書肆短評

本と映像の短評・思考素材置き場

【期間限定公開5】 アニクリ vol.7.0_5『機動戦士ガンダムサンダーボルト』論 コード・シンボル tacker10 #bunfree

新刊より一部紹介します。

なお、新刊vol.7.0全体目次は下記

 ↓↓

nag-nay.hatenablog.com

 

 

 

 

コード・シンボル 『機動戦士ガンダムサンダーボルト』論
tacker10


Intro first-cut/first-contact

ファースト・カット、金属的な冷たさを感じさせる不穏なBGMが流れる中で、自動車や看板、街路樹など、かつて人が生活を営んでいたことを示す残骸の閉じ込められた奇妙な氷塊が映し出される。その氷塊をカメラが徐々に上へティルトして行くと、開けた視界の先、ズタズタに引き裂かれて廃墟と化したスペース・コロニー跡の光景が広がっている。その惨状を背景に挿入されるタイトル。
『MOBILE SUIT GUNDAM THUNDERBOLT DECEMBER SKY』。
一連の映像はかつてこの宙域で起きた激しい戦闘の傷跡を現在もまざまざと見せつけている。まるで、その瞬間に凍て付いてしまい、時間が止まったままであるかのように。
しかし、カットが変わると、生物の気配を感じさせない絶対零度の宙域でデブリの陰に身を潜めながら長距離狙撃ビーム砲ビッグガンの狙いを定めているザクⅡが映し出される。ザクⅡはを光らせ、口元から排気煙を噴出しながら、背部より伸びたサブ・アームで漂って来る邪魔な自動車の残骸を掴み取るとぞんざいに投げ捨てる。
このザクⅡのパイロットこそが、本稿にて扱う『機動戦士ガンダム サンダーボルト』で主人公の一人に数えられる人物、ダリル・ローレンツだ。ダリルは、大部分が傷痍軍人で構成されたリビング・デッド師団に所属しており、彼自身も失った両足に義足を装着している。
但し、ダリルは標準を奪われただけの存在ではない。彼は失った運動性を眼に変える。仲間内から「千里眼」とも呼ばれるその眼は、失われた理想的運動の代補であり、肉眼のままでは捉えられないはずの超遠距離の相手を眼差し、その物理的位置を執拗に割り出すためにある公国の器官なのだ。
そんなザクⅡの視線の先へとカメラが進むと、そこには無数に漂うデブリがまるで雷のような放電現象を放ち続けるサンダーボルト宙域を挟んで対峙中の地球連邦軍所属ムーア同胞団の艦隊が浮かんでおり、先程とは一転したジャズをBGMに、先述の動きにも増して自在に忙しなく動き回って行く人々の姿が描かれる。彼ら一人一人の動きやカットの切り替わりは、さながら音の粒とシンクロしたダンスのようだ。
その最たる例が、同作でもう一人の主人公とされる、イオ・フレミングの描写だろう。イオはコクピットにテープで張り付けたラジオから流れる海賊放送の録音を聴きながら、ドラム・スティックを奔放に叩き、更には両手両足を使って複雑にジムの各パーツを操縦してみせる。


第一部 「かな/真名」論の応用と展開 象徴の構築----

1.「性(セックス)と暴力そのものよ、愛なんか後から付いてくる」
(1)運動のシンボル/視聴におけるシンボル
開始からまだ三分弱、既に見事な障害者と健常者の対比描写だが、その上で重要なのは、これが鑑賞者と「アニメ」との関係そのものでもあり、そして実は対立していないという点だ。
そもそも、ダリルと同じく、鑑賞者もまた座席に付き、照準を合わせるかの如く視線を画面に注ぐ際、それは自分の眼ではなく、単眼カメラを通じて映像を観ている。鑑賞者がもしも自分の眼で画面を現実的に観ているならば、本来なら肉眼で捉えることの出来ない敵機体は、カメラで辛うじてスクリーンへ引き延ばしていたとしても、実際の大きさより遥かに小さいプラモデルのようなスケールで認識せざるを得ないはずだ。だが、鑑賞者はダリルと同様、それが巨大なモビルスーツであると感じられる。鑑賞者は自身の身体だけではなく、カメラであるかのように他人へ憑依する形でも対象を観ているのだ。翻って、一見すると動いていないかのように見える鑑賞者も、実際はカメラが動くと共に(ズレを孕みながらも)まるで幽霊の如く空間を飛び回っているのだとも言えよう。
すると、その時に、鑑賞者は鑑賞に必要な部分だけの身体、まさしく手足を失った傷痍軍人のような状態を暗に理想としてしまうことには注意が必要である。我々の内にはそうして身体を捨てた純粋な状態で普段は観ることの出来ない光景、自分に不可能と思われる華麗なアクションなどに同化する欲望が存在している。鑑賞者は決してずっと座席に縛り付けられることではなく、(カメラを通じてでも)動き回ることこそを望んでいるのだから。
「スナイパーには機動力は必要ない」
口ではそう言いつつも、後々にダリルが己の四肢を切り落としてリユース・P・デバイス装備高機動型ザクⅡに乗ることは、この事実を端的に思い出させてくれる。
その上で、ダリルが自身の身体を満足に動かせず、彼が義肢の先に夢見ている理想的な運動性(先述のリユース・P・デバイス実験中にダリルが涙する、浜辺を駆け回った過去の光景)を取り戻すことは既に叶わないことを踏まえるなら、冒頭に描写したサブ・アームなどの動きがまるで人間であるかのように極めて生々しく手描きでアニメーションされている(にもかかわらず、それは通常の身体ならば存在しない義肢である)のは、実に適切であると同時に、何とも皮肉に感じる。

