書肆短評

本と映像の短評・思考素材置き場

【期間限定公開7】 アニクリ vol.7.0_7『Re:CREATORS』論 クリエイターとキャラクター あんすこむたん #bunfree

新刊より一部紹介します。

なお、新刊vol.7.0全体目次は下記

 ↓↓

nag-nay.hatenablog.com

 

 

 

クリエイターとキャラクター『Re:CREATORS』論
あんすこむたん #bunfree

 

 

 

はじめに

アニメ『Re:CREATORS』(以下、レクリ)は、単なるアクションものではない。テーマにおいて、アニメの需要、受容の現状や、産業としてのアニメを取り巻く諸現象をアニメ化することで、アニメを見ているこの我々がどのような者なのかを、極めて分かりやすく伝えている。中心をなすのは、やはり「承認」という観客や読者を巻き込んだ概念だろう。セレジアとの出会いから始まった彼ら被造物の闘いは、我々が住まう日本の商業アニメという土壌をも巻き込むものにまで発展する。


1、「承認」をめぐる闘争

「承認」という概念の応用範囲は、現代においては極めて広い。承認欲求というやや俗っぽい言葉から、多文化主義フェミニズムを背景とした承認まで、現在は「承認」が及ぶ領分を拡大させ、字義通り承認をめぐる闘争の内部にある。本作で扱われるのは、そのキャラクターがこちらを目差していると信じてしまうような、そんなキャラクターを成立させるに至る、私たち相互の間にある「承認」の力である。
さて、このことは、第1話から華々しく敵役として現れ、実は、その出自が二次創作に他ならなかったアルタイルというキャラクターにおいて顕著である。アルタイルは、二重の意味で出自がない。第一に、現実の人物ではないし、第二に、物語上にも根拠がない。アルタイルは、商業的クレジットを持たない二次創作作家(名は「セツナ」という。)によるキャラクターとして産み落とされた。つまり、起源はあれどその名はもたないキャラクターとしてそこにある。アルタイルは、世界における孤児なのだ。
本作は、この孤児たるアルタイルが、現実世界へと乱入するところから始まる。しかし、この乱入は、(現実的な意味でも、物語的な意味でも、はたまた『レクリ』というアニメ的な意味でもなく)アルタイルが、「承認」の物語を問う以上、必然なのだ。なぜなら、その孤児は、主人公、水篠 颯太(以下水篠)と、出会う前から分かち難い関係にあるためだ。
二次創作作家・セツナは、水篠と(ネット上の、ヴァーチャルな意味で)かつて懇意の中であった。その意味で、アルタイルは、自分の生みの親を失ったがために、養親というべきか、後見人に当たる水篠に会いにきたのである。あたかも、私があなたのお父さんですか、というような形で。
このように現実に死んだ人物から産み落とされた虚構のキャラクターが、その人物と関係を持った人々のところに、「承認」を求めてリアルに現界する物語として、『レクリ』の導入部は始まるのである。


2、「承認」による産声 アルタイルと初音ミク

このように、虚構のキャラクターが現実の世界に現れるという想像力もまた、現代においては、極めて広範に及ぶ。もはや古典となった初期の楽曲で「科学の限界を超えて私は来たんだよ」と歌う、電子の歌姫・初音ミクの現界を補助線にしつつ、キャラクターの成立場面を考えてみよう。
さて、『レクリ』において水篠が巻き込まれるに至った原因というのも、このアルタイルの出生に関係がある。アルタイルは生み出された直後、作者・セツナが自殺をしてしまったために、設定らしい設定はほぼない。それは、前提となる背景を持たない、いわば表面のテクスチャや輪郭に留まった地点から産み落とされたのだ。
実際、ここで初音ミクを思い出すのは適切である。初音ミクはクリプトンという会社が、特に物語性はなく生み出したDTM・楽曲作成ソフトである。その音声源(現実の出自)は、現実の人間(藤田咲)の肉声をサンプリングしたものだが、作曲行為自体は各人の自由に全く委ねられた。
ポイントは、その自由さにもかかわらず、初音ミクというキャラクターが、確固とした「初音ミクっぽさ」を形成しているという事実である。それは、現実の音の起源や、クレジット上の根拠に基づく強固さではない。例えば、音声的起源たる藤田咲は、当時は決して売れっ子ではなかったことから藤田咲以外の声優が声を充てることも十分ありえたし、そもそも初音ミクとしての声は、藤田咲という起源から離れて合成されミックスされることによって初めて初音ミクの声となる。その音声は、起源から離れることで初めて、きれいな形で生成されるといっても良い。さらに、もはや古典的トレードマークであるネギさえ、作者のクリプトンの着想ではないことも、起源からの離脱の傍証となる。設定らしい設定は無く「マスメディアや商業流通が関与しなくともユーザー同士の活発な自給自足によって(略)創出と受容」が生まれたことが、まずは着目されるべきであるだろう。
このように、設定を自由にすることによって、逆説的に「私たち」によって形成される理念は、初音ミクの制作を担当した佐々木渉によって「きれいな偶像性」と名指されている。批評家のさやわかはその言葉に注目した。すなわち、「きれいな偶像性」とは「ユーザーが自由な物語を降ろす依り代として最適化されている」ことを指す。
このような自由さを持つキャラクターについて、『レクリ』は、可塑的であり、変幻自在の潜在力を豊饒に持つキャラクターとして描いている。アルタイルは『レクリ』という物語内で圧倒的に強い。その理由は、そもそも二次創作で、物語が無く設定という縛りがほぼないために、(初音ミクのように)二次創作での様々な設定を取り入れることが可能な万能なキャラクターであるからだ。アニメでのセリフを借りるなら、「無色だったが故に二次創作の設定を無尽蔵に取り入れ、無敵に近いキャラクターとなった」ものとして描かれる。フィクションにおいて「承認」は力そのものなのである。


3、「承認」を起源へと還元するものたち 声オタ的「聞き分け」の換骨奪胎

ここで、総集編である第13話に触れる必要がある。そこでは、メタな発言や様々な趣向が凝らされていた。たとえば、そこでの問題提起の一つには、なぜアニメを見る時に音声に着目するのか、という問題提起が含まれている。
さて、この回の回想の一部は、メテオラの妄想が混じったものだ。妄想のメテオラは声も若干雰囲気はあるものの、姿も各々違っている。それでも本来のメテオラがナレーションをしていることによって、驚きはあっても、視聴者は混乱なく「これがメテオラだ」と判断できているように思われる。キャラを判別するとき、「声」でも判断をしている一例であるだろう。
しかし、このメテオラの音の源は、現実にはやはり二人いるのだ。水瀬いのり大原さやかという二人が、メテオラの声を充てる。この場面を見返した時、「あぁやはり二人だったのだ」ということにも、「ほとんど一人に聞こえたなぁ」ということにも、いずれも大した意味はない。重要なのは、アルタイルよりは起源がしっかりしていそうな(架空ではあれ原点である『追憶のアヴァルケン』という原典を持つ)メテオラもまた、起源を一つに定めることができないものであることが、ここに示されているためだ。アニメに於いては、キャラクターの本質を決める決定的要素を、輪郭にも、造形にも、音声にも還元できないということが、このエピソードの教訓として受け取るべきものだろう。単一化できない虚構的キャラクターの本質が、そこには現れている。

ED曲はそれにもまして重要性がある。ED曲でアルタイル「役」の豊崎愛生という名の声優が歌を歌う。アルタイルの心境を表しているように聞こえる曲を、声の発生源とされる声優が歌う。この第13話の回想の時点では、詳細には分かってないアルタイルの気持ちを、ED曲だけで補完するのは偶然ではない。さらには、ポカロ風の映像で歌詞が乗せられているのもまた、偶然ではない。
再度、さやわかから引用する。「初音ミク作品は、常に、初音ミクの声の裏にどのような楽曲が流されるのか、その曲に対してどのような映像が付加されるのか、場合によってはその動画にどんな字幕が乗せられるかを作者が恣意的に選んで結合させたマッシュアップ作品として現れている」。これはアニメに於いてこそ現れる。アニメは本質的にマッシュアップとしてそこにある。
先に検討したメテオラにおいても同様であるだろう。究極的には、アニメに於いては画面がホワイトアウトしたとしても、メテオラの声が聞こえれば、そこにメテオラがいるとわかる。反対に、何も喋っていなくとも、メテオラの造形を持つキャラクターが描かれれば、メテオラがいるとわかる。さらには、メテオラがいきなり人間じみたその造形を仮に失ったとしても、メテオラならばいうだろうセリフを口にしたなら、メテオラであるという前提を我々はその画面に仮託する。
宝石の国』第3話を思い起こされたい。あれを初見で見た人は、まさにあのナメクジ状の物体がフォスフォライトであると信じるに足る力を感じただろう。少なくとも、ダイヤを筆頭とした彼女たちが、ナメクジ状の物体をわが同胞の成れ果てだと感じたリアリティを感じただろう。造形も、描線も、声もまるで違うものたちが、アニメに於いては同じキャラクターだと扱われる。このことを思い起こさねばならない。あるいは『宝石の国』にも関与した久野遥子の『Airy Me』をも、ここでは念頭に置かれたい。そこで問われているのは、我々は、何を同一のキャラクターとして名指しているのかという、我々自身の視線なのである。

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以下、章立て


4、「承認」を求めるものたちへの対抗
5、「承認」から遠く離れたものたち
6、「承認」によって生かされたものとその死


以上--------

 

 

 

全体目次はこちら

 

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【期間限定公開6】 アニクリ vol.7.0_6『ヘボット』『lain』『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』論 消える花火を見えないまま繰り返して。 すぱんくtheハニー #bunfree

新刊より一部紹介します。

なお、新刊vol.7.0全体目次は下記

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消える花火を見えないまま繰り返して。——置き去りにされた現実の私、生き続ける虚構のあなた
『ヘボット』『lain』『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』論
すぱんくtheハニー

 

1、現実に拡散する身体

(1)しめてゆるめて螺旋の先へ

ループする世界の中でも登場人物の(特にその身体の)扱いに独自の解釈があった作品に『ヘボット』が挙げられる。本作では世界が何度もリセットされ繰り返すも、その周回ごとに誕生するキャラクターは消滅せずに次のループにも引き継がれる。円環構造をとるループではなく、『ヘボット』が「ネジ」をテーマにした作品であることも相まって、「ネジ」をしめるような、螺旋状のループ構造を強く意識させられる。
その中で『ヘボット』の主人公・ネジルは、それぞれの周回での独立した「ネジル」として複数登場し、そのループする世界を終わらせようとする者と対峙することとなる。最終話手前でその「終わらせる者」の目論見は打ち砕かれ、『ヘボット』の世界は存続することとなった。しかしギャグアニメである『ヘボット』では「終わらせる者」のもたらす世界の終わりと、作品自体の最終回がメタ的に言及されており、世界の終わりを回避したことと、作品自体が終了してしまうことの間に矛盾が生じてしまうこととなる。
最終話「にちようびのせかい」で、その矛盾を突破する手段として、作品自ら「二次創作」に言及する。シュールで混沌としたギャグがちりばめられた『ヘボット』では、周回のたびに増え、しかもそれぞれに異なった「同じ名前を持つ別のキャラ」が大量に生み出される。そしてその周回は作品内で重要な地位を占めるものもあれば、一瞬だけ描かれるものもあり、さらには「描かれていないが確かに存在する周回」があることも示唆されている。キャラクターたちの身体は複数化され、それらは放送に乗らない部分でも増え続ける。
『ヘボット』ではその可能性を作品の外側にも求める。つまり「二次創作」的なアニメ本編とは乖離した「キャラクターの増殖」もまた『ヘボット』の周回の一つであるとして、「二次創作」的に作られたものも「描かれなかった正史」として回収していくのである。
アニメ放送自体は最終回を迎えて終了する。しかし周回は放送の外で延長され、『ヘボット』のキャラクターたちは無限に増殖しながら生まれ続ける。「終わらせる者」を退けた後に訪れる「最終回」という矛盾を、『ヘボット』は作品の外側で増え続けるキャラクターという可能性を見出すことで解消していく。

(2)螺旋の先の「わたし」の居場所

作品の終わりに対して、その外側へ「終わらない」可能性を見出すこの構造は『serial experiments lain』と近いものがある。
lain』では「記憶なんてただの記録」とすることで、属人的な記憶と、その外側にある記録を等価に繋ぐ。それと同時に「作中の画面内から、画面の外の視聴者へ語りかける」シーンによって、画面の中と外——虚構と現実、と言い換えることもできる——を等価に繋ぐ。その二つの橋渡しによって、記録媒体(DVDや録画)や視聴者の記憶(あるいはこういった『lain』に関するテキストも)があることによって、作品が終了したあとも「作品の外」で『lain』は、特に主人公である岩倉玲音が、存在し続ける可能性を示す。

作品が終了を迎えることで、作中キャラクターの更新が行われなくなり、実質的にキャラクターは死を迎えてしまう。それを回避する方法として『ヘボット』や『lain』は、作品の外側、虚構ではなく現実にその存在を示すことによって、新たな生を獲得し、ある種の不死性を手に入れる。

しかしそれは作品の”外”が無ければ成り立たない。虚構と現実を等価なものとして繋いだ、とは言え、結局のところ「現実」に頼らなければ成立しない存在である。
それは虚構と現実を等しいものとして取り扱おうとするればすればするほど、むしろ「現実」の強度を増してしまうことになる。その関係性から抜け出す術は無いのだろうか。


2、物語から吐き出される身体性

(1)物語の居場所と現実の居場所

『打ち上げ花火、下から見るか?横からか見るか?』も一見そういった構造を持った作品である。
特に冒頭部分にある主人公の一人・島田典道が排泄するシーンでは、アニメキャラクターとしては珍しい「リアリズムのある歯」が描かれる。
排泄と歯は、そこに描かれるキャラクターが強く実在の身体を獲得しようとする姿である。

”『ばくおん!』最終話では、上記の会話のあと羽音がバイクを初めてコケさせてしまうシーンが描かれる。駐車状態からバイクを倒して傷をつけてしまうのだが、このとき羽音の顔には特徴的な「歯」が描かれている。
『ばくおん!』全話を通してこの歯の描かれ方がされるのは、この1シーンのみだ。さらに、通常描かれる歯の表現よりも写実性を持った描かれ方がなされている。
アニメの中のバイクが傷つき、実在的存在になろうとするその瞬間に、羽音の口にも写実的な歯が出現する。
(中略)
ここから、バイクの傷とは、ライダーにとって延長された自分の身体に与えられた傷となる。だからこそ、バイクが傷つく=実在的存在になるとき、ライダーの身体には写実的な歯が現れ、バイクと同時に虚構的存在から実在的存在への移行が起きるのである。”
(『アニメクリティークVol4.5』「傷ついたのは誰の体?――延長された身体と、その消失。あるいはバイクに乗れ!バイクに!」)

