5/24 東 一般意志講義 第4回 #genroncafe
1、前期と後期のデリダが違う
・東浩紀=「声」を信用しない=脱構築「言葉の解釈はどうにでもなる」
・1980以降倫理的展開以降のデリダ=「言葉の向こう側に真実がある」「法は脱構築可能(計算可能)である、正義(証言)は脱構築不可能(計算不可能)である」『法の力』
(けれど、仮に自分の哲学に位置づけるとすれば、正義というのは脱構築不能でなければならない、という消極的主張に過ぎなかった)
・「有限責任会社abc」=incが足りない
オースティン哲学にいうconstative/performativeの区別が成立しづらいこと
サール
・intentionalityではないコミュニケーション条件がある(エクリチュール=物質性)
コミュニケーションを基礎づける志向性を高める事が、志向対象になってしまう
そのため、コミュニケーションの基礎にエクリチュールを置こう!というもの。
・「テクストに外はない」=「テクストの意味を画定させる外部を持たない」
東の解釈「テクストを一つに閉じてくれる解釈はない」=(ばかげた)物質性が決める
3、歴史認識問題との同型性
・異常に資料が少ない問題:直後の証言ではない証言の束
解釈合戦を止められる「解釈を許さないもの」は殆ど存在しない
解釈合戦は止められない
・「解釈不能なものがある」というのは単なる言葉:後期デリダが脱構築可能になってしまう
唯物論者としてのデリダとしてりかいしたほうがいい
・アウシュビッツで実際には歴史修正主義が成り立ちづらいのはなぜか?
---物が現存しているから。
---原爆ドームも同じ。
※「物」の「物度」というのも在るはある。記号的なモニュメント(解釈を内包したもの)と証拠物は違う。
※ローティの共感(Compassion・Sympathy)も同様。これを共感の「言語性」とか言い出したら、また解釈論争の対象になる。
4、事例
・主体とは?意志・選択によって定義されるものではない。
主体=引き受けなければならない(環境)条件
---まっさらな選択=どれでもいい選択=無党派選択?
・政治とは?意志・選択によって定義されるものではない。
政治=引き受けなければならない(環境)条件=属性によって引き受けられるものの総体
・選択とは?
容赦なく選ばれてしまうもの(ex,そばアレルギー/地域/階級/家族etc…)
意志とは「覆す」道具(正当化、嘘、論理を構築するための言語)
無限の物語が作れる=無限の責任物語と無限の無責任物語が始まる)
一方で、決定的な事実は覆せない(解釈の幅が極端に狭まる)
・シェアや協力
強制力なしには紐帯が成立しない
解釈論争でなんとかしようとする発想には限界がある
「物」を引き受けた事によって初めて責任が生じるのであって、「物」引き受け無しの決断が責任を生じるのではない。
(意志・決断によって責任が生じるのではない)
解り合いではなく、解り合えない中で欲望を認め合う事(理念ではなくプログラムを認め合うべきである)
カントは相手を理解しようとする。しかし、カントは貫徹できない。
5、放置のリベラリズム
他人を「物」扱いをするリベラリズム=他人をキャラ化するリベラリズム
カプセル化によって、不必要な衝突を避ける
欲望(無意識)の内容は知らない。欲望(無意識)はプログラムである。そのプログラムがインストールされた存在(ロボット)として認めればいい。(精神分析的アプローチ)
欲望解釈を無限に回すコストを各人に課する事で、コミュニケーションコストが高くなり、コミュニケーションがパンクする事を避けなければならない(リベラリズムの本義はこれなのでは?)
※ラカン風にいれば、鏡像段階に入り込み過ぎることを避けなければならない。
※象徴界(規範)の衰退によって、社会的合意が自動生成されないので、そこで言語コミュニケーションでなんとかするのは、個人レベルではほぼ無理。別調達方式を希求すべき。
6、補論:ルソー
ルソー:文学では西洋では初めて「性欲」を表沙汰にした人
※状態としては欲望が稀だった:個人が「性欲」を発見して困っていた段階
今日のインターネットというのは、社会の「性欲」が丸見えになる世界
※欲望が全面化している段階:社会が「性欲」を発見して困っている段階
以上の類比性がある。
破滅してでも、不合理でも、集団的に「欲望」が暴走する事はある(現在は結晶化しやすい)
相手に「触れない」ための論理(時間的な弁証法ではなく、空間的な離隔が重要)