(2)フレーム・レート選択とシンボルの進化(8fps/12fps/24fps/60fps)
だが、もう一方で強調しておかなければならないのが、ここで観られている側の映像、健常者もまた(特に「アニメ」においては)、よく動いているかのように見えても、例えばダリルが欲するような理想通りに思うまま動く身体ではない、ということだ。
所謂「アニメ」は、ユナイテッド・プロダクションズ・オブ・アメリカの「リミテッド・アニメーション」を一つの参照項として、一秒間八枚の「三コマ打ち」を基本に作られた。その描き方は、秒間六十フレームほどで認識している人間の眼にとっては本来の現実的な動きの感覚には程遠いものだ。勿論、一般的な実写映画でも通常は敢えて二十四フレーム(×2)を選択していた通り、ここでの現実的な動きの感覚にヒエラルキーはなく(毎秒六十フレームが理想なのではなく)、種々の理想を構築することに向けられた技法の歴史がある。その中で動きというもののより理想の感覚へと近付くことを目指し、時には枚数を増やしながら、「アニメ」はようやくいまの洗練された形へ辿り着いている。
その過程で行われて来たのは、例えば歩くという行為の本質が何処にあるのかを分析し、歩いているように見える基本的(そこからアレンジ可能な)パターンとして抽出しながら、それを様々に展開する行為だったと言えよう。
そのようなアニメの営みは、『機動戦士ガンダム サンダーボルト』という作品において軸の一つとなるジャズで言えば「コード・シンボル」に例えられるかもしれない。そこで参照したいのが、『機動戦士ガンダム サンダーボルト』にて劇伴を担当した菊地成孔と、大谷能生の著作『東京大学アルバート・アイラー 東大ジャズ講義録・歴史編』における以下の記述である。

 バークリーにおいては、コードっていうものは基本的には四声、四つの音で構成されています。これはオクターヴの中でコードのキャラを成立させるためには四つ音を指定すれば充分だ、ということなんですが、もっと遡って考えてみると、西欧音楽における伝統的な作曲法の基本としての「対位法」。特に四声の対位法から導き出されたものだと考えられると思います。四つの音に関係性を持たせながら、それぞれを横に動かしていって旋律を作る。そういった作業を対位法では行うわけですが、そうした作曲中に頻繁に現れる定型的な音の動き、曲を構成する際に効果的な音の動きっていうものをタテ割りに切り取って、で、汎用性のあるような形にまとめていく。そういう作業からコードっていうものが生まれてきて、で、コード・シンボルっていうのは正にこのコードを「シンボル化」してしましたものなんですね。

菊地曰く、この「コード・シンボル」は象徴であるが故に、ある程度の柔軟性があり、例えば「その記号に指示されている和声の機能さえ守っていれば、どの音を下にしてどの音を上に持ってくるか、などは演奏者が自由に選択できる」解釈の幅を持つジャズの即興演奏を可能にしたと述べる。これをアニメに転用すると、例えば走る動作が描かれている場合に、コマ毎の画は、走っているように見える機能さえ守っていれば、宮崎駿が著作の中で述べている通り、最も無難だと云う一歩を六コマで走る以外でも、適宜の目的に沿う形で「一歩五コマ、一歩七コマの走りがあってもいいはずだ」(『出発点』)、ということになるだろう。そのようにして象徴的に描かれるのが、アニメにおける様々な行為なのだ。
また、『アニメクリティークvol.5.0』所収『「撮られるべきもの」についてのノート』の、橡の花による以下のような記述も参考になる。

或る時間軸(8枚/秒のワンショット)上で分割された“「行為」の「形態」”。運動を「象徴」する8枚のポーズ(モーメント)。
逆説的には「見慣れた動き」に認知機能的に隠されてしまった幾つもの姿勢を暴いた静止画装置「マイブリッジの連続写真」(1878)の正統。

エドワード・マイブリッジによって撮影されたギャロップの連続写真を通じた分析は、連続する画から動的錯覚が得られることを示すと共に、それまで信じられて来た走行する馬の脚運びという観念を一変させた。常に脚の前後どちらかを地面に付ける形ではなく、四本脚が全て地面から離れる瞬間もあると明らかにされたことで、まさにジャズにおける「コード・シンボル」が様々な即興の指針となるように、これ以降、馬の描き方は大きく変わることになった。人は馬の走りに対する「コード・シンボル」を新たに得たのである。
本稿では、これらの系譜の先に上記の「アニメ」が行為を観念的に抽出して来た営為も重ねていくべきだと考える。日本の「アニメ」は、十全に動き続けるかのようにも見える「フル・アニメーション」の更に先へと夢見られる運動感覚に接近する術を、表現をより抽象化する中で、「行為」を観念的な「象徴(シンボル)」として描き出す方向に求めたのだ、と。
その結果として、画の一枚ずつは歩くなどの様々な行為の「象徴」となって、そこから多くのレトリック、即ち演出を生み出した。ダリルと同様に、先に挙げたイオの描写も、その延長線上に存在しているのである。
それは、例えばイオが、正当な起源という(土地の、身体の、アニメという媒体の!)重みを抱えつつ、自由への跳躍を果たそうとする姿に現れる。
「同胞、ね。まったく、生まれた土地はいつまでも俺を縛りがやる」
出撃前に艦長代理であるクローディアからの檄を聴きながら苦々しく呟き、その果てに、自身が望む十全な運動性という自由への活路を、戦争という狂気の中でしか生きられない(抽象化された)男として、まさしく一年戦争の「象徴」たるガンダム、その中でもフルアーマーガンダムの力へ彼が仮託したことに、文字通り「象徴」されているのだ。
ダリルとイオ、両者はかけ離れているようでいて、例えばイオの夢には亡き父親が好きだった単調で平和なポップスが取り憑き、逆にダリルの夢には(解体と構築を繰り返す)フリー・ジャズ的な運動性への嫉視が現れているように、実際にはどちらも標準から遠く突き放されながらも、同じように理想的な運動を夢見ている存在である。それは、現実のポップスとジャズもまた、切っても切れない緊張関係にあったかの如く。
そして更に、規律違反を犯してでも画面に音を取り込もうとする彼らの欲望は、各々の足場から互いの理想を新たに洗練させようとする「アニメ」という歴史の複数の糸を反復している。そのような(悪)夢同士の緊張関係こそが、閃光の如き崇高さを放ちつつも、しかしどちらか一方のものにならないまま共有されて行く奇妙で正体不明の事後的に立ち上がる「アニメ」という媒体なのだ。