しかしその志向性は作品前半で否定される。

なずな・典道・祐介が揃うプールのシーンでは、祐介がトイレに行っている(排泄)の間になずなと典道の重要な会話が行われ、50mの水泳競争では、典道がターンに失敗して足を怪我する——怪我とは正にそのキャラクターが傷つく身体を持っている、ということだ——ことによって「なずな・祐介」ルートに突入することとなる。
ここではリアリスティックな身体性の獲得(排泄、怪我)は確かに描かれている、がそのことによってむしろ物語からは排除されてしまうことになる。現実の身体性を獲得した瞬間に、そのキャラクターは物語から弾き出されてしまうのだ。

(2)複数の身体

ガラス球の作用によってループする世界を獲得した典道は、そのループを自覚的に利用しようとする。特に打ち上げ花火が「平たく」見える世界で、打ち上げ花火がそのような見え方をする世界ならば(虚構の世界ならば)、やり直しが可能だとして、自ら世界をループさせる。ここで典道は自身が虚構の住人だということを理解した上で、その虚構だから起きることを積極的に利用しようとする。それは「身体性を獲得することによって”現実の人間”近づこうとする真似事」から「虚構であることの優位性を行使しようとする」ことだ。
劇中終盤でループを起こすためのアイテムであるガラス球は砕け、その砕けた破片の中に典道は「また別の虚構世界」を見る。それらはただの可能性に留まらず、実際に典道たちがループしていたように、どこかに必ず存在する「また別の虚構世界」である。それは『ヘボット』が単純なループではなく螺旋を描き登場人物が(同一人物も含め)次々に増えていくように、『打ち上げ花火〜』でも砕けたガラス球の破片の数だけ、複数の虚構世界が並列して存在していることを示している。
現実の人物が生きる一回性に囚われた人生に対し、典道は虚構のキャラクターだからこそ可能な「複数の生」を肯定的に受けとめ利用する。

そのガラス球が砕けるシーンにおいて、それと重なるように水中から見上げた水面に映る打ち上げ花火の映像が差し込まれる。私たちが映画館のスクリーンに映る花火を見るように、作中のキャラクターも水中から水面に映る花火を見る。虚構の映像は確かに二次元である、がしかし人間の視界は眼に入ってきた光を眼球内の網膜で受け取ることで生まれる。投影される光と受け止めるスクリーンという構造を取り出すなら、人間が直接その眼で見るものと、虚構の映像には差異が無い。
そもそも『打ち上げ花火〜』で挙げられた「打ち上げ花火は横からみたら平べったくなるのではないか?」という疑問に対して、もちろん正解は知りながら、それでも不意に投げ掛けられたその疑問に対して一瞬考えてしまうこと、それこそが「打ち上げ花火」を立体として視認できていない証明だ。
現実も虚構も同様に平面(網膜)でしか捉えられない。ならば複数の可能世界を同時に持つことができる虚構のキャラクターは、一回性に囚われた現実の人間に対して圧倒的に優位な立場にいる。そして現実世界の「そこにある」という「あられもなさ」は、複数の生を持つ虚構世界の下位互換にしかならない。


(3)それは私の敗北宣言

『ヘボット』や『lain』は現実世界に生まれる作品の痕跡を、作品そのものの一部として取り込むことで虚構から現実への跳躍を可能とし、それによりキャラクターの死を回避した。しかし前述したように、それは「現実」に頼らなければ成し得ない。『打ち上げ花火〜』はその問題に対しての回答をラストシーンで行っている。
「現実に頼らなければならない
、言い換るなら、『ヘボット』では二次創作を行う人間が、『lain』では記録媒体や記憶している視聴者が、”仮に全て失われてしまった”場合に、作品がもたらした現実から虚構への跳躍も失われてしまうという脆弱性を抱えている。つまり製作者や観測者が全て消失してしまえば、『ヘボット』も『lain』も同時に消失する。

『打ち上げ花火〜』はラストシーンで、典道となずなが居た教室と席に座る生徒たち、そして2つの空席と、出欠を取る担任が典道の名前を呼び続ける、という映像が流れる。ここにある違和感は、空席は当然担任から見えてるであろう中で、名前を呼び続けるという部分だ。つまり担任からは典道は「居るのか居ないのか確認」できていない、典道が視認できているなら返事を待つ必要は無く、空席が視認できているなら何度も呼ぶ必然性が無い。つまりこの場面において典道は「存在している」(名前を呼ばれる)状態と、「存在していない」(名前を呼ばれ続ける)状態を併せ持っている。この相反する状況は、例えば「シュレデンガーの猫」のような重ね合わせではなく、前述したような「複数の可能世界」に跨って典道が存在している状態にあることで起きている。
それは作中人物の担任だけに留まらない。空席しか映らない映像には、当然典道の姿は描かれておらず、もちろん視聴者の眼にも映らない、しかし「存在はしている」。

製作者が描かなければ存在できない、あるいは観測者が居なければ存在できない、という虚構のキャラクターの脆弱性を典道は「描かれてもいず、視認もできない、しかし存在する」ことによって乗り越える。『打ち上げ花火〜』において、典道は製作者・観測者にその存在を委ねることなく、物語の終わりや、製作者・視聴者が居なくなるといった「現実」での消失に先んじて物語の表面から消滅し、私たちからは認識できない(しかし可能性があることを窺うことができる)別の虚構世界で存在することを示唆する。
『ヘボット』『lain』では逃れられなかった「現実」に頼らねばならないという弱点を克服することで、虚構のキャラクターは複数の可能世界を同時に持つという優位性を手に入れる。そうして私たち現実の人間は「置き去り」にされる。

つまり『打ち上げ花火〜』は、虚構のキャラクターから現実の人間に向けた「勝利宣言」である。

3、それは命にふさわしい

私たちは製作者・観測者として虚構に対して、現実の強度でもって介入していた。少なくともそのつもりだった。しかし、それは「現実」の強度でしかなかった。一部の作品では虚構と現実を等価に繋ぐことによって、その強弱関係を揺るがす作用を持ってはいたが、ただしそれさえも「現実」との対応関係の中で達成される、「現実」に頼った方法であった。
しかし『打ち上げ花火〜』は、現実の人間——製作者や観測者を置き去りにし、「現実」との対応関係から切り離された「複数の可能世界」「複数の生」の中だけで、虚構のキャラクターが在り続けることができると宣言したのだ。

私たちは現実に生きる。その掛け替えのない一回性は、私たちの尊さではなく、私たちの脆弱性を示す徴候に過ぎない。人類2000年の歴史を貪り食ったアルファ碁と、人類の歴史を歯牙にもかけなかったアルファ碁ゼロとの対局が、後者の完全勝利に終わったことは、我々のヒューマニズムとユーモアが転倒したアイロニーでしかなかったことを示している。私たちは二人零和有限確定完全情報ゲームを理解し、確かに名指しはしたものの、その名指されたゲームに勝利することは恐らくのところ最早ない。ゲームを生み出したはずの私たちこそが一回性しか持つことのできない弱い存在で、ゲームによって息づいたはずの虚構のキャラクターは今や複数の生を生きる強い存在となった。私たちは現実に即して、現実的な解決を目指して、現実に互いの手を取り合うしかない矮小な存在であるのに対し、虚構のキャラクターは強固で、頑健であるだろう。

私はそれを喜ぶ。最終回が来るたびに消失に悲しむ必要は無く、一度しか存在できないことに哀れみを受け取る側になった、それは私が「虚構に救われてもいい」という確かな許しなのだから。

とはいえ、ここでもう一つだけ転倒を加えたい。その虚構のキャラクターが生きる不可視の世界は、どんな形をしているのだろうか?それは頑健だが、頑迷な世界でもあるのではないか。そこには、ヒューマニズムが内包していた寛容はあるのだろうか?
『打ち上げ花火〜』の後、彼らは、私たちの介入を拒み、無限遠点の青春を生きる。青春の後の人生という戯言に酔わず、人生を歯牙にかけない青春を彼らは生きる。では、そこには、何があるのだろうか?
そこには新たな自然法則が立ち上がる。現実の私たちには如何ともしがたい制約の一つとして、可能的存在の海とその解釈不能な波がそこには広がる。では、そんな可能世界の中において、私たちはその虚構の渦にどのように向き合い、誓約を交わすのか?


先に挙げた「ゲーム」にこそ、その回答がある。
プログラムされたゲームの中でプレイヤー(私、と言い換えてもいいかもしれない)が取りうる選択肢は有限なものだ。しかしその限られた選択肢に対して「選択」は遥かに多く存在する。その選択肢を選び決定ボタンを押すに至った「選択」はプレイヤーごとに異なる。敵を斬り、ビームを放ち、愛の告白をし、アクセルを全開にする。「このセーブデータ」「このプレイ」という一回性の中心にいる虚構のキャラクターに対して、プレイヤーこそが無数の「選択」という可能世界を幻視する。
そして私の指が、その可能世界から一つを選び取り出していく。あるいは昨今のスマホゲーにおいては、私のタップが引き寄せた「ガチャ」の結果が偶然という一回性として、そして他のプレイヤーにとっての「可能世界」として、同じ物語のまま複数の世界として拡張されていく。
それは虚構のキャラクターに、現実の私と似通った仮の一回性を付与していく行為だ。指先で無数にある見えない可能世界を、私たちは一つづつ解きほぐして引き寄せる。

その手つきは恐らく祈りに似ている。
神の加護に祝福された現実が訪れることを願うように。
可能世界に仮に与えた一回性によって、私が救われることを願うように。

 


今年(2017年)発売されたとあるゲームで。
プレイヤーがゲームをクリアしたあとに、他のプレイヤーを助けるため、自身のセーブデータを完全に消去するかどうか選択させられる作品があった。
セーブとロード、あるいはチャプターセレクトによる可能世界を手放し、虚構と私の接点であるセーブデータを消す……という真に「一回性」を与えるか否かを選ぶことを迫られる。
「どこかの誰か」という可能世界が救われますように。
そう祈って私は決定ボタンを押した。

 

 

以上-------------------

 

新刊vol.7.0全体目次は下記

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【期間限定公開5】 アニクリ vol.7.0_5『機動戦士ガンダムサンダーボルト』論 コード・シンボル tacker10 #bunfree

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コード・シンボル 『機動戦士ガンダムサンダーボルト』論
tacker10


Intro first-cut/first-contact

ファースト・カット、金属的な冷たさを感じさせる不穏なBGMが流れる中で、自動車や看板、街路樹など、かつて人が生活を営んでいたことを示す残骸の閉じ込められた奇妙な氷塊が映し出される。その氷塊をカメラが徐々に上へティルトして行くと、開けた視界の先、ズタズタに引き裂かれて廃墟と化したスペース・コロニー跡の光景が広がっている。その惨状を背景に挿入されるタイトル。
『MOBILE SUIT GUNDAM THUNDERBOLT DECEMBER SKY』。
一連の映像はかつてこの宙域で起きた激しい戦闘の傷跡を現在もまざまざと見せつけている。まるで、その瞬間に凍て付いてしまい、時間が止まったままであるかのように。
しかし、カットが変わると、生物の気配を感じさせない絶対零度の宙域でデブリの陰に身を潜めながら長距離狙撃ビーム砲ビッグガンの狙いを定めているザクⅡが映し出される。ザクⅡはを光らせ、口元から排気煙を噴出しながら、背部より伸びたサブ・アームで漂って来る邪魔な自動車の残骸を掴み取るとぞんざいに投げ捨てる。
このザクⅡのパイロットこそが、本稿にて扱う『機動戦士ガンダム サンダーボルト』で主人公の一人に数えられる人物、ダリル・ローレンツだ。ダリルは、大部分が傷痍軍人で構成されたリビング・デッド師団に所属しており、彼自身も失った両足に義足を装着している。
但し、ダリルは標準を奪われただけの存在ではない。彼は失った運動性を眼に変える。仲間内から「千里眼」とも呼ばれるその眼は、失われた理想的運動の代補であり、肉眼のままでは捉えられないはずの超遠距離の相手を眼差し、その物理的位置を執拗に割り出すためにある公国の器官なのだ。
そんなザクⅡの視線の先へとカメラが進むと、そこには無数に漂うデブリがまるで雷のような放電現象を放ち続けるサンダーボルト宙域を挟んで対峙中の地球連邦軍所属ムーア同胞団の艦隊が浮かんでおり、先程とは一転したジャズをBGMに、先述の動きにも増して自在に忙しなく動き回って行く人々の姿が描かれる。彼ら一人一人の動きやカットの切り替わりは、さながら音の粒とシンクロしたダンスのようだ。
その最たる例が、同作でもう一人の主人公とされる、イオ・フレミングの描写だろう。イオはコクピットにテープで張り付けたラジオから流れる海賊放送の録音を聴きながら、ドラム・スティックを奔放に叩き、更には両手両足を使って複雑にジムの各パーツを操縦してみせる。


第一部 「かな/真名」論の応用と展開 象徴の構築----

1.「性(セックス)と暴力そのものよ、愛なんか後から付いてくる」
(1)運動のシンボル/視聴におけるシンボル
開始からまだ三分弱、既に見事な障害者と健常者の対比描写だが、その上で重要なのは、これが鑑賞者と「アニメ」との関係そのものでもあり、そして実は対立していないという点だ。
そもそも、ダリルと同じく、鑑賞者もまた座席に付き、照準を合わせるかの如く視線を画面に注ぐ際、それは自分の眼ではなく、単眼カメラを通じて映像を観ている。鑑賞者がもしも自分の眼で画面を現実的に観ているならば、本来なら肉眼で捉えることの出来ない敵機体は、カメラで辛うじてスクリーンへ引き延ばしていたとしても、実際の大きさより遥かに小さいプラモデルのようなスケールで認識せざるを得ないはずだ。だが、鑑賞者はダリルと同様、それが巨大なモビルスーツであると感じられる。鑑賞者は自身の身体だけではなく、カメラであるかのように他人へ憑依する形でも対象を観ているのだ。翻って、一見すると動いていないかのように見える鑑賞者も、実際はカメラが動くと共に(ズレを孕みながらも)まるで幽霊の如く空間を飛び回っているのだとも言えよう。
すると、その時に、鑑賞者は鑑賞に必要な部分だけの身体、まさしく手足を失った傷痍軍人のような状態を暗に理想としてしまうことには注意が必要である。我々の内にはそうして身体を捨てた純粋な状態で普段は観ることの出来ない光景、自分に不可能と思われる華麗なアクションなどに同化する欲望が存在している。鑑賞者は決してずっと座席に縛り付けられることではなく、(カメラを通じてでも)動き回ることこそを望んでいるのだから。
「スナイパーには機動力は必要ない」
口ではそう言いつつも、後々にダリルが己の四肢を切り落としてリユース・P・デバイス装備高機動型ザクⅡに乗ることは、この事実を端的に思い出させてくれる。
その上で、ダリルが自身の身体を満足に動かせず、彼が義肢の先に夢見ている理想的な運動性(先述のリユース・P・デバイス実験中にダリルが涙する、浜辺を駆け回った過去の光景)を取り戻すことは既に叶わないことを踏まえるなら、冒頭に描写したサブ・アームなどの動きがまるで人間であるかのように極めて生々しく手描きでアニメーションされている(にもかかわらず、それは通常の身体ならば存在しない義肢である)のは、実に適切であると同時に、何とも皮肉に感じる。

