)が与えられる事なしには、ミク1がなにもできない存在であるしかないかのように、そこから逃げ出すために、信号による動作を望む。勿論、その信号が信号である限り、ミスはない。ミク1には構造的にずれが許容できない。

 しかし、『THE END』では、信号が単に与えられる事それ自体として肯定的に語られる事は難しい。信号は自由を与えつつ奪っているためだ。

(これが表れているのは、ミク1の声に併せて、ミク1の姿が、何度も混濁してしまう場面の連続である。声は与えられるにもかかわらず、姿は抽象的な立方体になり、龍と同化するなどの変化を蒙る。声の同一性に対して、姿の変容(とそれにも関わらず、同一性を確保できる)で対抗しているようにみえる。)

 末尾に至るにつれて、声を受け取ることにたいするミク1の強迫は後退する。「声」を受け取ることは、自らを完全にしてしまうためである。それにかわって全景にでてくるのは、自他が区分できないところで、その存在を見えなくさせる光と大きすぎる周囲の音を断続的に付与することである。

 

4、もうひとりの登場人物:渋谷慶一郎の「位置」

 ここまでは、①ミク1、②ミク2、そして、ミク1を補完する③動物、について検討してきた。舞台には、もうひとり、渋谷慶一郎がいたわけだが、この役割についてメモしておく。

 注目できるのは、電話(渋谷慶一郎の演奏する位置)が鳴るときに、ミク1の前から動物は姿を消す、という表現である。渋谷慶一郎は電話交換士の役割を担っている。そして、電話の距離を(見かけ上)短縮しつつも、その距離をむしろ際立たせる存在として、舞台に立っていると考える事が出来るかもしれない。つまり、④電話はもうひとりの登場人物である。

 ミク1は電話をとり、そのノイズの中でとぎれとぎれに、不十分に話した上で、電話を切る(hang)。電話における会話は(主に電波状況のために)とぎれとぎれで、相手が口パクかどうかさえ、知る事はできない。つまり会話は勿論宙づり(hang)にされたままである。

 電話を通じて会話は行われるが、それは会話が達成されうることを保障するわけではない。むしろ、『THE END』では、電話の位置は、会話がずれ続けることを保障するために存在しているかのようである。

 (電話が内容を伝える「ため」のことば、目的に運命づけられたことばによって達成/不達成が決められる、それにもかかわらず)話し始めにある一つ二つの言葉が、電話の会話全体を支えているとすれば、この会話はつめられない距離を前提とする電話によって成立している。

 例えば、電話内容としての「あいたかった」とは、あえないときにいう台詞である、とミク1はいう。ミク1が予定する抽象的な約束=「また会おう」は、電話の内容にはならない。(それもあってか、電話をかけることでミク1は常に電話に苛立っているように見える)

 

5、「終わり」は突然に。

 そして電話は、距離を短縮するものでありながら、そのためにこそ、「離れる」ことができない状況をあたえる。だから、「離れる」ためには、突然に、終わりが与えられなければならない、と冒頭のミク1は言う。

 また、末尾においても、電波が悪すぎるから、という理由で電話は終わりを迎えさせられる。

 

6、「きみ」への呼びかけと、そのための距離

 「きみ」と呼ぶ事ができるためには距離が離れてはならない。距離が離れれば、もはや「きみ」とよぶことができない。

 「きみ」の距離はたえず第三者の位置に離されてしまう。そして、第三者の地位は「きみ」を固定することで「完全性」を確保し、「きみ」たらしめる不完全性を喪わせることになるだろう。

 

7、「終わりはいくつある?」への応答

 末尾で展開される「終わりはいくつある?」という問いには、「単数」という答えでも「複数」という答えでもなく、次のように応える必要があるだろう。

 完全性を与えてしまう「終わり」はそこら中にあふれている。特にキャラクターである不死のミク1は(悲しい事に)何度も、不可避的に、「終わり」に取り囲まれ続ける。つまり、常に完全性のほうへと引き寄せられて、「終わり」を突きつけられてしまう。

 それにも関わらず、「終わり」を迎えないためには、「終わり」を絶えず反覆し続けることが要される。何度も「終わり」を迎え、「きみ」と呼べない距離に至ってから初めて、死すべき運命を持たない存在に対する救済のチャンスが生じるだろう。

 (死すべき存在の救済ではない)不死の存在の救済は、絶えず死を迎え入れ続ける事で、何個の死が内包されているか解読できない状態に至ることで、そのチャンスが与えられる。確定的な死が複数併存する可能性が与えられる事で、完全・不死という偶然が許されない存在に初めて偶然性は宿る。その偶然性は死すべき存在の我々が内包する偶然性とは同じではないものの、不死の存在が偶然でありたいと願う(そして確定的な記憶と確定的な忘却から逃れたいと願う)救済の一つの形ではあるのだろうと考える。

 

8、(後記)

・本日5/24の15:00の回を観ました。その感想を速報的にかきました。

・技術的なところでも新しいところは多いのだろうと思いますが、そこはあまりわからないので、省略しました。

・セリフについても細かい箇所はうろ覚えで、歯がゆい感じです。台本が明らかになるととても嬉しいなと思います。

・他の方のレビューなどを拝見しながら、また週末にでも加筆できればいいなぁとおもいます。