(3)猥雑であること
さて、以上が本稿における軸(ルビ:フレーム)であり、句(ルビ:フレーズ)である。その軸はまさしく画面の異物であるところの音声に関わっている。そして、こうした軸を用いながら『機動戦士ガンダム サンダーボルト』の分析、再構築をより具体的にして行く反復行為の中では一つの指針を貫くことが重要になって来るだろう。
それは本質的にシンボル操作であるアニメにおけるフレームと音の歴史を断片(それもまたシンボルである)へ解体し、再構築する中で上書きすることである。
そもそも大田垣康男によるマンガ『機動戦士ガンダム サンダーボルト』のアニメ化にて監督を務める松尾衡が特異なのは、一般的に「アフレコ」が主流とされて来ている日本の「アニメ」業界で、珍しく「プレスコ」での制作を選択して来た人物だという点である。
近年になって、ようやく他の「アニメ」でも「プレスコ」の作品が増えて来たが、未だ日本においては、その理論的な軸はただ音声と映像のシンクロ率を高め、現実性を強めるために「作家」が用いる特殊な手法という単純な枠内で収まっているように思われる。
だが、歴史的には「アニメ」に対する「アフレコ」手法の結び付きは必然的ではない。
更に、事後的に立ち上がる奇妙で正体不明な(筆者が寄稿した過去の文章に寄せるなら「無銘」の)主体が「アニメ」の表現に利して来た点も多々ある。
この遅れを「プレスコ」制作された作品を通じて取り戻すことこそ、松尾の特異さだけではなく、広く「アニメ」一般に残されている可能性を掘り出すことへも繋がるはずだと考える。
上記の「プレスコ」とは、アニメにおけるフレームと音という異物の重要性を示す一つの範型なのである。本稿はその範型を反復することで、以下の内容を目標とする。
第一に、日本の「アニメ」がこれまで長い年月を費やして「象徴」と呼べるまでに試行錯誤して来た表現の中でこれまで見落とされがちだった映像の視覚的修辞性、例えば演出などが対象に対する思考のフレームとして与える影響を梃子に、アニメが持つ複雑性を、公用語論などを参照しつつ再考すること。
第二に、そして、その抽象化された「象徴」的な映像に対して、視覚の修辞性と同様に、音声がフレームとなって与える影響を、認知心理学詩学などを参照しつつ再考すること。或いは、そのような映像と音声の交わり方が、これまで正統的だと考えられて来た身体の動かし方とは異なった方法論の模索であったということを、演劇や映画などを参照しつつ再考すること。
最後に、上記のフレーズを即興で繰り返しつつ引き伸ばし変形すること、この点で本稿自体がジャズ的であることも目指す。時に「作家」という主体の意図から積極的に外れることすら厭わず、複数人による猥雑な会話(セッション)の中に、読者を引き入れたい。
上記の可能性を評価する以上、本稿もまた、単一の明確な「作家」という主体の意図が隅々まで行き渡った輪郭を持つ文章ではなく、始まりも終わりも不明瞭で、時に作品から遠く離れた話題も交えつつ複数人で交わす雑多な会話のように努める必要がある。それは、例えればシュルレアリスムにおける「自動筆記」やジャズにおける「即興」などのように。
前衛的であることを評価するためには、そうした実践の徹底も要請される。それ故に、本稿は一般的に論文が期待されるような結論へ明確に辿り着くことをあらかじめ放棄していると言っても過言ではない。しかし、そのような文章も、同人誌だからこそ可能になる醍醐味の一つとして読者の方々にご了承頂ければ幸いである。

 

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以下章立て


第一部 「かな/真名」論の応用と展開 象徴の構築
2.「アニメ」の系譜的不純性
(1)「東映系/虫プロ系」区分の解体
(2)アニメの系譜的「かな/真名」性
(3)「かな/真名」混交事例①
3.アニメの視覚的修辞性
(1)「作画/演出」区分の解体
(2)変化における「かな」/「真名」性
(3)「かな/真名」混交事例②
4.視聴覚体験の複層性
(1)「映像/音」区分の解体
(2)画面と音における「かな/真名」性
(3)「かな/真名」混交事例③

Interlude 諸混淆事例と「サイレント映画」批判

第二部 アニメにおける「声」の問題 デペイズマンと事後的主体

5.二つ以上の声と画面
6.二つ以上の声と声主
7.二つ以上の声と肉体
8.二つ以上の声と政治

Solo Part 外部から呼び込まれる声と記憶

9.「無銘」のものたちと向き合うこと
10.線形的な時間から切り離されたもの


以上-------------------

 

 

新刊vol.7.0全体目次は下記

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【 期間限定公開3】アニクリ vol.7.0_3『メイドインアビス』論 上下・生死 反転・逆転する世界 あんすこむたん #bunfree

新刊より一部紹介します。

なお、新刊vol.7.0全体目次は下記

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上下・生死 反転・逆転する世界 『メイドインアビス』論
あんすこむたん