(2)フレーム・レート選択とシンボルの進化(8fps/12fps/24fps/60fps)
だが、もう一方で強調しておかなければならないのが、ここで観られている側の映像、健常者もまた(特に「アニメ」においては)、よく動いているかのように見えても、例えばダリルが欲するような理想通りに思うまま動く身体ではない、ということだ。
所謂「アニメ」は、ユナイテッド・プロダクションズ・オブ・アメリカの「リミテッド・アニメーション」を一つの参照項として、一秒間八枚の「三コマ打ち」を基本に作られた。その描き方は、秒間六十フレームほどで認識している人間の眼にとっては本来の現実的な動きの感覚には程遠いものだ。勿論、一般的な実写映画でも通常は敢えて二十四フレーム(×2)を選択していた通り、ここでの現実的な動きの感覚にヒエラルキーはなく(毎秒六十フレームが理想なのではなく)、種々の理想を構築することに向けられた技法の歴史がある。その中で動きというもののより理想の感覚へと近付くことを目指し、時には枚数を増やしながら、「アニメ」はようやくいまの洗練された形へ辿り着いている。
その過程で行われて来たのは、例えば歩くという行為の本質が何処にあるのかを分析し、歩いているように見える基本的(そこからアレンジ可能な)パターンとして抽出しながら、それを様々に展開する行為だったと言えよう。
そのようなアニメの営みは、『機動戦士ガンダム サンダーボルト』という作品において軸の一つとなるジャズで言えば「コード・シンボル」に例えられるかもしれない。そこで参照したいのが、『機動戦士ガンダム サンダーボルト』にて劇伴を担当した菊地成孔と、大谷能生の著作『東京大学アルバート・アイラー 東大ジャズ講義録・歴史編』における以下の記述である。

 バークリーにおいては、コードっていうものは基本的には四声、四つの音で構成されています。これはオクターヴの中でコードのキャラを成立させるためには四つ音を指定すれば充分だ、ということなんですが、もっと遡って考えてみると、西欧音楽における伝統的な作曲法の基本としての「対位法」。特に四声の対位法から導き出されたものだと考えられると思います。四つの音に関係性を持たせながら、それぞれを横に動かしていって旋律を作る。そういった作業を対位法では行うわけですが、そうした作曲中に頻繁に現れる定型的な音の動き、曲を構成する際に効果的な音の動きっていうものをタテ割りに切り取って、で、汎用性のあるような形にまとめていく。そういう作業からコードっていうものが生まれてきて、で、コード・シンボルっていうのは正にこのコードを「シンボル化」してしましたものなんですね。

菊地曰く、この「コード・シンボル」は象徴であるが故に、ある程度の柔軟性があり、例えば「その記号に指示されている和声の機能さえ守っていれば、どの音を下にしてどの音を上に持ってくるか、などは演奏者が自由に選択できる」解釈の幅を持つジャズの即興演奏を可能にしたと述べる。これをアニメに転用すると、例えば走る動作が描かれている場合に、コマ毎の画は、走っているように見える機能さえ守っていれば、宮崎駿が著作の中で述べている通り、最も無難だと云う一歩を六コマで走る以外でも、適宜の目的に沿う形で「一歩五コマ、一歩七コマの走りがあってもいいはずだ」(『出発点』)、ということになるだろう。そのようにして象徴的に描かれるのが、アニメにおける様々な行為なのだ。
また、『アニメクリティークvol.5.0』所収『「撮られるべきもの」についてのノート』の、橡の花による以下のような記述も参考になる。

或る時間軸(8枚/秒のワンショット)上で分割された“「行為」の「形態」”。運動を「象徴」する8枚のポーズ(モーメント)。
逆説的には「見慣れた動き」に認知機能的に隠されてしまった幾つもの姿勢を暴いた静止画装置「マイブリッジの連続写真」(1878)の正統。

エドワード・マイブリッジによって撮影されたギャロップの連続写真を通じた分析は、連続する画から動的錯覚が得られることを示すと共に、それまで信じられて来た走行する馬の脚運びという観念を一変させた。常に脚の前後どちらかを地面に付ける形ではなく、四本脚が全て地面から離れる瞬間もあると明らかにされたことで、まさにジャズにおける「コード・シンボル」が様々な即興の指針となるように、これ以降、馬の描き方は大きく変わることになった。人は馬の走りに対する「コード・シンボル」を新たに得たのである。
本稿では、これらの系譜の先に上記の「アニメ」が行為を観念的に抽出して来た営為も重ねていくべきだと考える。日本の「アニメ」は、十全に動き続けるかのようにも見える「フル・アニメーション」の更に先へと夢見られる運動感覚に接近する術を、表現をより抽象化する中で、「行為」を観念的な「象徴(シンボル)」として描き出す方向に求めたのだ、と。
その結果として、画の一枚ずつは歩くなどの様々な行為の「象徴」となって、そこから多くのレトリック、即ち演出を生み出した。ダリルと同様に、先に挙げたイオの描写も、その延長線上に存在しているのである。
それは、例えばイオが、正当な起源という(土地の、身体の、アニメという媒体の!)重みを抱えつつ、自由への跳躍を果たそうとする姿に現れる。
「同胞、ね。まったく、生まれた土地はいつまでも俺を縛りがやる」
出撃前に艦長代理であるクローディアからの檄を聴きながら苦々しく呟き、その果てに、自身が望む十全な運動性という自由への活路を、戦争という狂気の中でしか生きられない(抽象化された)男として、まさしく一年戦争の「象徴」たるガンダム、その中でもフルアーマーガンダムの力へ彼が仮託したことに、文字通り「象徴」されているのだ。
ダリルとイオ、両者はかけ離れているようでいて、例えばイオの夢には亡き父親が好きだった単調で平和なポップスが取り憑き、逆にダリルの夢には(解体と構築を繰り返す)フリー・ジャズ的な運動性への嫉視が現れているように、実際にはどちらも標準から遠く突き放されながらも、同じように理想的な運動を夢見ている存在である。それは、現実のポップスとジャズもまた、切っても切れない緊張関係にあったかの如く。
そして更に、規律違反を犯してでも画面に音を取り込もうとする彼らの欲望は、各々の足場から互いの理想を新たに洗練させようとする「アニメ」という歴史の複数の糸を反復している。そのような(悪)夢同士の緊張関係こそが、閃光の如き崇高さを放ちつつも、しかしどちらか一方のものにならないまま共有されて行く奇妙で正体不明の事後的に立ち上がる「アニメ」という媒体なのだ。

(3)猥雑であること
さて、以上が本稿における軸(ルビ:フレーム)であり、句(ルビ:フレーズ)である。その軸はまさしく画面の異物であるところの音声に関わっている。そして、こうした軸を用いながら『機動戦士ガンダム サンダーボルト』の分析、再構築をより具体的にして行く反復行為の中では一つの指針を貫くことが重要になって来るだろう。
それは本質的にシンボル操作であるアニメにおけるフレームと音の歴史を断片(それもまたシンボルである)へ解体し、再構築する中で上書きすることである。
そもそも大田垣康男によるマンガ『機動戦士ガンダム サンダーボルト』のアニメ化にて監督を務める松尾衡が特異なのは、一般的に「アフレコ」が主流とされて来ている日本の「アニメ」業界で、珍しく「プレスコ」での制作を選択して来た人物だという点である。
近年になって、ようやく他の「アニメ」でも「プレスコ」の作品が増えて来たが、未だ日本においては、その理論的な軸はただ音声と映像のシンクロ率を高め、現実性を強めるために「作家」が用いる特殊な手法という単純な枠内で収まっているように思われる。
だが、歴史的には「アニメ」に対する「アフレコ」手法の結び付きは必然的ではない。
更に、事後的に立ち上がる奇妙で正体不明な(筆者が寄稿した過去の文章に寄せるなら「無銘」の)主体が「アニメ」の表現に利して来た点も多々ある。
この遅れを「プレスコ」制作された作品を通じて取り戻すことこそ、松尾の特異さだけではなく、広く「アニメ」一般に残されている可能性を掘り出すことへも繋がるはずだと考える。
上記の「プレスコ」とは、アニメにおけるフレームと音という異物の重要性を示す一つの範型なのである。本稿はその範型を反復することで、以下の内容を目標とする。
第一に、日本の「アニメ」がこれまで長い年月を費やして「象徴」と呼べるまでに試行錯誤して来た表現の中でこれまで見落とされがちだった映像の視覚的修辞性、例えば演出などが対象に対する思考のフレームとして与える影響を梃子に、アニメが持つ複雑性を、公用語論などを参照しつつ再考すること。
第二に、そして、その抽象化された「象徴」的な映像に対して、視覚の修辞性と同様に、音声がフレームとなって与える影響を、認知心理学詩学などを参照しつつ再考すること。或いは、そのような映像と音声の交わり方が、これまで正統的だと考えられて来た身体の動かし方とは異なった方法論の模索であったということを、演劇や映画などを参照しつつ再考すること。
最後に、上記のフレーズを即興で繰り返しつつ引き伸ばし変形すること、この点で本稿自体がジャズ的であることも目指す。時に「作家」という主体の意図から積極的に外れることすら厭わず、複数人による猥雑な会話(セッション)の中に、読者を引き入れたい。
上記の可能性を評価する以上、本稿もまた、単一の明確な「作家」という主体の意図が隅々まで行き渡った輪郭を持つ文章ではなく、始まりも終わりも不明瞭で、時に作品から遠く離れた話題も交えつつ複数人で交わす雑多な会話のように努める必要がある。それは、例えればシュルレアリスムにおける「自動筆記」やジャズにおける「即興」などのように。
前衛的であることを評価するためには、そうした実践の徹底も要請される。それ故に、本稿は一般的に論文が期待されるような結論へ明確に辿り着くことをあらかじめ放棄していると言っても過言ではない。しかし、そのような文章も、同人誌だからこそ可能になる醍醐味の一つとして読者の方々にご了承頂ければ幸いである。

 

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以下章立て


第一部 「かな/真名」論の応用と展開 象徴の構築
2.「アニメ」の系譜的不純性
(1)「東映系/虫プロ系」区分の解体
(2)アニメの系譜的「かな/真名」性
(3)「かな/真名」混交事例①
3.アニメの視覚的修辞性
(1)「作画/演出」区分の解体
(2)変化における「かな」/「真名」性
(3)「かな/真名」混交事例②
4.視聴覚体験の複層性
(1)「映像/音」区分の解体
(2)画面と音における「かな/真名」性
(3)「かな/真名」混交事例③

Interlude 諸混淆事例と「サイレント映画」批判

第二部 アニメにおける「声」の問題 デペイズマンと事後的主体

5.二つ以上の声と画面
6.二つ以上の声と声主
7.二つ以上の声と肉体
8.二つ以上の声と政治

Solo Part 外部から呼び込まれる声と記憶

9.「無銘」のものたちと向き合うこと
10.線形的な時間から切り離されたもの


以上-------------------

 

 

新刊vol.7.0全体目次は下記

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【 期間限定公開3】アニクリ vol.7.0_3『メイドインアビス』論 上下・生死 反転・逆転する世界 あんすこむたん #bunfree

新刊より一部紹介します。

なお、新刊vol.7.0全体目次は下記

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上下・生死 反転・逆転する世界 『メイドインアビス』論
あんすこむたん


1、時間の反転


 第1話のラストシーンで示されるのが、「ここはどこか」という問いへの道半ばの答えといえようものだ。かつてそこへと姿を消した母のナレーションとともに、アビスと呼ばれる奈落が、どこまでも底なしに、下へ下へと続いている様子である。
 下に行けば行くほど、「遺物」と呼ばれるものの「貴重さ」(文明の発達度)が上がっていく。これは、我々が日常的に出会う地層とは逆の働きを持つ証拠だ。通常であれば、現在に近い浅い遺物こそが先進的であり、その下にはより原始的な歴史の産物が堆積し、層を成すはずだ。たとえ、失われた過去文明という言葉に甘美で深遠な響きがあるとしても、過去の遺物は地層を掘れば、知られるべくして姿を現す。もし失われた過去文明があるとしても、その下には過去文明のそのまた前の原-歴史があるはずだ、というわけだ。
 しかし、アビスにおいて事は別だ。アビスにおいては、掘れない地層の下にこそ、未知の空間と時間がある。それは死んで固定された積層でも遺物でもない。それは歴史の遺物ではなく、今なお生命活動を続ける、現在の我々には手がとどかない未来の片鱗なのだ。そちらは、我々の文明を超え、我々の言語や欲望や信念を超えている。「呪い」に現れているように、そこでは我々の姿形といった第一次性質さえ変容可能なものとなる。私は私の身体さえ超え出てしまうのだ。
 いわば本作でいう「遺物」とは、未来から浮き上がって来たあぶくのような存在だ。未来の彼方から、それは現在にやってくる。アビスの淵・オース周辺に属するそのあぶくたちは、現在にほど近いところにある。それが故に、なんとか到達可能な未来の予兆である。未来のその底に届かないのは我々の足が遅いからではなく、我々の力が足りないからである。そこは危険に満ち、日常ならざる稀な、危険な生物と遭遇する可能性が上がり、底は未だ掘り崩せない。現在においては掘り崩せないそのものこそが、未知の未来と呼ぶにふさわしいものだ。