1、時間の反転


 第1話のラストシーンで示されるのが、「ここはどこか」という問いへの道半ばの答えといえようものだ。かつてそこへと姿を消した母のナレーションとともに、アビスと呼ばれる奈落が、どこまでも底なしに、下へ下へと続いている様子である。
 下に行けば行くほど、「遺物」と呼ばれるものの「貴重さ」(文明の発達度)が上がっていく。これは、我々が日常的に出会う地層とは逆の働きを持つ証拠だ。通常であれば、現在に近い浅い遺物こそが先進的であり、その下にはより原始的な歴史の産物が堆積し、層を成すはずだ。たとえ、失われた過去文明という言葉に甘美で深遠な響きがあるとしても、過去の遺物は地層を掘れば、知られるべくして姿を現す。もし失われた過去文明があるとしても、その下には過去文明のそのまた前の原-歴史があるはずだ、というわけだ。
 しかし、アビスにおいて事は別だ。アビスにおいては、掘れない地層の下にこそ、未知の空間と時間がある。それは死んで固定された積層でも遺物でもない。それは歴史の遺物ではなく、今なお生命活動を続ける、現在の我々には手がとどかない未来の片鱗なのだ。そちらは、我々の文明を超え、我々の言語や欲望や信念を超えている。「呪い」に現れているように、そこでは我々の姿形といった第一次性質さえ変容可能なものとなる。私は私の身体さえ超え出てしまうのだ。
 いわば本作でいう「遺物」とは、未来から浮き上がって来たあぶくのような存在だ。未来の彼方から、それは現在にやってくる。アビスの淵・オース周辺に属するそのあぶくたちは、現在にほど近いところにある。それが故に、なんとか到達可能な未来の予兆である。未来のその底に届かないのは我々の足が遅いからではなく、我々の力が足りないからである。そこは危険に満ち、日常ならざる稀な、危険な生物と遭遇する可能性が上がり、底は未だ掘り崩せない。現在においては掘り崩せないそのものこそが、未知の未来と呼ぶにふさわしいものだ。

2、上下の反転
 リコは、自分の母親であるライザが残したとされる封書を受け取る。リコはそこから「奈落の底で待つ」という言葉を、自分に充てられたメッセージとして受け取り、自分が発見した(あるいは発見された?)ロボットとしてのレグとともに、アビスの底への冒険へと出発する。
 アニメに限らず通常、「上」はプラスのイメージを、「下」はマイナスのイメージを強調する作用を持ってしまう。しかし本作では、設定においても画面においてもこのイメージが見事に反転することになる。一般にアニメにおいても、カメラワークによって「キャククターの心象を映像から分析できる」ものであるにもかかわらず、本作では構図が綺麗に反転していることは、本作を見る上で常に頭に入れておく必要がある。
 深遠の底は、オースの民にとっては恐れの対象でありながら、時にアビス信仰の名の通り崇敬の対象である。下を見る視線というのは、無気力さの表れではなく、未だ見えざる深遠を渇望する意欲の表れなのだ。さらに、リコにとっては、自分よりも先の時間を生きる母親を探す旅であり、自らの出生の地へ向かう旅でもある。リコの信念に従うならば、レグにとっても、アビスの底への沈滞は自分の記憶を探す旅であるのだ。下を見るというのはすなわち未来に向けられた活力に満ちた働きを指すのだ。
 EDアニメーションにおいても、アビスの底へと降りていく様子が明るい音楽とともに描かれているのは、一つの象徴である。
 この反対に、上に引き返すことは希望への飛翔ではなく、安全なオースへの帰還でありながら、「上昇負荷」「アビスの呪い」というペナルティを受けることを意味する。上への目線は不安の目線だ。リコから見れば、母親や自分の出生から逃げることをも意味してしまう。上を見るというのはすなわち現在のまま、現在の存在だけに安住したいという逃避の表れに他ならない。

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以下章立て

3、 屈折/不屈の反転
4、生/死の反転
5、希望/絶望の反転


以上--------------------------------

 

 

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【 期間限定公開1】アニクリ vol.7.0_1『この世界の片隅に』論 現在(いま)を紡ぐ、あちこちのあなたへ makito×Nag #bunfree

新刊より一部紹介します。

なお、新刊vol.7.0全体目次は下記

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現在(いま)を紡ぐ、あちこちのあなたへー『この世界の片隅に
makito×Nag


Intro

 映画『この世界の片隅に』の描写の多くは、戦時下に置かれた人々の「暮らし」に焦点が当てられる。もちろん、製作者による緻密な考証が、広島と呉の過去の風景を忠実に再生することを可能にした。それゆえに、「私の父がいる」とか「完全にかつて見た広島だ」といった鑑賞者の反応を惹起し、多くの人々が共有する過去の広島の「暮らし」を再現したものとして受け止められている。作品の数々の受賞歴に現れているように、1945年の戦争という「世界」の分岐点を嫌でも象徴してしまう「ヒロシマ」を、フィクションを通じて巧みに再現しえた傑作として、広く世界に知られることとなった。
 しかし、本作で強調されるのは、そのような再現が、すずという名の一人の少女から見られた、辺鄙でありつつ秘密に満ちた広島の「暮らし」に魂を吹き込んで(アニメートして)いる、という点である。本作は英訳で、極東という「隅」、かつ、すずが嫁いだ北條家の立地たる「隅」の意のほか、辺鄙・秘密・窮地の意も持つ「In this Corner」と訳された。まさに「世界」を緻密に描こうとすればするほど、その現実への肉薄が、同時に替えがたい、辺境に生き、秘密を抱えた描き手の存在を必要とする、という点がここに現れている。
 すなわち、本作で特に興味深いのは、すずという少女が、自身を絵に描きこむ(アニメートする)ことを通じて、自らの住む場所が一体どこなのか、自分が一体何を欲し、何であろうとしていたのかを確認してきた者だという点にある。この点は、ドキュメンタリーを徹底するためには、アニメーションという現実歪曲的で脆弱な、しかし替えがたい語り部の存在が必要になるという、『アニメクリティークvol.5.0』所収の「視線をはじくもの」)で展開した論点に重ねられる。
 そこで展開したように、人は現在目の前にあるものさえも、数々の物語なくしては見ることができない。記憶に従い自身を物語ることは、過去を取り戻す力であるとともに過去を歪曲する暴力でもある。しかし同時に、現在の自分の理解を確認することを可能とする最後の砦でもあった。
 「ぼーっとしとる」ために現在から常に遅れてしまうすずについても同様だ。外からやってきた、結婚や戦争という物語に従って自らを物語ることで、すずは、彼女の現在を歪曲する暴力に自らを晒してしまう。そこにおいて、絵に自らを書き込むという作業は、彼女の現在を守るための最後の砦であったと言えるだろう。つまり、自分から見た(ちょっと前の、つまり遅れがちなすずからすれば「現在」の)風景の中に自らの姿を書き込むことで、余りに早く過ぎ去り、かつ、遠くへと進み過ぎる現在の暴風から、彼女は自身の現在を守っているのだ。
 しかし現実は残酷であり、彼女は結婚とともに絵を描く習慣から離れがちになり、戦争とともにノートを奪われ、歪な形でしか希望の象徴たる鷺を描けず、終いには絵を描く腕さえ失うに至る。一連の外来の出来事に流されながら、彼女は自身を絵の中に書き込めなくなっていく。それでも現実を超えた何物かを物語ろうとする衝動は、時に自らの周囲を塗りつぶす悲劇にも通じ、反対に妹や夫や孤児を癒す祝福にも通じうる。このことを、すずの物語は教えてくれる。
 これら一連の事件は、ドキュメンタリーをアニメーションによって補完する、又はアニメーションをドキュメンタリーの介入に晒す、という『vol.5.0』の展望の前提である、描き手・語り部といった脆弱な存在をどのように保持するか、という問いに答える必要を示している。本稿が扱うのはこの問いである。