2、上下の反転
 リコは、自分の母親であるライザが残したとされる封書を受け取る。リコはそこから「奈落の底で待つ」という言葉を、自分に充てられたメッセージとして受け取り、自分が発見した(あるいは発見された?)ロボットとしてのレグとともに、アビスの底への冒険へと出発する。
 アニメに限らず通常、「上」はプラスのイメージを、「下」はマイナスのイメージを強調する作用を持ってしまう。しかし本作では、設定においても画面においてもこのイメージが見事に反転することになる。一般にアニメにおいても、カメラワークによって「キャククターの心象を映像から分析できる」ものであるにもかかわらず、本作では構図が綺麗に反転していることは、本作を見る上で常に頭に入れておく必要がある。
 深遠の底は、オースの民にとっては恐れの対象でありながら、時にアビス信仰の名の通り崇敬の対象である。下を見る視線というのは、無気力さの表れではなく、未だ見えざる深遠を渇望する意欲の表れなのだ。さらに、リコにとっては、自分よりも先の時間を生きる母親を探す旅であり、自らの出生の地へ向かう旅でもある。リコの信念に従うならば、レグにとっても、アビスの底への沈滞は自分の記憶を探す旅であるのだ。下を見るというのはすなわち未来に向けられた活力に満ちた働きを指すのだ。
 EDアニメーションにおいても、アビスの底へと降りていく様子が明るい音楽とともに描かれているのは、一つの象徴である。
 この反対に、上に引き返すことは希望への飛翔ではなく、安全なオースへの帰還でありながら、「上昇負荷」「アビスの呪い」というペナルティを受けることを意味する。上への目線は不安の目線だ。リコから見れば、母親や自分の出生から逃げることをも意味してしまう。上を見るというのはすなわち現在のまま、現在の存在だけに安住したいという逃避の表れに他ならない。

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以下章立て

3、 屈折/不屈の反転
4、生/死の反転
5、希望/絶望の反転


以上--------------------------------

 

 

なお、新刊vol.7.0全体目次は下記

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【 期間限定公開1】アニクリ vol.7.0_1『この世界の片隅に』論 現在(いま)を紡ぐ、あちこちのあなたへ makito×Nag #bunfree

新刊より一部紹介します。

なお、新刊vol.7.0全体目次は下記

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現在(いま)を紡ぐ、あちこちのあなたへー『この世界の片隅に
makito×Nag


Intro

 映画『この世界の片隅に』の描写の多くは、戦時下に置かれた人々の「暮らし」に焦点が当てられる。もちろん、製作者による緻密な考証が、広島と呉の過去の風景を忠実に再生することを可能にした。それゆえに、「私の父がいる」とか「完全にかつて見た広島だ」といった鑑賞者の反応を惹起し、多くの人々が共有する過去の広島の「暮らし」を再現したものとして受け止められている。作品の数々の受賞歴に現れているように、1945年の戦争という「世界」の分岐点を嫌でも象徴してしまう「ヒロシマ」を、フィクションを通じて巧みに再現しえた傑作として、広く世界に知られることとなった。
 しかし、本作で強調されるのは、そのような再現が、すずという名の一人の少女から見られた、辺鄙でありつつ秘密に満ちた広島の「暮らし」に魂を吹き込んで(アニメートして)いる、という点である。本作は英訳で、極東という「隅」、かつ、すずが嫁いだ北條家の立地たる「隅」の意のほか、辺鄙・秘密・窮地の意も持つ「In this Corner」と訳された。まさに「世界」を緻密に描こうとすればするほど、その現実への肉薄が、同時に替えがたい、辺境に生き、秘密を抱えた描き手の存在を必要とする、という点がここに現れている。
 すなわち、本作で特に興味深いのは、すずという少女が、自身を絵に描きこむ(アニメートする)ことを通じて、自らの住む場所が一体どこなのか、自分が一体何を欲し、何であろうとしていたのかを確認してきた者だという点にある。この点は、ドキュメンタリーを徹底するためには、アニメーションという現実歪曲的で脆弱な、しかし替えがたい語り部の存在が必要になるという、『アニメクリティークvol.5.0』所収の「視線をはじくもの」)で展開した論点に重ねられる。
 そこで展開したように、人は現在目の前にあるものさえも、数々の物語なくしては見ることができない。記憶に従い自身を物語ることは、過去を取り戻す力であるとともに過去を歪曲する暴力でもある。しかし同時に、現在の自分の理解を確認することを可能とする最後の砦でもあった。
 「ぼーっとしとる」ために現在から常に遅れてしまうすずについても同様だ。外からやってきた、結婚や戦争という物語に従って自らを物語ることで、すずは、彼女の現在を歪曲する暴力に自らを晒してしまう。そこにおいて、絵に自らを書き込むという作業は、彼女の現在を守るための最後の砦であったと言えるだろう。つまり、自分から見た(ちょっと前の、つまり遅れがちなすずからすれば「現在」の)風景の中に自らの姿を書き込むことで、余りに早く過ぎ去り、かつ、遠くへと進み過ぎる現在の暴風から、彼女は自身の現在を守っているのだ。
 しかし現実は残酷であり、彼女は結婚とともに絵を描く習慣から離れがちになり、戦争とともにノートを奪われ、歪な形でしか希望の象徴たる鷺を描けず、終いには絵を描く腕さえ失うに至る。一連の外来の出来事に流されながら、彼女は自身を絵の中に書き込めなくなっていく。それでも現実を超えた何物かを物語ろうとする衝動は、時に自らの周囲を塗りつぶす悲劇にも通じ、反対に妹や夫や孤児を癒す祝福にも通じうる。このことを、すずの物語は教えてくれる。
 これら一連の事件は、ドキュメンタリーをアニメーションによって補完する、又はアニメーションをドキュメンタリーの介入に晒す、という『vol.5.0』の展望の前提である、描き手・語り部といった脆弱な存在をどのように保持するか、という問いに答える必要を示している。本稿が扱うのはこの問いである。

 

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以下章立て

第1章、世界の片隅=秘密をいかにして描くか?

(1)外来の物語という暴風
(2)現実を目の前にして描くこと
(3)描くことを拒む戦争の顔

第2章、右手の代わりに描き継ぐもの

(1)片隅において描かれ”え”た断片
(2)描き継ぐためには右手はいらない
(3)私が死んだのか?あなたが死んだのか?なぜどっちが死んだとわかるのか?

Outro.

 

以上------------------------------

 

新刊vol.7.0全体目次は下記

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nag-nay.hatenablog.com

 

 

 

 

 

[発刊告知]アニメクリティークvol.7.0「声と身体/ 松尾衡×機動戦士ガンダム サンダーボルト」寄稿募集 #C93

以下の通り、2017/12/31(日)、第93回コミックマーケット(C93)に参加します。

詳細は下記にて。 

 

表紙

 

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Contents

 

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目次と試し読み頁へのリンク(総合)

 

第1部 時間と身体

 0、巻頭言 Outline.『GTB』 『メイドインアビス』『宝石の国

  「生ける道具としての我々を解釈する」

 

第2部 語り部と身体

 1、makito × Nag 『この世界の片隅に』論

  「現在を紡ぐ、あちこちのあなたへ」

 2、wak(かつて敗れていったツンデレ系サブヒロイン)

  『メッセージ』『ブレードランナー2049』論

  「『ブレードランナー2049』の偽物の痛みと本物の救済」

 3、あんすこむたん『メイドインアビス』論

  「上下・生死 反転・逆転する世界

 

第3部 作り手と身体

 4、パーフェクト寄生髭『機動戦士ガンダムサンダーボルト』評+詩

  「分裂、投影

 5、tacker10  『機動戦士ガンダムサンダーボルト』論

  「コード・シンボル」付:橡の花レビュー & tacker10リプライ

 6、すぱんくtheハニー『ヘボット』『打ち上げ花火』論

  「消える花火を見えないまま繰り返して。——置き去りにされた現実の私、生き続ける虚構のあなた」付:橡の花レビュー & すぱんくtheハニーリプライ

 7、あんすこむたん『Re:CREATORS』論 

  「クリエイターとキャラクター」 付:tacker10コメント

 

 

 

特徴としては、読者とのコミュニケーションの便宜のためのレビュー/リプライ/コメント形式を復活させました。(参考画像ではtacker10さんの頁をご確認ください。)

デザイン的には、ノンブルを第一部、第二部、第三部、最終部とで別々にしたり、ロゴを自家作成するなど、既刊で取り入れてきた要素を盛り込んでいます。

挿絵も解釈可能なものとして配置に意味を持たせてあります。是非ご確認ください。

以下はサンプル画像。

 

 

0、冒頭頁、目次頁

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1、第一部より巻頭言・アウトライン

 (※ノンブル:レグとメイニャとタマちゃん)

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2、第二部より、

 『この世界の片隅に』論:makito氏×Nag、

 『ブレードランナー2049』×『メッセージ』論:wakさん、

 『メイドインアビス』論:あんすこむたん氏

(※ノンブル:リコとプルシュカ(カートリッジ)とリュウサザイ)

 

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3、第三部より、

 『機動戦士ガンダムサンダーボルト』論:パーフェクト寄生髭氏、tacker10氏、totinohana氏、

 『ヘボット!』『lain』『打ち上げ花火、下からみるか?横からみるか?』論:すぱんくtheはにー氏、totinohana氏

 『Re:CREATORS』論:あんすこむたん氏、tacker10氏

(※ノンブル:ナナチとミーティ)

 

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(レビュー/リプライ構成)

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奥付(※小ネタですが、ここのノンブルは奥付の一箇所しか使われていないため是非注目ください)

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 以上です。

当日もどうぞよろしくお願いします。

 

c.bunfree.net

 

 

------------------------------以下、過去の募集要項など。

 

1、検討・寄稿募集作品例:


(概ね2010年以降における)アニメにおけるキャラクターの身体、MSや拡張身体、アニメ視聴・VR視聴における(身体的)経験など、アニメと身体、アニメと声に関連した任意の作品

 

 


対象作品例


(1)身体

 

リトルウィッチアカデミア
宝石の国

メイドインアビス

山田孝之3D

18if

幼女戦記
けものフレンズ
ACCA(アッカ)13区監察課
傷物語Ⅲ -冷血篇-
劇場版 甲鉄城のカバネリ
虐殺器官
LUPIN THE ⅢRD
龍の歯医者
劇場版 ソードアート・オンライン-オーディナル・スケール-
夜は短し歩けよ乙女

夜明け告げるルーのうた
BLAME!
プリンセス・プリンシパル
ボールルームへようこそ
ID-0
正解するカド
Re:CREATORS
終末なにしてますか? 忙しいですか? 救ってもらっていいですか?
劇場版 魔法少女リリカルなのはReflection

打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?
プリズマ☆イリヤ
RWBY(VOLUME 4 含む)
劇場版 Fate/stay night -Heaven’s Feel-

 

(2016以前)
この世界の片隅に
君の名は。
劇場版 艦隊これくしょん -艦これ-
機動戦士ガンダム サンダーボルト
結城友奈は勇者である -鷲尾須美の章-
亜人
花とアリス 殺人事件
同級生
劇場版 selector destructed WIXOSS
バケモノの子
ハーモニー
紅殻のパンドラ

 

(付属冊子予定)

機動戦士ガンダム サンダーボルト BANDIT FLOWER
GODZILLA(ゴジラ) -怪獣惑星- (第一章)

 

 

(2)声

聲の形
昭和元禄落語心中
劇場版 蟲師 続章 -鈴の雫-
ガールズ&パンツァー(GIRLS und PANZER)
心が叫びたがってるんだ。
てさぐれ!部活もの
THE IDOLM@STER MOVIE 輝きの向こう側へ!
たまこラブストーリー
かぐや姫の物語

 

 

(3)松尾衡作品

 機動戦士ガンダム サンダーボルト(2017)
 orange(2016)
 コンクリート・レボルティオ〜超人幻想〜THE LAST SONG(2016)
 ノラガミ ARAGOTO(2015)
 機動戦士ガンダム サンダーボルト(2015)
 ガンダム Gのレコンギスタ(2014)
 月刊少女野崎くん(2014)
 ソウルイーターノット!(2014)
 革命機ヴァルヴレイヴ(2013)
 夏雪ランデブー(2012)
 坂道のアポロン(2012)
 ベルセルク 黄金時代篇I 覇王の卵(2012)
 模型戦士ガンプラビルダーズ ビギニングG(2010)
 紅OVA(2010)
 機動戦士ガンダム戦記 アバンタイトル(2009)
 紅(2008)
 夜桜四重奏 〜ヨザクラカルテット〜(2008)
 アイドルマスター XENOGLOSSIA(2007)
 sola(2007)
 デッドガールズ(2007)
 ローゼンメイデン オーベルテューレ(2006)
 RED GARDEN(2006)
 ローゼンメイデン トロイメント(2005)
 ローゼンメイデン(2004)
 TEXHNOLYZE(2003)


2、寄稿募集要項


(1)募集原稿:

 「アニメと身体」あるいは「アニメと声」に関連して論じられる原稿。両者を接続するものも推奨。
 

(2)装丁・発刊時期:

 オフセット印刷、A5、100頁程度で企画しています。
 発刊時期は、2017年秋の第25回東京文フリ(11月)を想定しています。
 

(3)募集原稿様式

a. 文字数:
 ①論評・批評 : 3000字程度から15000字程度まで。
 ②作品紹介・コラム:500字程度から2000字程度まで。

b. 形式
 .txt または .doc

c. 締め切り
 第一稿:2017/10/16(月)
 (※ 個別に連絡いただけましたら延長することは可能です)
 (※ その後、何度か校正上のやり取りをさせていただけましたら幸いです。)
 最終稿:2017/11/5(日)

d. 送り先
 anime_critique@yahoo.co.jp
 ※ 参加可能性がありましたら、あらかじめご連絡いただけましたら幸いです。その際、書きたい作品、テーマ、内容についてお知らせくださると、なお助かります。
 ※ 原稿内容について、編集とのやりとりが発生することにつき、ご了承ください。


(4)進呈

寄稿いただいた方には、新刊本誌を進呈(※ 進呈冊数は2を予定)させていただきます。

 


3、企画趣旨・発刊趣旨:


 画家[芸術家]は「その身体を携えている」とヴァレリーが言っている。実際のところ、〈精神〉が絵を描くなどということは考えてみようもないことだ。画家はその身体を世界に貸すことによって、世界を絵に変える。
 モーリス・メルロ=ポンティ『眼と精神』

 