 

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以下章立て

第1章、世界の片隅=秘密をいかにして描くか?

(1)外来の物語という暴風
(2)現実を目の前にして描くこと
(3)描くことを拒む戦争の顔

第2章、右手の代わりに描き継ぐもの

(1)片隅において描かれ”え”た断片
(2)描き継ぐためには右手はいらない
(3)私が死んだのか?あなたが死んだのか?なぜどっちが死んだとわかるのか?

Outro.

 

以上------------------------------

 

新刊vol.7.0全体目次は下記

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nag-nay.hatenablog.com

 

 

 

 

 

[発刊告知]アニメクリティークvol.7.0「声と身体/ 松尾衡×機動戦士ガンダム サンダーボルト」寄稿募集 #C93

以下の通り、2017/12/31(日)、第93回コミックマーケット(C93)に参加します。

詳細は下記にて。 

 

表紙

 

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Contents

 

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目次と試し読み頁へのリンク(総合)

 

第1部 時間と身体

 0、巻頭言 Outline.『GTB』 『メイドインアビス』『宝石の国

  「生ける道具としての我々を解釈する」

 

第2部 語り部と身体

 1、makito × Nag 『この世界の片隅に』論

  「現在を紡ぐ、あちこちのあなたへ」

 2、wak(かつて敗れていったツンデレ系サブヒロイン)

  『メッセージ』『ブレードランナー2049』論

  「『ブレードランナー2049』の偽物の痛みと本物の救済」

 3、あんすこむたん『メイドインアビス』論

  「上下・生死 反転・逆転する世界

 

第3部 作り手と身体

 4、パーフェクト寄生髭『機動戦士ガンダムサンダーボルト』評+詩

  「分裂、投影

 5、tacker10  『機動戦士ガンダムサンダーボルト』論

  「コード・シンボル」付:橡の花レビュー & tacker10リプライ

 6、すぱんくtheハニー『ヘボット』『打ち上げ花火』論

  「消える花火を見えないまま繰り返して。——置き去りにされた現実の私、生き続ける虚構のあなた」付:橡の花レビュー & すぱんくtheハニーリプライ

 7、あんすこむたん『Re:CREATORS』論 

  「クリエイターとキャラクター」 付:tacker10コメント

 

 

 

特徴としては、読者とのコミュニケーションの便宜のためのレビュー/リプライ/コメント形式を復活させました。(参考画像ではtacker10さんの頁をご確認ください。)

デザイン的には、ノンブルを第一部、第二部、第三部、最終部とで別々にしたり、ロゴを自家作成するなど、既刊で取り入れてきた要素を盛り込んでいます。

挿絵も解釈可能なものとして配置に意味を持たせてあります。是非ご確認ください。

以下はサンプル画像。

 

 

0、冒頭頁、目次頁

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1、第一部より巻頭言・アウトライン

 (※ノンブル:レグとメイニャとタマちゃん)

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2、第二部より、

 『この世界の片隅に』論:makito氏×Nag、

 『ブレードランナー2049』×『メッセージ』論:wakさん、

 『メイドインアビス』論:あんすこむたん氏

(※ノンブル:リコとプルシュカ(カートリッジ)とリュウサザイ)

 

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3、第三部より、

 『機動戦士ガンダムサンダーボルト』論:パーフェクト寄生髭氏、tacker10氏、totinohana氏、

 『ヘボット!』『lain』『打ち上げ花火、下からみるか?横からみるか?』論:すぱんくtheはにー氏、totinohana氏

 『Re:CREATORS』論:あんすこむたん氏、tacker10氏

(※ノンブル:ナナチとミーティ)

 

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(レビュー/リプライ構成)

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奥付(※小ネタですが、ここのノンブルは奥付の一箇所しか使われていないため是非注目ください)

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 以上です。

当日もどうぞよろしくお願いします。

 

c.bunfree.net

 

 

------------------------------以下、過去の募集要項など。

 

1、検討・寄稿募集作品例:


(概ね2010年以降における)アニメにおけるキャラクターの身体、MSや拡張身体、アニメ視聴・VR視聴における(身体的)経験など、アニメと身体、アニメと声に関連した任意の作品

 

 


対象作品例


(1)身体

 

リトルウィッチアカデミア
宝石の国

メイドインアビス

山田孝之3D

18if

幼女戦記
けものフレンズ
ACCA(アッカ)13区監察課
傷物語Ⅲ -冷血篇-
劇場版 甲鉄城のカバネリ
虐殺器官
LUPIN THE ⅢRD
龍の歯医者
劇場版 ソードアート・オンライン-オーディナル・スケール-
夜は短し歩けよ乙女

夜明け告げるルーのうた
BLAME!
プリンセス・プリンシパル
ボールルームへようこそ
ID-0
正解するカド
Re:CREATORS
終末なにしてますか? 忙しいですか? 救ってもらっていいですか?
劇場版 魔法少女リリカルなのはReflection

打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?
プリズマ☆イリヤ
RWBY(VOLUME 4 含む)
劇場版 Fate/stay night -Heaven’s Feel-

 

(2016以前)
この世界の片隅に
君の名は。
劇場版 艦隊これくしょん -艦これ-
機動戦士ガンダム サンダーボルト
結城友奈は勇者である -鷲尾須美の章-
亜人
花とアリス 殺人事件
同級生
劇場版 selector destructed WIXOSS
バケモノの子
ハーモニー
紅殻のパンドラ

 

(付属冊子予定)

機動戦士ガンダム サンダーボルト BANDIT FLOWER
GODZILLA(ゴジラ) -怪獣惑星- (第一章)

 

 

(2)声

聲の形
昭和元禄落語心中
劇場版 蟲師 続章 -鈴の雫-
ガールズ&パンツァー(GIRLS und PANZER)
心が叫びたがってるんだ。
てさぐれ!部活もの
THE IDOLM@STER MOVIE 輝きの向こう側へ!
たまこラブストーリー
かぐや姫の物語

 

 

(3)松尾衡作品

 機動戦士ガンダム サンダーボルト(2017)
 orange(2016)
 コンクリート・レボルティオ〜超人幻想〜THE LAST SONG(2016)
 ノラガミ ARAGOTO(2015)
 機動戦士ガンダム サンダーボルト(2015)
 ガンダム Gのレコンギスタ(2014)
 月刊少女野崎くん(2014)
 ソウルイーターノット!(2014)
 革命機ヴァルヴレイヴ(2013)
 夏雪ランデブー(2012)
 坂道のアポロン(2012)
 ベルセルク 黄金時代篇I 覇王の卵(2012)
 模型戦士ガンプラビルダーズ ビギニングG(2010)
 紅OVA(2010)
 機動戦士ガンダム戦記 アバンタイトル(2009)
 紅(2008)
 夜桜四重奏 〜ヨザクラカルテット〜(2008)
 アイドルマスター XENOGLOSSIA(2007)
 sola(2007)
 デッドガールズ(2007)
 ローゼンメイデン オーベルテューレ(2006)
 RED GARDEN(2006)
 ローゼンメイデン トロイメント(2005)
 ローゼンメイデン(2004)
 TEXHNOLYZE(2003)


2、寄稿募集要項


(1)募集原稿:

 「アニメと身体」あるいは「アニメと声」に関連して論じられる原稿。両者を接続するものも推奨。
 

(2)装丁・発刊時期:

 オフセット印刷、A5、100頁程度で企画しています。
 発刊時期は、2017年秋の第25回東京文フリ(11月)を想定しています。
 

(3)募集原稿様式

a. 文字数:
 ①論評・批評 : 3000字程度から15000字程度まで。
 ②作品紹介・コラム:500字程度から2000字程度まで。

b. 形式
 .txt または .doc

c. 締め切り
 第一稿:2017/10/16(月)
 (※ 個別に連絡いただけましたら延長することは可能です)
 (※ その後、何度か校正上のやり取りをさせていただけましたら幸いです。)
 最終稿:2017/11/5(日)

d. 送り先
 anime_critique@yahoo.co.jp
 ※ 参加可能性がありましたら、あらかじめご連絡いただけましたら幸いです。その際、書きたい作品、テーマ、内容についてお知らせくださると、なお助かります。
 ※ 原稿内容について、編集とのやりとりが発生することにつき、ご了承ください。


(4)進呈

寄稿いただいた方には、新刊本誌を進呈(※ 進呈冊数は2を予定)させていただきます。

 


3、企画趣旨・発刊趣旨:


 画家[芸術家]は「その身体を携えている」とヴァレリーが言っている。実際のところ、〈精神〉が絵を描くなどということは考えてみようもないことだ。画家はその身体を世界に貸すことによって、世界を絵に変える。
 モーリス・メルロ=ポンティ『眼と精神』

 

(1)「道具としての我々」を解釈する

 機械は肉体を超えるのか? とだけ問われたならば、迷わずイエスと答える人が、今なら多いかもしれない。
 
 第三次AIブームも然ることながら、IoT、自動運転技術といった環境的知能の発達に加え、我々の肉体を走査・探索し、肉体に入り込むスキャン・BMI(Brain Machine Interface)技術、補綴・補填具の発展による肉体の(身体的・認知的・道徳的)エンハンスメントも、このイメージに貢献していることだろう。
 よりわかりやすいところで言えば、義足での陸上競技記録が健常者の記録を上回る「逆転」(と呼ぶべきか自体が争点であるだろう)が実現しつつあり、介護・医療用(そして勿論軍事用の)パワードスーツの導入が本格化しつつあることを思い起こせばよい。いまや「自分の手足以上の機能が欲しいから、手足を切って最先端の義肢装具をつけて欲しいという人が現れるのではないか」という懸念は、フィクション作品にではなくごく日常的なニュースに現れる問いとなっている。確かな根拠の有無に関わらず、法的な尊厳・プライバシー問題やコントロール不可能性への不安、社会学的な疎外や不平等の拡大といった(古き良きラッダイト的な)懸念が様々に提示されつつも、我々の生活には早晩それが自然であるように入り込むことになるだろう。

 しかし、勿論アニメの名をもつ本号の問いは、この現象自体や現象のイメージに対する善し悪しの判断にはないし(それは願望表出と現状認識との混同に陥りがちだろう)、そもそも「機械」と「肉体」という対立図式やその勝敗予想にもない。
 歴史的に見ても、我々は不断に機械を作り出し、機械とともにコミュニケーションの様式を変化させてきた。何を食べるか、どのように他者とコミュニケートするか、いかなる「主体」であるかについて、絶えず肉体を統治し、肉体に改造を施してきた。損傷した脳が自らを変容させ、欠損した機能を補完するのと同様に、我々は常に環境の中で、環境として、環境を変形させてきた。
 物としての我々/道具としての我々という描像は、貧しく、避けられるべき何物かとしてだけではなく、視聴者であれキャラクターであれ(それらを含む)製作者であれ、我々の在りように迫るための「フレーム」として現れる。