(1)「道具としての我々」を解釈する

 機械は肉体を超えるのか? とだけ問われたならば、迷わずイエスと答える人が、今なら多いかもしれない。
 
 第三次AIブームも然ることながら、IoT、自動運転技術といった環境的知能の発達に加え、我々の肉体を走査・探索し、肉体に入り込むスキャン・BMI(Brain Machine Interface)技術、補綴・補填具の発展による肉体の(身体的・認知的・道徳的)エンハンスメントも、このイメージに貢献していることだろう。
 よりわかりやすいところで言えば、義足での陸上競技記録が健常者の記録を上回る「逆転」(と呼ぶべきか自体が争点であるだろう)が実現しつつあり、介護・医療用(そして勿論軍事用の)パワードスーツの導入が本格化しつつあることを思い起こせばよい。いまや「自分の手足以上の機能が欲しいから、手足を切って最先端の義肢装具をつけて欲しいという人が現れるのではないか」という懸念は、フィクション作品にではなくごく日常的なニュースに現れる問いとなっている。確かな根拠の有無に関わらず、法的な尊厳・プライバシー問題やコントロール不可能性への不安、社会学的な疎外や不平等の拡大といった(古き良きラッダイト的な)懸念が様々に提示されつつも、我々の生活には早晩それが自然であるように入り込むことになるだろう。

 しかし、勿論アニメの名をもつ本号の問いは、この現象自体や現象のイメージに対する善し悪しの判断にはないし(それは願望表出と現状認識との混同に陥りがちだろう)、そもそも「機械」と「肉体」という対立図式やその勝敗予想にもない。
 歴史的に見ても、我々は不断に機械を作り出し、機械とともにコミュニケーションの様式を変化させてきた。何を食べるか、どのように他者とコミュニケートするか、いかなる「主体」であるかについて、絶えず肉体を統治し、肉体に改造を施してきた。損傷した脳が自らを変容させ、欠損した機能を補完するのと同様に、我々は常に環境の中で、環境として、環境を変形させてきた。
 物としての我々/道具としての我々という描像は、貧しく、避けられるべき何物かとしてだけではなく、視聴者であれキャラクターであれ(それらを含む)製作者であれ、我々の在りように迫るための「フレーム」として現れる。

 ここから次の問い、すなわち、そうした技術を前にした我々は果たして何者であるのか、我々はどこにいるのか、我々はどこまでが我々なのかという問いこそが、問いかけられるべきであると考える。
 私は、という心身問題に足を取られそうな主語は、ここでは外しておこう。これらの問いは、決して表皮によって限界を画され、脳によって外界を処理するというイメージによって回答を与えられるものではない。この問いは、人類としての「我々」が現在の技術的環境下において可能なことの限界を絶えず探索しつつも、同時に共同体としての「我々」の内にどれだけの行為の諸可能性を保全できるかというリスク受容の試みであり、さらには共同体のうちに自己の生を意味あるものとしようとする自由を闘争させる場を形成する倫理的な企てでもあるからだ。
 本号の表紙のみならず内容の中心をなすだろう『機動戦士ガンダム サンダーボルト』はその一例である。

 (A.クラークもJ.ギブソンも持ち出すまでもなく)我々はこれまでも、そして恐らくはこれからも、機械によって肉体の足場を拡張しつつ、機械を用いるように駆り立てられつつあるサイボーグである。電線を走る信号(発火-稲妻!!)やインプラントの有無に関わらず、機械(装置)なしには我々はない。この意味で、環境へと拡張された心という仮説は、それ自体としては受け入れやすい描像だ。
 すなわち、生物とテクノロジーの連合こそが我々の自然である。それゆえ、機械(装置)への懸念群を枚挙することで事足れりとはならない。問いかけられるべきは、機械(装置)といかに共存するかという我々の在りように他ならない。
 だから、外なる影響から自由であるという強い独立性を我々の条件として課すことはそもそも(フィクションでさえ)できない。反対に、影響を全面的に受け入れることも、我々の行為者性を消し去ってしまう。技術に依拠してしか我々の選択が生じない以上、我々が自由の領域を暫定的に確保するために、自分を決定づけつつあるものへと関与する能力が「自己への配慮」として求められることになるのは、その我々の自然の現在における現れである。

 しかし、何よりこの描像は畢竟アニメ向きであるようにも思える。アニメにおいてフレーム外の音も述懐も画面の構成要素をなすとともに、それが(例えば声優が声を自然に当てることができる、あるいは、運動を運動として処理することが可能である形で)秒数的に制限されているというのは、興味深い現象である。
 当然のように思われるだろうが、我々は彼のガンダムの「目にも留まらぬ」運動については(メタファーとして以外では)光の軌跡としてしか追尾することはできない。あるいはより物語に即して言えば、当該世界の戦争に終わりがないように、勝つべき時に勝つことは決してできず、負けるべき時に負けることもできない(いわば勝負はあっても勝敗はない。ただし歯切れが悪いことをお詫びすれば、殲滅を除いては。)イオ/ダリルの姿は、自らを物に限りなく近付けた道具(としての我々)と重ねられる。
 
 かつてバロウズは「私たちはここを去るためにここにいる」と述べた。勿論そこでいう「ここ」とは地球のことであっただろう。本号の関心に従えば「ここ」とは私の身体であり、我々の身体である。しかし、繰り返すようにそれは現在において偶然「こう」である肉体とは独立である。どこまで行っても身体は(拡張されることはありこそすれ)除去することはできない。
 冒頭で引用したように、身体が世界を絵に変えるのであり、そのように世界を別のものに振り向けるものこそ、我々の実存に他ならない。contingere という語が触覚(contact)と偶発(contingency)の双方に派生し、一触即発であること、偶然であることをも含意することを思い起こせば、我々の身体を考察するということは、キャラクターとフレームを考察することに近似するように思われる。


(2)「声の在り処」を積み上げる--生身の声優ではなく、虚構のキャラクターでもなく


 以上の思弁は、キャラクターにおける声の考察、声優という存在の考察にも、一つの問いを投げかける。

 キャラクターの声は少なくとも、①素材としての(主には)声優の息、声帯振動、共鳴腔、舌・唇・口腔が複合した音声(=共振周波数)、②当該音声が対応するキャラクターの音声(発生源)、③表現された演技、④(世界描写的意味と)世界内の意味とによって構成される。素朴にキャラクターの声と言われる時に想定されているのは概ね④であり、キャラソン等で求められるのは概ね③であり、声質として求められるのは概ね①であるだろう。
 さらに、①の素材はどの作品で、どのようなキャラで、どのような演技をしたかという来歴を背負っている。声優自身のキャラクターという意味での受容も、現在では一般化しているようだ。そのため、声の受容にあたっては、①から④までを自然か不自然かという観点から「聞き流す」最も素朴な聴取体験から、①の来歴に遡って物語の読み(勿論いい意味で裏切られる可能性もある)に反映させる聴取体験まで、幅広く存在するだろう。
 
 しかし、他方では、このような複層的構造を持つ声の解釈が縮減されてしまう恐れも垣間見える。これは、声優の履歴が容易に辿れるようになった環境要因にも一端があるし、声優が顔をもつアイドル化したことにも一端があるかもしれない。さらには、声優には(声優自身の自己プロデュースなるものがあるとすればまだマシなのだが)物語を壊さない形での自己のプロデュースという高度な技も求められているようにも観察されることにも、一端があるかもしれない。
 疑いようもなく声優は類い稀なる声を持つ。(全く関係はないはずなのだが)それゆえに、その声に求められる重さが生身の身体に過重されているとすれば、それは(偶さかに声を職業へと変え得たものに対する)悲劇であるだろう。

 勿論これは声優に限らず、ウェブが可視化した声の取り扱い方に重ねられる。むしろ、近時のネットを思い起こすなら、被害者然とした被害者ではない者、障害者然とした障害者ではない者、市民然とした市民ではない者への発言に場所を割り当てることは、ますます難しくなりつつあるように見受けられる。今般、声の取り扱いは単なる憑依問題を超え、誰に誰の代理として喋らせるべきかの闘争として現れているようにも。もちろんそれは、当事者から声を剥奪する(当事者を、聴き手にとって良いように語らせる)作為と表裏一体である。
 一つの例を示すならば、当事者に決定を委ねるという更なる暴力のことをあげればよい。科学的には安全な放射性物質の海への放出について、誰に決定権をゆだねれば良いかという問題である。被災者に委ねる場合、「Yes」という決定は、(単なる決定の意思表示を超えて)責任の自己帰属の表明として受け取られるリスクを創出するだろう。翻って、「No」という決定は、(単なる決定の意思表示を超えて)「地元民による反対(を押し切っての放出)」という物語を作出することへの寄与となる。決定権を委ねること自体が、非争点的な内容を孕んでしまう以上は、この選択に晒すことそのものが、被災者に対する暴力であることは否定できない。もちろん、被災者に決定させることそのものの利点を措いてなお、この点は避けようもないジレンマとして現れる。

 このように誰かのために、誰かに変わって声を発するということは不可避的にジレンマを作り出す。表現にまつわる課題として(ヘイトスピーチにせよ、ポルノグラフィにせよ)、声の解放を謳う場合には、「解放的ではない」声を拡散することも、声で表現することの亜種として認めねばならない。個人の尊厳といえば聞こえはよい。しかし、互いに自尊心を持ち、平等に互いを見上げ合う高い地位の普遍化を標榜する重みに、個人が耐えることは難しい。リスク社会化、専門分化とともに社会的・経済的格差が表面化する現在において、この「高い身分」の普遍化を貫徹することは容易ではない。
 「我々」一人一人は、その重みに耐えられないかもしれない。それでもなお、普遍化された「高い身分」を再度、「我々」の中での選択の中に馴致することは可能であるかもしれない。権利の内なる制約として高い身分に伴う義務があるように、行為者たりうるための自己形成過程には環境関与的な「我々」を担う自己像の構築が模索されるべきであるだろう。
 例えば、被造物における声の取り扱いのことを思い返せば良い。出生より10年の時を経た初音ミクのことだ。

 手短に一例だけ記せば、最も端的にこのことを示すのは、初音ミクの「声音」情報を用いた展示、「Ghost in the Cell:細胞の中の幽霊」である。ここで展示されているのは、表向きは単なる肉塊である。その実は、集合的かつ人為的に作出された初音ミク-DNA情報と心臓細胞である。
 ここでは倫理が二重に絡まっている。現実の人間の遺伝子編集でない以上は、通常の倫理的問題は回避しつつも、現実の人間以上に人間的なコミュニケーションの渦中にある初音ミクの情報を用いた遺伝子編集には、果たしてどのような意味があるのだろうか。さらに初音ミクには、原基として藤田咲から借り受けた声がある。画像としての身体があり、キャラクター性も十二分に備わっている。もはや足りないのは「身体」だけであると考えるならば、その時の身体とはどのような位置を持つのだろうか。

 身体と声というテーマは、この緊張関係を分有している。身体と声とを同時に取り扱うことはこの意味で必然のように思われる。
 

(3)発刊趣旨

 以上、本号vol.7.0「声と身体/ 松尾衡×機動戦士ガンダム サンダーボルト」で取り扱うのも、vol.3.0の「音/人工物」論、vol.5.0の「技術」論に引き続き、技術(道具)と身体が絡み合う場と時間に関する問いである。
 そして、これは勿論、vol.2.0の「SF」、vol.4.0「身体」論、vol.6.0「物語」論に続く問いでもある。
 
 冒頭に記したようにある哲学者は、画家の精神が絵を描くのではなく、「画家[芸術家]はその身体を世界に貸すことによって、世界を絵に変える」と述べていた。声優がサンプリングされた声を貸し与えることによって、世界を歌に変えるように。
 しかし、もしこの言葉が画家やPという主体をイメージさせ、その主体に拘束されるなら、それは誤解であり杞憂であるだろう。既に20世紀半ば、写真技術は即物的に写実を為したのであり、そこでは目が手の代わりを果たした(これがベンヤミンのいう「芸術上の責務を課された手の消失」である)。だから、冒頭の哲学者の言は、身体を世界に貸し与える者は誰しも世界を絵に(歌に)変えうる、と解釈されるべきである。

 アニメに通じたこの文章の読者諸氏ならば多かれ少なかれ、自分が(あるいは別の視聴者が)原画の癖を見抜いたり、ミリ秒単位の作画を分析し、その巧拙を評価することもあるだろうし、そこから物語を読み取り、再解釈し、さらに整合的な形で付け加えることもあるだろう。あるいは、刹那の語り出しを聞いた瞬間に、声優の声とその主演記録を思い起こすかもしれない。そのどれもが、我々の身体を通して得られた、我々の世界の絵描きである。そうであるがゆえに、その絵を重ね合せる場所こそが、模索されるべきではないか。そう編者は考えている。
 

 

以上

 

 

 

4、今後に向けて

 

ガールズ&パンツァー 最終章

映画 中二病でも恋がしたい! -Take On Me-
蒼きウル
劇場版 響け!ユーフォニアム(みぞれと希美の物語)
劇場版 響け!ユーフォニアム(2年生になった久美子たち)
フリクリ2
フリクリ3
劇場版 魔法少女リリカルなのは Detonation
シン・エヴァンゲリオン劇場版:||
ヴァイオレット・エヴァーガーデン 

アニクリvol.6.1「夜は短し歩けよ乙女+四畳半神話大系特集(仮)」の発刊について:2017年文フリ #bunfree

1、検討・寄稿募集作品:

 

(1)夜は短し歩けよ乙女

(2)四畳半神話大系

 

2、寄稿募集要項

 

(1)募集原稿:上記2作にかかる評論、批評、二次創作等々

(2)装丁・発刊時期:

 モノクロ小冊子、A5、28頁程度で企画しています。
 発刊時期は、2017年春の第24回東京文フリ(5月)を想定しています。

(3)募集原稿様式

a. 文字数:
 ①論評・批評 : 3000字程度から15000字程度まで。
 ②作品紹介・コラム:500字程度から2000字程度まで。

b. 形式
 .txt または .doc

c. 締め切り
 第一稿:2017/5/1
 (※ 個別に連絡いただけましたら延長することは可能です)
 (※ その後、何度か原稿の校正上のやり取りをさせていただけましたら幸いです。)
 最終稿:2017/5/5 

d. 送り先
 anime_critique@yahoo.co.jp
 ※ 参加可能性がありましたら、あらかじめご連絡いただけましたら幸いです。その際、書きたい作品、テーマ、内容についてお知らせくださると、なお助かります。
 ※ 原稿内容について、編集とのやりとりが発生することにつき、ご了承ください。