 ここから次の問い、すなわち、そうした技術を前にした我々は果たして何者であるのか、我々はどこにいるのか、我々はどこまでが我々なのかという問いこそが、問いかけられるべきであると考える。
 私は、という心身問題に足を取られそうな主語は、ここでは外しておこう。これらの問いは、決して表皮によって限界を画され、脳によって外界を処理するというイメージによって回答を与えられるものではない。この問いは、人類としての「我々」が現在の技術的環境下において可能なことの限界を絶えず探索しつつも、同時に共同体としての「我々」の内にどれだけの行為の諸可能性を保全できるかというリスク受容の試みであり、さらには共同体のうちに自己の生を意味あるものとしようとする自由を闘争させる場を形成する倫理的な企てでもあるからだ。
 本号の表紙のみならず内容の中心をなすだろう『機動戦士ガンダム サンダーボルト』はその一例である。

 (A.クラークもJ.ギブソンも持ち出すまでもなく)我々はこれまでも、そして恐らくはこれからも、機械によって肉体の足場を拡張しつつ、機械を用いるように駆り立てられつつあるサイボーグである。電線を走る信号(発火-稲妻!!)やインプラントの有無に関わらず、機械(装置)なしには我々はない。この意味で、環境へと拡張された心という仮説は、それ自体としては受け入れやすい描像だ。
 すなわち、生物とテクノロジーの連合こそが我々の自然である。それゆえ、機械(装置)への懸念群を枚挙することで事足れりとはならない。問いかけられるべきは、機械(装置)といかに共存するかという我々の在りように他ならない。
 だから、外なる影響から自由であるという強い独立性を我々の条件として課すことはそもそも(フィクションでさえ)できない。反対に、影響を全面的に受け入れることも、我々の行為者性を消し去ってしまう。技術に依拠してしか我々の選択が生じない以上、我々が自由の領域を暫定的に確保するために、自分を決定づけつつあるものへと関与する能力が「自己への配慮」として求められることになるのは、その我々の自然の現在における現れである。

 しかし、何よりこの描像は畢竟アニメ向きであるようにも思える。アニメにおいてフレーム外の音も述懐も画面の構成要素をなすとともに、それが(例えば声優が声を自然に当てることができる、あるいは、運動を運動として処理することが可能である形で)秒数的に制限されているというのは、興味深い現象である。
 当然のように思われるだろうが、我々は彼のガンダムの「目にも留まらぬ」運動については(メタファーとして以外では)光の軌跡としてしか追尾することはできない。あるいはより物語に即して言えば、当該世界の戦争に終わりがないように、勝つべき時に勝つことは決してできず、負けるべき時に負けることもできない(いわば勝負はあっても勝敗はない。ただし歯切れが悪いことをお詫びすれば、殲滅を除いては。)イオ/ダリルの姿は、自らを物に限りなく近付けた道具(としての我々)と重ねられる。
 
 かつてバロウズは「私たちはここを去るためにここにいる」と述べた。勿論そこでいう「ここ」とは地球のことであっただろう。本号の関心に従えば「ここ」とは私の身体であり、我々の身体である。しかし、繰り返すようにそれは現在において偶然「こう」である肉体とは独立である。どこまで行っても身体は(拡張されることはありこそすれ)除去することはできない。
 冒頭で引用したように、身体が世界を絵に変えるのであり、そのように世界を別のものに振り向けるものこそ、我々の実存に他ならない。contingere という語が触覚(contact)と偶発(contingency)の双方に派生し、一触即発であること、偶然であることをも含意することを思い起こせば、我々の身体を考察するということは、キャラクターとフレームを考察することに近似するように思われる。


(2)「声の在り処」を積み上げる--生身の声優ではなく、虚構のキャラクターでもなく


 以上の思弁は、キャラクターにおける声の考察、声優という存在の考察にも、一つの問いを投げかける。

 キャラクターの声は少なくとも、①素材としての(主には)声優の息、声帯振動、共鳴腔、舌・唇・口腔が複合した音声(=共振周波数)、②当該音声が対応するキャラクターの音声(発生源)、③表現された演技、④(世界描写的意味と)世界内の意味とによって構成される。素朴にキャラクターの声と言われる時に想定されているのは概ね④であり、キャラソン等で求められるのは概ね③であり、声質として求められるのは概ね①であるだろう。
 さらに、①の素材はどの作品で、どのようなキャラで、どのような演技をしたかという来歴を背負っている。声優自身のキャラクターという意味での受容も、現在では一般化しているようだ。そのため、声の受容にあたっては、①から④までを自然か不自然かという観点から「聞き流す」最も素朴な聴取体験から、①の来歴に遡って物語の読み(勿論いい意味で裏切られる可能性もある)に反映させる聴取体験まで、幅広く存在するだろう。
 
 しかし、他方では、このような複層的構造を持つ声の解釈が縮減されてしまう恐れも垣間見える。これは、声優の履歴が容易に辿れるようになった環境要因にも一端があるし、声優が顔をもつアイドル化したことにも一端があるかもしれない。さらには、声優には(声優自身の自己プロデュースなるものがあるとすればまだマシなのだが)物語を壊さない形での自己のプロデュースという高度な技も求められているようにも観察されることにも、一端があるかもしれない。
 疑いようもなく声優は類い稀なる声を持つ。(全く関係はないはずなのだが)それゆえに、その声に求められる重さが生身の身体に過重されているとすれば、それは(偶さかに声を職業へと変え得たものに対する)悲劇であるだろう。