(4)進呈

寄稿いただいた方には、新刊本誌を進呈(※ 進呈冊数は2を予定)させていただきます。

 

3、企画趣旨代わりの小噺がてら

 

 思い出せば随分昔のことになるのでしょうが、一つ大して気の利かない小噺を思い出しましたので、一つお耳汚しをば。

※ ちょうど高校2年生の夏になるでしょうか。私は当時東北の仙台で、凡庸極まる夏休み期間を過ごしていたのでした。高校からはじめた弦楽器が滅法に面白く思えた私は、起きてから寝るまでの間、空いた時間は殆ど楽器にしか触らないような生活を送っていたのですが、その甲斐あって、(今考えれば)随分面倒見の良かった先生に、随分なご厄介をかけるようになっていました。
 今となっては動機が何だったのかは最早思い出せません。あえて思い返そうとするならば、私を見兼ねた先生が仰ったのだと、「どこか興味のある大学のオープンキャンパスにでも行ってきなさい」と、その先生はただの一学生を広い学内から探し出して、わざわざ最上階の(音が響きづらい)倉庫兼部室にまで言伝に来てくれたのだと推し計れます(もしそうでなければわざわざは遠出しなかったくらいには不精かつ音楽に没頭していたために、そうとしか思えないのです)。

 当時の先生を美化するべきなのかどうかは、いまになっては判りかねます。ギリギリとはいえ既に21世紀でしたから、某省的な圧力があったのかもしれませんし、そもそも「オープンキャンパス」というような軽薄な響きのイベントごとに当時の私が勇んで参加したかすら定かではありません。その証拠とはいえませんが事実として、結果としては、私はその年の大学のオープンキャンパスには参加しなかったのでした。
 しかし、ならば全く徒労とも言えようことに、私はその年、私の記憶が正しければ(オープンキャンパスが終わった後の何もないはずの)京都大学に足を運んだのでした。それは紛うことなきことなのです。

 今となってみれば、オープンキャンパスは大学の主たる宣伝場という印象が強いかもしれませんが、21世紀初頭にあっては、そんな横文字は大して耳慣れた文字列ではなかったはずです。ともかく、そんな行事が催されているという話を耳にし、Windows98搭載PCで検索をしていた記憶が蘇ります。ただし、調べた結果としてはオープンキャンパス自体は残念ながら開催日を終えていたのでした。
 では諦めるかといえばそうではなく、その当時の私は「とりあえず見てくるか」という心算で青春18切符を買いに行ったのです。一つのことを始めると融通が効かずにそのまま事を続けてしまうという悪癖が露出したものと思い出されますが、そこは高校二年生で、明くる朝には仙台から京都に向けての出立のため、家をあとにしたのです。
(あまりにも唐突だったためか、父親が職場から渡されたはずの携帯電話を急ぎ私に渡す羽目になり、それによって仙台で働く父親と首都圏の若い女性との密通の事実を期せずして知ることとなりましたが、未だその事実は露見していないはずでしょう。何事にも正負の側面というものがあるものです。)

 そんなこんなでかつては定期便であった「ムーンライトながら」に揺られ京都に到達し、ユースホステルを起点として、大学巡りをすることになりました。同室のよくわからない大学生ら(思い返せばオタクっぽかった。)と話したり、同世代の女学生(なぜあの時期に京都に来ていたのかは全く不明。)を駅まで見送ったりしたような気もしますが、それ自体はまぁ通り一遍の対応で済ませたような気がします。
 一つ残念なことに、無鉄砲な私は(オープンキャンパスどころか)偶々お盆休みにかぶる時に大学に向かってしまったようで、図書館にも入れず某寮への侵入も失敗したりと散々な目に会いました。とはいえ、キャンパス内を目的なく徘徊していると、いかにもな大学生や研究者の方々と思しき人々とすれ違うことで勝手な納得感を得ていたような気がします。

 さて、思い出した小噺というのはここからです。
 その足で、出町柳に向かって歩いていた時、「もし」と声をかけられたのでした。「もし」と声をかけられること自体が(当時ですら)風情があったもので振り返ると、そこには女性が一人、日傘を傾けて立っていたのでした。
雪駄を履いた(なぜ雪駄かといえば、下らないことに私の通う高校に「下駄禁止」の規則があったため。)、見た目はズダ袋にしか見えない帆布リュックを背負う若者にわざわざ話しかけなくてもいいように思うのですが、何故かその人は私を引き止めたのでした。まぁ、東北の片田舎からやって来た洗練されない少年と言うのは、いかにも安全そうに見えるものでしょう。
 「綺麗な人だな」というのがこちらから見た第一印象で、立ち止まって話すとどうやら地下鉄の駅に行きたいのに迷っているという話。「私自身も所謂お上りさんなのですが」と言うと、「では一緒に参りましょう」という始末で、「ははぁこれが出来すぎた話というやつか」と思いつつ、彼女を今出川駅までお送りした次第です。
 道中ニコニコしながら歩む彼女に「京都の方なのですか?」と頓珍漢な質問(京都人なら迷うわけなかろう。)をする私に、「いえ、普段は大阪の方に住んでおりまして」と彼女は言う。「なるほど、では今日は偶々なわけですね」と返す不甲斐ない私に、「そうですね、今日は親類の関係で来ておりまして。私自身は仙台から来たのです」と彼女は返す。
 「なるほど遠い地だから仕方ないですね」と応じつつ、あれ?と思って「私も昨日仙台から来たのです」と付け加えると、先方の顔は見る見る内に綻び、私が通っていた学校(仙台第一)とほぼ同名の学校の名(宮城一女)を、通っていた高校として挙げるのでした。
 そこから先は、随分いろいろな話をしたような気がするのですが、あまり覚えていません。覚えているのは、先方が仙台の好きだった菓子屋の話などをするのを、大して上手くない相槌とともにうんうん頷くことしかできなかったと言うことくらいです。

 世が世なら、と言うか、私の歳が歳なら、それはとても『夜は短し歩けよ乙女』調だったと言えましょう。実際には「黒髪の乙女」とは些か言いづらいものの、お話しさせていただいたお相手は、白髪混じりでありつつ背筋がピンと張った、初老ではあれ美しい女性ではありました。連絡先すら聞くことはできず(21世紀初頭はそういう風習さえなかった。)、何度もお辞儀をして階段を降りる彼女を、私は今出川で見送ったのでした。
 今思い返せば、その女性の向かうべき場所は今出川駅から直通で行ける場所ではなく、やはり私には荷が重かったガイドだったわけですが、スマホもなく、当時は道を尋ねるべき歩行者も少ない(そんな時がかつての御所付近にまだ在ったのです。)まま、ともに見知らぬ京都の地であれこれと考えあぐねて照りつける日差しの中あるき回ったその日の記憶は、ふと意識に浮上してくる記憶の一つとなっているのです。

 その後、私は京都の大学と東京の大学(どちらも馬鹿みたいに古い寮があって、とりあえず生活はままなるだろうと言う)のいずれかを選択するにあたり東京の片田舎の方を選んだわけですが、『夜は短し歩けよ乙女』の、恐るるところなしとばかりに進む「黒髪の乙女」を見て、あの時の「袖振り合い」感を僅かながらに思い出したわけです。

 私たちは「袖振り合って」どこに行くのか?どこに行くことができるのか?『四畳半神話大系』での遅々とした歩みとは裏腹に、『夜は短し歩けよ乙女』では軽快に「乙女」が進んでいきます。御都合主義と言う揶揄すら届かぬまま、彼女は歩みを進めるのです。酒場から宴会へ、宴会から舞台へ、舞台から四畳半へ。惨めさなど些かも感じないまま、感じさせないまま。イメージからシンボルへ、シンボルからメタファーへ、彼女はくるくる変わる背景の中をずんずんと進みます。

 私たちはどこにいるのでしょう?どこに行くことができるのでしょう?そんなことを思いながら、私は「袖振り合う」数々の人たちのことを思うのです。また、そんな数々の人達の袖振り合った数々の人たちのことを、訊きたく思うのです。本作において寄稿を募集すると言うのは、そう言う問いの下にあるように思えてならないのです。

 

以上

 

文フリ新刊寄稿募集 アニメクリティークvol.6.6 続・新房昭之ノ西尾維新『続・終物語』 #bunfree

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1、検討・寄稿募集作品例:

(1)続・終物語及び関連諸作品

 ・化物語
 ・偽物語
 ・猫物語(黒)
 ・〈物語〉シリーズ セカンドシーズン
 ・憑物語
 ・終物語
 ・暦物語
 ・傷物語Ⅰ, Ⅱ, Ⅲ

(2)新房昭之(総)監督の携わったアニメ作品に関連する評論

(3)他、西尾維新原作作品に関する評論

 

2、寄稿募集要項

(1)募集原稿:

 続・終物語及び関連作品
 

(2)装丁・発刊時期:

 オフセット印刷、A5、32頁程度で企画しています。
 発刊時期は、2018年秋の東京文フリ(11月)です。
 

(3)募集原稿様式

a. 文字数:
 ①論評・批評 : 1500字程度から15000字程度まで。
 ②作品紹介・コラム:300字程度から1000字程度まで。

b. 形式
 .txt または .doc

c. 締め切り
 最終稿:2018/11/23
d. 送り先
 anime_critique@yahoo.co.jp
 ※ 参加可能性がありましたら、あらかじめご連絡いただけましたら幸いです。その際、書きたい作品、テーマ、内容についてお知らせくださると、なお助かります。
 ※ 原稿内容について、編集とのやりとりが発生することにつき、ご了承ください。


(4)進呈

寄稿いただいた方には、新刊本誌を進呈(※ 進呈冊数は2を予定)させていただきます。

 


3、企画趣旨

「文字とは、奇瑞を記し、凶兆を知り、天を動かすものである。個人のためにつくられたものではなく、集団に与えられた恩寵だった」円城塔『文字渦』2018)

「鏡はその裏箔を反映させることはできないが、それなしではそもそもいかなる反映もありえない。鏡の裏箔は下部構造(原-痕跡、差延、代補、再-マーク、反覆可能性)でできており、反映-反省を可能にするものなのだが、それはまた、反映-反省が自己自身へと閉じることを防いでもいる」(ロドルフ・ガシェ 対話「思考の密度」2008年)

 

 本というものには顔があり、裏(奥行き)もある。文字どおり、裏の顔(裏表紙)も、裏の顔の裏(裏表紙裏)もある。文章にも、言葉にも裏の顔(トリック、皮肉 etc.)があり、もしも読まれたならば声にも顔(声音/声色)と裏(裏返り/裏声)がある。解釈が介在する以上、意味が決定不可能な文章というのも存在するし、意味上、映像化不可能な文章というものもまた存在する。

 では、解釈を駆動する最小単位、線/文字には顔があるだろうか?線/文字には裏があるだろうか?(文字を鏡写しにしても左右反転にしかみえない。文字が印刷された紙を裏から透かして見ても、左右反転にしかならない。)

 上記鏡映反転の現象において知られているように、もしも対象物に奥行きがなければ、裏返す操作と反転(逆転)する操作に見かけ上の違いはない。しかし、線/文字に裏面などないことを認めた上で、線/文字(最小単位、個体、キャラクター etc.)に「裏」を(すなわち奥行きを)与えるならば、その時一体どのようなことが起こるのだろうか?(それは、描かれたキャラクターに”原理的に”書き込まれえない裏面を与えることと、どのくらい似ているだろうか?)

 

 「白黑反轉」(©️傷物語から「鏡映反転」へ。西尾維新(原作)×新房昭之(監督)『続・終物語』の鑑賞後、編者に浮かんだ疑問は上の通りである。

 

 西尾維新の終わりを与えるはずの物語のそのまた続き、『続・終物語』の映像化は後日談やファンディスクに収まらない。『続・終物語』は、登場人物による自己の解釈を描き、作者による自作品解釈の挫折を描き、そうして、「心残り」からも漏れ出る残りを、虚構の(しかし、真実の別面でもある)像として浮かび上がらせる。ヴェールの奥から身を現さない忍野忍(=反転に耐えられる文字列「忍 野 忍」のその裏面)はその徴(憑)であり、心残りがないはずの戦場ヶ原ひたぎの別の顔はその証(言)である。

 西尾維新は、膨大な『物語』の系列、上/下(巻)、白/黒にわたる文字の渦を、自覚的に反覆し、ひたすら反転させてきた。その現在としての『続・終物語』は、自身の本の最小構成要素たる文字を裏返す。別のフィクションの内部に取り込んでしまう荒技を映像化するもの、端点を繰り延べるものとして『続・終物語』はある(はずである)

 

 文字の映像化の限界とともに、文字に「裏」を与えるもの、端点(終わり/はじまり)を裏返すもの、永井均森見登美彦の比喩を借りるならば)表返された世界-袋。『続・終物語』をそういうものとして読み解いたら、どのような展望が開けるだろうか。

 

vol.6.6の発刊趣旨は以上である。

 

以上

 

 

 

 

------以下は、vol.6.0の情報

 

 

 

 

「表紙

 

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目次

 

 

I Outline

1.1  ねりま @AmberFeb 
 いまを途中から生きる

II Technology→Narratology

2.1  Dieske @diecoo1025 
 アニメ『化物語』における「キネティック・タイポグラフィ」再考ー「おもし蟹」の表象に見る「ひたぎクラブ」の主題
2.2  tacker10  @tackerx
 失われた接点(キス)を求めて ー「西尾維新×新房昭之×シャフト」論
2.3  橡の花  @totinohana
 文脈的「モンタージュ

III Metaphor→Metonymy

3.1  みら  @paranoid3333333
 鉄血にして/熱血にして/冷血の吸血鬼 ー分断され接続する『傷物語』について
3.2  あんすこむたん  @deyidan 
 ビジュルアル×トリック ークビキリサイクル終物語
3.3 ぽんてぃーぬ 
 映画『傷物語』の力学 ー青年期の終わりと「これからの日本」
3.4  今村広樹 a.k.a yono  @iyono
 なぜメフィスト賞作家で西尾維新作品の映像化が多いのかについて少し考えてみた

 

 

本文

 

 

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(ページサンプルは後日挿入)

 

 

 

 

------------------------------------------以下、発刊趣旨など

 

 

 

1、検討・寄稿募集作品例:

(1)「物語」シリーズ
 ・化物語
 ・偽物語
 ・猫物語(黒)
 ・〈物語〉シリーズ セカンドシーズン
 ・憑物語
 ・終物語
 ・暦物語
 ・傷物語Ⅰ, Ⅱ, Ⅲ
(2)「戯言」シリーズ
 ・クビキリサイクル 青色サヴァンと戯言遣い
(3)新房昭之(総)監督の携わったアニメ作品に関連する評論
 ・コゼットの肖像
 ・ぱにぽに
 ・ef
 ・ひだまり
 ・まどマギ
 ・打ち上げ花火
  など
(3)他、西尾維新原作作品に関する評論

2、寄稿募集要項

(1)募集原稿:

 新房昭之×西尾維新をテーマに寄稿募集を行います。折しも、三部作となった『傷物語』がこの2017年1月の公開をもって完結し、シャフト×新房も10年を過ぎた現在、新房(総)監督による西尾維新作品のアニメ化についての総括を行うのが適切であると考え、今回の企画に臨んだ次第です。
 
 さて、新房監督といえば、かつて『幽☆遊☆白書』で激しいアクションを指示するコンテ・演出から、トメの多用やカット数をふんだんに利用した近時のシャフト諸作品まで、幅広い作品を手がけて監督です。例えば、トメの多用については監督本人曰く、現場の制作環境の過密さを緩和するための手法であったともされており、純粋に表現面からの要請とは異なる面から意図的に映像作りをしているとの姿勢も見え、『アニクリ vol.5.0「アニメにおける資本」号』との連続性も意識して同人誌作りができるものと考えています。
 もちろん、新房監督も株主兼制作パートナーとして参加するeggfirmの活動なども含め、アニメをめぐる環境に踏み込んだ検討も募集しています。

 また、西尾維新といえば、文字媒体の特質を遺憾なく発揮した文体・語彙選択で知られているわけですが、そのような作品をアニメ化するに際しての巧拙や功罪については、各人の思うところがあるのではないかと思料します。とりわけ、西尾作品についてはプリプロ段階での緻密な検討が要求されると目されることから、この点についての言及を有する批評については特に力を入れてご寄稿いただけましたら幸いです。

※ もちろん、作品評論の常として、どこまでが新房昭之西尾維新によるものかという線引き問題は生じる(例えば、新房は原作者の参加(クレジットにせよ脚本会議にせよ)を積極的に促す監督として知られるが、原作者との距離はどうか? 例えば、尾石、大沼、宮本、川畑等々との「分業」の度合いはどうか?)ものの、この点を含めた議論喚起をなすべく、この度の寄稿募集を行った次第です。
 ※気になる読者は、おはぎ(@ohagi2334)さんのクレジットリストに詳しいので、参照してください。
 

(2)装丁・発刊時期:

 オフセット印刷、A5、100頁程度で企画しています。
 発刊時期は、2017年春の第24回東京文フリ(5月)を想定しています。
 

(3)募集原稿様式

a. 文字数:
 ①論評・批評 : 3000字程度から15000字程度まで。
 ②作品紹介・コラム:500字程度から2000字程度まで。

b. 形式
 .txt または .doc

c. 締め切り
 第一稿:2017/3/25
 (※ 個別に連絡いただけましたら延長することは可能です)
 (※ その後、何度か原稿の校正上のやり取りをさせていただけましたら幸いです。)
 最終稿:2017/4/15 

d. 送り先
 anime_critique@yahoo.co.jp
 ※ 参加可能性がありましたら、あらかじめご連絡いただけましたら幸いです。その際、書きたい作品、テーマ、内容についてお知らせくださると、なお助かります。
 ※ 原稿内容について、編集とのやりとりが発生することにつき、ご了承ください。


(4)進呈

寄稿いただいた方には、新刊本誌を進呈(※ 進呈冊数は2を予定)させていただきます。

 


3、企画趣旨

(underconstruction)

 

アニメクリティークvol.5.5 「新海誠/君の名は。特集号」発刊告知 #bunfree #anime_critique

2016.11.14 書影案(表紙案)更新

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君の名は。』特集号を発刊します。寄稿者等計15名参加、記事数は22本予定です。

以下の通りです。

 

 

1、コンテンツ

 

1.) 『君の名は。』読解・解説・批評・評論等 ×11本

2.) 『君の名は。』コラム ×4本

3.) 追録小説『君の名は。』 ×7本

 ※ 各評者による自身の評論+『君の名は。』への導入となるショートショート

4.) イラスト (作成中)

 

 ※ 東京文フリ11/23(水・祝日)頒布

 ※ A5, 100ページ: 頒布価格600-700円予定

 

 

2、寄稿者・参加者

 

1.) contributor.
 @WataruUmino , @wak , @totinohana , @tackerx , @SpANK888 , @narunaru_naruna , @Mrbitss , KH, @kei_furuto , @frenchpan , @diecoo1025 , @deyidan , @burningsan , @AmberFeb201

2.) illustrator.
 @yopinari , @konkatuman

3.) editor.
 @Nag_Nay

 

 

3、sample. 追録小説

 

i.) かつて敗れていったツンデレ系サブヒロイン (@wak) | Twitter

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ii.) なーる (@narunaru_naruna) | Twitter

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iii.) バーニング (@burningsan) | Twitter

f:id:Nag_N:20161108114341p:plain

 

iv.) 偽うみのわたる@文フリ東京 カ-39 (@WataruUmino) | Twitter

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v.) ねりま (@AmberFeb201) | Twitter

f:id:Nag_N:20161108114430p:plain

 

vi.) すぱんくtheはにー (@SpANK888) | Twitter

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vii.) tacker10 (@tackerx) | Twitter

 (under construction)

 

 

 

4、sample. 評論等

 

i.) かつて敗れていったツンデレ系サブヒロイン (@wak) | Twitter

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ii.) ぱん (@frenchpan) | Twitter

f:id:Nag_N:20161108114816p:plain


iii.) K.H.

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iv.) 古戸圭一朗@3日目東U24a (@kei_furuto) | Twitter

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v.) バーニング (@burningsan) | Twitter

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vi.) 香川に行ったあんすこむたん(旧でりだん) (@deyidan) | Twitter

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vii.) なーる (@narunaru_naruna) | Twitter

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f:id:Nag_N:20161108115055p:plain

 

viii.) ねりま (@AmberFeb201) | Twitter

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f:id:Nag_N:20161108114713p:plain

ix.) すぱんくtheはにー (@SpANK888) | Twitter

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f:id:Nag_N:20161108114631p:plain

 

x.) Dieske (@diecoo1025) | Twitter

 (under construction) 

 

xii.) tacker10 (@tackerx) | Twitter

 (under construction)

 

xiii.) (No name)

 (under construction) 

 

 

評論・コラムは、『君の名は。』に関する読解・解説・批評・評論等を含む。
その直後に挿入されている追録小説は、各評者による自身の評論+『君の名は。』への導入となるショートショートとして補録された。なお、TwitterにおけるSS例を念頭に 140×6字=840字 の制限の下、執筆を依頼している。

なお、本冊子は、アニメクリティーク vol.5.0 「アニメにおける資本・文化・技術/不条理ギャグアニメ」 特集号(近刊)との連関を意識して作成した。アニメ制作工程にあらたな潮流を導入した製作者としての新海誠の顔とともに、アニメクリティーク vol.5.0をあわせて参照されたい。

 

 

以上 

 

 

 

------------以下、公開時 8/27 における寄稿募集文など

 

1、刊行趣旨:寄稿募集に際しての若干のメモ

 

2013年10月のたそがれ時、自らの片割れに逢いに行くために、彼女(の身体をした彼)は疾走する。しかし、自らの片割れに出逢ったがために、彼女は「あの人の名前が思い出せないの?」(=「彼は誰?」)と叫ぶことにもなる。というのも、そもそもたそがれ時に逢えるのは、この世ならざるものであり、此岸と彼岸との距離を隔てたものだからだ。
・・・
ではなぜ彼女は、現実には不在である存在を思い出すことができるのだろうか?
忘れてしまった何か・何処か・誰かを覚えていられるというのは、それが錯覚でなければ、一体どのようなことなのだろうか?
あるいは、現実に生きる私たち視聴者は、同様に知らない者を記憶し、知らない者の名を呼ぶことは(オカルト的な意味ではなく)本当にできないのだろうか?

 

(1) 『君の名は。』:集大成/新境地としての二面

1−1: 連続性

上記のたそがれ時を跨いだ場面には、既存の新海誠作品と『君の名は。』を繋ぐ時間的遅延・空間的距離のモチーフが現れている。
作中で述べられているとおり、たそがれ時は彼岸と此岸を繋ぐ時間であり、世界には存在しないはずの魔に逢うことのできる場である。そこで彼女は、彼女の世界には存在しないはずの彼に出逢う。山を降りた今や名前も思い出せないけれども、自分の「半分」をなしていた誰かに彼女は確かに出逢った。その記憶だけが、彼女の今(作中2013年10月)の衝動を支えている。
・・・
物理的な距離を隔ててなお自分とはもはや決して分離できないくらい距離が近づいた他者、下手をすれば何年何十年と不意に記憶を苛み続ける確固とした他者のモチーフは、『秒速』や『ほしのこえ』でそうであったように新海誠作品を要約する時の一つの常套句として通用するものと思われる。
実際、本作においても、「あの人の名前が思い出せんの!」と叫ぶ忘却の直前、爆破シーンにおいて勅使河原との会話で「(「ごめんやって」て)私が!」と述べていたのは、その片割れは「私」と未分の他者だからである。そんな他者がいた確信すら残らない過去の引っかかりとともに、大人になった今(作中2021年時点)でもまだ、彼女は自らをそんな誰かに投じ続けている。
だからこそ作品冒頭、美しい街の風景を背景とした「気づけばいつものように」「私は誰か一人を、一人だけを、探している」という二人のモノローグの重なりは、既存の新海誠作品を想起させるに相応しい場面の一つであるだろう。

 

1−2: 断絶

そんな既存作との連続性に対する予感を裏打ちするように、彼女たち二人をつなぐ携帯電話というガジェットは、いつもの通り不通である。相互通話は不可能で、互いの携帯に入れたアプリ(オンラインストレージ上)にメモを保存しておくことができるだけだ。この、2つの一方通行のコミュニケーションもまた、新海誠的であるとされやすいかもしれない。
・・・
しかし、ここで既存作との一つの断絶が走る。というのも、この不通はいつもどおりの設定考証にとどまるものではないためだ。
本作においては、携帯電話は最初から一度たりとも通じたことがない。そのため、彼女たちは、かつて通じ合った(と相互に信じた)関係の不在に縛られているわけではない。つまり、携帯電話の不通は、(不通の)ガジェットが表していた過去を表す物ではない。この点で、過去の呪縛に焦点が当てられていた既存作とは一線を画する。
本作で彼女たちは別の仕方で繋がっている。例えば、糸守町の風景画によって、油性ペンで引かれた名の痕跡によって、名でさえない衝動を伝えるだけの「好きだ」の文字によって、そして何より形に刻まれた意味や歴史を失ってしまった遺物たる組紐によって。
もちろん、名前ももたないただの線の痕跡など、結びつけられるべき場所を持たず、容易く失われてしまう。脳状態に書き込まれなかった記憶が保持しえないように、あるいは現実との整合を持たない夢は、夜を明かせば早晩(いつか)消えてしまうように。それでも彼女たちは、決して現実にはありえなかったはずの記憶の場所を手繰りよせようともがき続ける。満員電車から身体を押し出す際の自動ドアもまたある意味でそうであるように、引き戸を(手前側ではなく)奥側に開け放つ時、彼女たちは自らを焦燥とともに世界に押し出している。

 

1−3: 喪失の記憶、喪失されつつある記憶

このようにして考えていくと、時間的遅延・空間的距離という常套的なモチーフとは異なり、本作にはもう一つ、新たなモチーフが読み取りうるかもしれない。そのモチーフとは、「喪失の記憶」というモチーフである。それは、何かを失ったという喪失の記憶であるとともに喪失されていく記憶であり、失ったものが何なのかさえ忘れてしまう喪失の記憶である。「忘れちゃだめな人」を忘れてしまう喪失であり、記憶が絶えず薄らいで、幸福な時間が絶えず失われてしまう世界を忘れてしまう喪失である。
・・・
作中に「今はない景色」という言葉がある。それは、よく描けているかつて在りし牧歌的な糸守の景色であるとともに、「東京だっていつ消えてしまうかわからない」カタストロフの悲劇の風景でもある。これらの景色は、しかし実は常に一つである。美しい景色は次の瞬間、突如として悲劇の中に落ちて消えてしまうかもしれない。むしろ、悲劇が悲劇として理解されるからこそ、記憶は容易く埋没し、風化してしまうのかもしれない。例えば図書館に山と連なる本の中に埋もれてしまうように。
喪失の記憶を強調する本作は、確かに糸守の悲劇を「夢のように美しく」に描いている。しかし、その美しさに魅了されるだけで背景世界にアクセスせず、過去の記憶を反復することに拘泥していたならば、既存作品における背景美と変わるところはなかっただろう。本作では、彼女たちは背景に介入する。幻想的な美しさの中にあった残酷さに対して抗うことにこそ、彼女たちは衝動を持つに至る。
美しいのは、背景の美しさに抗い、美しさの中にある(妄想にすぎないかもしれない)歪さへの衝動を持つ彼らである。(その点では必死な滝について放っておけないという奥寺先輩のセリフは、我々視聴者の視線を先取りしているのかもしれない)。
・・・
もちろん、その衝動さえも、大人になってしまえば容易く失われてしまう。彼らはもはや2013年の出来事の当事者ではないし、ほとんどすべてのエピソードを忘れている。そうして忘れ去って誰しも大人になり、衝動を失った今(作中の2021年)になってみれば、奥寺先輩の言うように「君も幸せになりなよ」と言葉を投げかけることは容易にできる。できる、のだろうけれど、それでも幸せが何かを知るには誰もが多くを忘れすぎているのではないかという思いに、彼女たちはとらわれざるをえない。

私の片割れを、たそがれにおいて、それと意識することなく、「いつ失われるかもしれない」都市で探さざるをえない。これは呪いだろうか?祝福だろうか?

 

(2) フィクションを通過するという「ヒジョウな幸運」?

 

さて、以上のような長々しい本作のパラフレーズは、オタク的な妄想だろうか? あるいは新海誠による呪いのようなものだろうか?
そうではない、と筆者は感じる。これは非常な幸運なのだと筆者は信じる。

流れ、つまり「ムスビ」を保持することは苦しい。知っているはずの通学路を知らないかのように振る舞うこと、知っている人を知らないかのように取り扱うこと、忘れちゃいけない人に忘れたかのように出会うこと、自分の名前を知らないかのように返事をすること、そして「まだ知り合ってないのに(名を呼んで)会いに来る」こと。これらはどれも不合理で、現実にそぐわない振る舞いで、フィクションでしかありえない。有り体に言えばそのフィクションは(勅使河原のいうmulti-verse並みの)オカルト的妄想にすぎない。

それでもこんな妄想は、現実でしかない他者との間では辛く、まだ見ぬ(虚構の)他者との間では「大変な幸運」なのだ、と言うのが、本作から読み取りうる寓意であると筆者は信じる。
・・・
たとえその妄想が非情なカタストロフの希求であったとしても、その世界が美しいと思えるのは、絶えず失われつつある何かへの衝動を呼び起こさせるからだ。そして、何かに取り憑かれたかのように、既知の事実を掘り起こすのは、そこに「今はない景色」、つまりかつてあったかもしれない景色や未だあったことのない、尋常ならざる景色を重ね合わせてみることができるからだ。
こうして黄昏の妄想は終わりに抵抗する。終わりが始まることにも、終わりが終わることへも抵抗する。名を呼ぶことで既知になる何かに抵抗している。
・・・
君の名は。」の句点もまた、「君の名は(宮水三葉)」と呼ばれてしまうことへと抵抗している。命名儀式に対して抵抗している。すでに知り合った既知の人を、名前なしに呼ぼうとする衝動だけが、その言葉にまだ滞留している。
映像そのものは「君の名は。」に始まり、「君の名は。」で終わる。そのラストが、その句点の手前に留まったことは必然である。
・・・
筆者はここにフィクションのキャラクターの救いを見る。彼女たちは自らの片割れの名を知らず、現実の我々以上に片割れに出逢い損ねている。私たちがフィクションを既知のものとするより先に、彼らはフィクションの側に進んでしまう。
それでも彼女らが幸運なのは、その名指しえないフィクションを真に受けることができるからだ。その不合理な衝動こそが、現実に生きる私たちにとっては「今はない景色」である。
だから我々視聴者もまた、フィクションを現実的な形で思い起こさねばならない。フィクションの中に閉じこもるのではなく、より多くのフィクションに身をさらさなければならない。そしてより多くのフィクションを通過して、より多くの景色を眼差さなければならない。

そう信じつつ、以上を刊行趣旨としたい。

 

(3) 寄稿募集

そんな救済をめぐる物語として、私は『君の名は。』を観た。そこに既存の新海誠作品との断絶をも見た。しかし、この見方については異論も予想される。例えば次のようなものが一案としては考えられよう。
・そもそも新海誠を論じるにあたっては、映像をこそ(あるいは『ほしのこえ』以降からほぼ全作にわたって続く映像の作り方の変化をこそ)論じなければならないのではないか?
・本稿冒頭にある疾走にしたって、運動表象として論じなければ手落ちなのではないか?
・あるいは、主観ショットが三人称のショットに移り変わる定位置回転の構図こそが、彼女たち二人のストーリーラインと画面との照応関係に立っているのではないか?
・既存の新海誠作品との連続性をむしろ強調すべきではないか?「失われつつある記憶」のモチーフは、『秒速』以来の十八番ではないか?
・あるいは、もはやMVを思わせる挑戦的な音楽の導入については触れなくてよいのか?
などなど、ざっと思いつく異論反論はこのようなものが挙げられるだろう。
・・・
編集側としてはいずれも尤もだと考える。それとともに、問題だと感じるのは、これらの問いを整合的に掛け合わせ、蓄積する場所が(少なくともWeb上では)僅少なことにある。そもそも統合思考に乏しいツイッターは時とともに流れさってしまいがちだし、思い出して見返そうとした時の一望性にかけるきらいもある。何より、著者たち相互の間で意見をぶつけ合う場の設定が、なかなか困難になりがちな点も指摘できるかもしれない。
可能ならば、弊アニメクリティーク誌が(実際既刊の編集過程で意見照応をさせ、可能ならば本誌に反映させてきたように)意見を闘わせる場所になれれば、と考えている。アニメクリティーク誌は、次号『アニクリvol.5.5_β 新海誠君の名は。』特集を文フリで無事出すことができれば、丁度3年目を迎えるとともに、計9冊目の刊行となる。長い間弊誌を支えてくださった寄稿者諸氏・読者諸氏に改めて御礼申し上げるとともに、広くご協力を仰ぎたい所存である。

以上を踏まえ、各人それぞれの観点を伴った論争的な寄稿文を、以下の要領に従い募集したい。

 

 

2、寄稿要領

 

(1)発刊趣旨

 以上の通り。

(2)装丁・発刊時期:

 オフセット印刷、A5、60頁程度で企画しています。
 発刊時期は、2016年秋の文フリ(11月)を想定しています。
 

(3)募集原稿様式

a. 文字数:
 ①論評・批評 : 3000字程度から15000字程度まで。
 ②作品紹介・コラム:500字程度から2000字程度まで。

b. 形式
 .txt または .doc

c. 締め切り
 第一稿:10/1
 (※ 早めが嬉しいです。ただ個別に連絡いただけましたら延長することは可能です)
 (※ その後、何度か原稿の校正上のやり取りをさせていただけましたら幸いです。)
 最終稿:11月上旬

d. 送り先
 anime_critique@yahoo.co.jp
 ※ 参加可能性がありましたら、あらかじめご連絡いただけましたら幸いです。その際、書きたい作品、テーマ、内容についてお知らせくださると、なお助かります。
 ※ 原稿内容について、編集とのやりとりが発生することにつき、ご了承ください。


(4)進呈

寄稿いただいた方には、新刊本誌を進呈(※ 進呈冊数は2を予定)させていただきます。

 

以上 

 

すぱんくtheはにーさんの評論冒頭

さて、コミケ期間限定で、すぱんくtheはにーさんの評論冒頭1節+αを紹介します。

ガルパンがないぞ」という話は無しで。第2節でちゃんと出てきます。あと3節はカオスですが、読ませるものになっています。話としては『アニクリvol.4.0』のすぱんくさんの論に続くもので、そちらをお読みくださると理解が進むものと思われます。(例によって簡潔な紹介で申しわけありません)

本誌においては、本論考に続いて、@tackerx さんと、@totinohana さんからのレビュー、そして 、@SpANK888 さん自身によるリプライが掲載される形となります。

 

以下、抜粋となりますので、どうぞよろしくお願いいたします。

 

-------------

 

1 Kickstart My Life

(1)Kickstart the life, but whose?

『ばくおん!』最終話において、主人公・佐倉羽音は「バイクでいままで一度もコケたことがない」と述べた。それに対し、バイクに乗ることを勧めた天野恩紗は羽音へ向けてこう告げる。
バイク乗りってのはコケて初めて一人前になる生き物なんだからな」

この一言は事もなげに投げかけられるが、一見すると逆説的だ。
なぜなら、想定している/されているライディングを行う限りバイクはコケないためだ。決められた挙動の中では、バイクはコケることはない。ならば、普通に考えれば、「コケない」ことが一人前の証明なのではないだろうか?バイクを上手くコントロールすることで「コケない」ことが一人前の証になるのではないのだろうか?

しかしそうではない。
ここには、虚構のキャラクターが「決められた運動」から逃れ、予想を逃れるという意味において初めて実在する「生き物になる」過程が、如実に示されているためである。

 

(2)Kickstart “My” Life

バイクをコントロールする機構は両手と両足にしかない。しかし、その四ヶ所だけで「バイクに乗る」ことは
できない。自立できない乗り物であるバイクはライダーの支えなしでは真っ直ぐに走ることすらかなわなず、曲がり角では操作機構には存在しない、車体ごとライダー自身の体を傾けるという挙動によって初めて曲がることが可能となる。
全身をフルに使いながら「想い通りのライン」を走っていく快感はバイクの大きな魅力の一つだ。

そしてその快感は「ダンス」に似ている。
手足の挙動を越え、ステップし、全身を動かすことで「想い通りの振り付け」を描く。全身で「イメージする身体」を表出させる快感は、バイクとダンスに共通する”喜び”である。

しかし同時に「想い通りのライン」「想い通りの振り付け」は、「決められた動作」をライダーに強要していく。そういった「決められた動作」として印象的なものに、アニメにおける「バンク」システムがある。変身や合体、あるいは必殺技といった「重要でありながら決まった動作を行う」シーンを、銀行(バンクbank)に預けるように保管し再利用するために引き出すシステムである。
それは「バンク」シーンの度に、同じ映像を画面に描く。それは正に「思い通り」の動作を常に、完璧に描くことができるシステムであり、ある種「思い通りのライン」「思い通りの振り付け」の完成形であると言える。
それは何度でも何度でも、同じ動作を「再現」することができる。しかしそれは先に述べたように、決められた運動から逃れられない「虚構」であることを強く要請するものでもある。
一方でバイクも「バンク」を行う。バイクはカーブを曲がるときその車体をライダーごと斜めに傾むける(バンクbank)することで旋回性能を得る。その瞬間に「思い通りのライン」が要求するバンクの角度は一つしか無いのかもしれない。だが路面の状況や、道路の混雑状況、マシンのコンディション、あるいはライダーの精神状態によって「思い通りのライン」は変化し、同時に「バンク」の角度も変化していく。
同じバンク(bank)という言葉を持ちながら、アニメにおけるそれは「決められた動作」を繰り返すものであり、バイクにおいては「一度しか現れない」ものだ。
その一回性によって変化する「バンク」は常に異なった結果をもたらし、それは時としてバイクがコケる可能性を開いてしまう。そしてコケるがゆえに、その挙動は「決められた動作」から逃れることを可能とするのである。
つまりコケることができないバイク乗りの姿は可変する「バンク」ではなく、不変の「バンク」によって「決められた動作しかできない」虚構的存在となってしまう。
……つまり恩紗のセリフはこう言い換えられる。
バイク乗りってのはコケて初めて生き物になる(傍点:生き物になる)んだからな」

 


(3)Kickstart their life

過去、『アニメクリティークVol.4』の拙論では、アニメにおけるアイドルのダンスを例に、次のように述べていた。『アイカツ!』における大空あかりの「ダンスの失敗」は、ダンスが持つ規定された動きから外れるものである。それゆえにキャラクターを「決められた動作しかできない虚構的存在」から「予想外の動きをする実在的存在」へ変化できる一つの回路として働くものだ、と。
この理路は、一見すると捻り過ぎで蛇行しているように見えるかもしれない。拙論以降のアニメ表現としても、例えば『プリパラ!』では、ガァルルというダンスの習得をはじめたばかりのキャラクターがライブを行い、そのステージ上でアイドルとしては未熟なガァルルは「転倒」する。つまり、大空あかりもガァルルもアイドルとして未熟である表現として「ステージ上での転倒」が描かれ、コケることが一人前ではないことの表現となっているためである。
しかし、ここでは実は、コケるのはアイドルとして未熟だからだ、という意味自体が「転倒」しているのだ。

(引用はじめ)
「死なない身体」を持つアイドルから、「殺せる身体」を持つアイドルへ。もはや決して取り戻せないもの(典型的には死の可能性)を与えることによって、もともと死んでいたはずのキャラクターは、はじめて生を得ることができる。(『アニメクリティークVol.4 Dance of the Dead——自然主義的フィクショナリズムと、殺せる身体の行方』より)
(引用終わり)

バイクはコケて傷つくことによって、取り戻せない欠損を得る。ダンス中にコケることによって、取り戻せないステージの失敗を得る。それは「死なない身体」から「殺せる身体」への移行である。絶対に傷つかないバイクから傷つくバイクへ、虚構的存在から実在的存在への変化がここでは起きているのである。彼らはここで彼らにとっての「私の生」を駆動させている。

それは私たち現実の身体と、キャラクターたち虚構の身体の境界がまるで取り払われたかのような錯覚を覚えさせる。そしてその瞬間、私たちの現実は虚構によって上書きできる可能性が開かれるのだ。
虚構がフィクションが、現実に生きなければならない私たちの世界を豊かにするためには、この境界の「混乱」によって現実と虚構を等価に繋ぎ止めなければならない。
この虚構的存在から実在的存在への変化だけが、それを可能にするのである。

2 その鼓動さえも暖かい

(1)突発的な写実--『ばくおん!』

バイクがコケることが、なぜバイク乗りを「生き物」にするのか。ここで、虚構の存在が実在の傷を負う可能性を先鋭化した作品として、もう一つ『ガールズ&パンツァー』を上げることができる。

『ばくおん!』最終話では、上記の会話のあと羽音がバイクを初めてコケさせてしまうシーンが描かれる。駐車状態からバイクを倒して傷をつけてしまうのだが、このとき羽音の顔には特徴的な「歯」が描かれている。
『ばくおん!』全話を通してこの歯の描かれ方がされるのは、この1シーンのみだ。さらに、通常描かれる歯の表現よりも写実性を持った描かれ方がなされている。
アニメの中のバイクが傷つき、実在的存在になろうとするその瞬間に、羽音の口にも写実的な歯が出現する。この含意は何か?

そもそも鉄の馬とも形容されるバイクは、人馬一体としてライダーとの身体的結びつきを強く要請する乗り物だ。二輪車の教習ではこのように言われる。「バイクは見ている方向へ曲がっていく」と。バイクに跨った状態での視線の方向は、自然と体に傾きを与え、その傾きによってバイクは自然に視線の方へ曲がる。
この意志と動作と挙動の一致は、ライダーとバイク本体との境目を曖昧にしていく。まるで自分とバイクはこの跨った状態が本来あるべき「私という生き物」の姿であるかのように強く錯覚させられていく。キックスターターを蹴ることによって、「私」は初めて自分の輪郭を拡張し、生(My Life)の実感を得る。
ここから、バイクの傷とは、ライダーにとって延長された自分の身体に与えられた傷となる。だからこそ、バイクが傷つく=実在的存在になるとき、ライダーの身体には写実的な歯が現れ、バイクと同時に虚構的存在から実在的存在への移行が起きるのである。

(2)必随する傷--劇場版『ガールズ&パンツァー

 

 

-------------

 

 

 

(以下略)

 

以後、2(2)が続いたのち、

 

3 伝えるべきもの

(1)身体の消失点の〈彼方〉
(2)死ぬことのない死体を見るのか?生くることなき生を見るのか?
(3)乗りと勢いの国は此処に

と、バイク乗りならではの叙情的な一節で文章はしめられます。

  

なお、橡の花さんとtacker10さんからのコメント(とリプライ)については、すぱんくさんに関する様々なネタバレを含むのでこちらでは省略ということで。

 

以上