 勿論これは声優に限らず、ウェブが可視化した声の取り扱い方に重ねられる。むしろ、近時のネットを思い起こすなら、被害者然とした被害者ではない者、障害者然とした障害者ではない者、市民然とした市民ではない者への発言に場所を割り当てることは、ますます難しくなりつつあるように見受けられる。今般、声の取り扱いは単なる憑依問題を超え、誰に誰の代理として喋らせるべきかの闘争として現れているようにも。もちろんそれは、当事者から声を剥奪する(当事者を、聴き手にとって良いように語らせる)作為と表裏一体である。
 一つの例を示すならば、当事者に決定を委ねるという更なる暴力のことをあげればよい。科学的には安全な放射性物質の海への放出について、誰に決定権をゆだねれば良いかという問題である。被災者に委ねる場合、「Yes」という決定は、(単なる決定の意思表示を超えて)責任の自己帰属の表明として受け取られるリスクを創出するだろう。翻って、「No」という決定は、(単なる決定の意思表示を超えて)「地元民による反対(を押し切っての放出)」という物語を作出することへの寄与となる。決定権を委ねること自体が、非争点的な内容を孕んでしまう以上は、この選択に晒すことそのものが、被災者に対する暴力であることは否定できない。もちろん、被災者に決定させることそのものの利点を措いてなお、この点は避けようもないジレンマとして現れる。

 このように誰かのために、誰かに変わって声を発するということは不可避的にジレンマを作り出す。表現にまつわる課題として(ヘイトスピーチにせよ、ポルノグラフィにせよ)、声の解放を謳う場合には、「解放的ではない」声を拡散することも、声で表現することの亜種として認めねばならない。個人の尊厳といえば聞こえはよい。しかし、互いに自尊心を持ち、平等に互いを見上げ合う高い地位の普遍化を標榜する重みに、個人が耐えることは難しい。リスク社会化、専門分化とともに社会的・経済的格差が表面化する現在において、この「高い身分」の普遍化を貫徹することは容易ではない。
 「我々」一人一人は、その重みに耐えられないかもしれない。それでもなお、普遍化された「高い身分」を再度、「我々」の中での選択の中に馴致することは可能であるかもしれない。権利の内なる制約として高い身分に伴う義務があるように、行為者たりうるための自己形成過程には環境関与的な「我々」を担う自己像の構築が模索されるべきであるだろう。
 例えば、被造物における声の取り扱いのことを思い返せば良い。出生より10年の時を経た初音ミクのことだ。

 手短に一例だけ記せば、最も端的にこのことを示すのは、初音ミクの「声音」情報を用いた展示、「Ghost in the Cell:細胞の中の幽霊」である。ここで展示されているのは、表向きは単なる肉塊である。その実は、集合的かつ人為的に作出された初音ミク-DNA情報と心臓細胞である。
 ここでは倫理が二重に絡まっている。現実の人間の遺伝子編集でない以上は、通常の倫理的問題は回避しつつも、現実の人間以上に人間的なコミュニケーションの渦中にある初音ミクの情報を用いた遺伝子編集には、果たしてどのような意味があるのだろうか。さらに初音ミクには、原基として藤田咲から借り受けた声がある。画像としての身体があり、キャラクター性も十二分に備わっている。もはや足りないのは「身体」だけであると考えるならば、その時の身体とはどのような位置を持つのだろうか。

 身体と声というテーマは、この緊張関係を分有している。身体と声とを同時に取り扱うことはこの意味で必然のように思われる。
 

(3)発刊趣旨

 以上、本号vol.7.0「声と身体/ 松尾衡×機動戦士ガンダム サンダーボルト」で取り扱うのも、vol.3.0の「音/人工物」論、vol.5.0の「技術」論に引き続き、技術(道具)と身体が絡み合う場と時間に関する問いである。
 そして、これは勿論、vol.2.0の「SF」、vol.4.0「身体」論、vol.6.0「物語」論に続く問いでもある。
 
 冒頭に記したようにある哲学者は、画家の精神が絵を描くのではなく、「画家[芸術家]はその身体を世界に貸すことによって、世界を絵に変える」と述べていた。声優がサンプリングされた声を貸し与えることによって、世界を歌に変えるように。
 しかし、もしこの言葉が画家やPという主体をイメージさせ、その主体に拘束されるなら、それは誤解であり杞憂であるだろう。既に20世紀半ば、写真技術は即物的に写実を為したのであり、そこでは目が手の代わりを果たした(これがベンヤミンのいう「芸術上の責務を課された手の消失」である)。だから、冒頭の哲学者の言は、身体を世界に貸し与える者は誰しも世界を絵に(歌に)変えうる、と解釈されるべきである。

 アニメに通じたこの文章の読者諸氏ならば多かれ少なかれ、自分が(あるいは別の視聴者が)原画の癖を見抜いたり、ミリ秒単位の作画を分析し、その巧拙を評価することもあるだろうし、そこから物語を読み取り、再解釈し、さらに整合的な形で付け加えることもあるだろう。あるいは、刹那の語り出しを聞いた瞬間に、声優の声とその主演記録を思い起こすかもしれない。そのどれもが、我々の身体を通して得られた、我々の世界の絵描きである。そうであるがゆえに、その絵を重ね合せる場所こそが、模索されるべきではないか。そう編者は考えている。
 

 

以上

 

 

 

4、今後に向けて

 

ガールズ&パンツァー 最終章

映画 中二病でも恋がしたい! -Take On Me-
蒼きウル
劇場版 響け!ユーフォニアム(みぞれと希美の物語)
劇場版 響け!ユーフォニアム(2年生になった久美子たち)
フリクリ2
フリクリ3
劇場版 魔法少女リリカルなのは Detonation
シン・エヴァンゲリオン劇場版:||
ヴァイオレット・エヴァーガーデン 

アニクリvol.6.1「夜は短し歩けよ乙女+四畳半神話大系特集(仮)」の発刊について:2017年文フリ #bunfree

1、検討・寄稿募集作品:

 

(1)夜は短し歩けよ乙女

(2)四畳半神話大系

 

2、寄稿募集要項

 

(1)募集原稿:上記2作にかかる評論、批評、二次創作等々

(2)装丁・発刊時期:

 モノクロ小冊子、A5、28頁程度で企画しています。
 発刊時期は、2017年春の第24回東京文フリ(5月)を想定しています。

(3)募集原稿様式

a. 文字数:
 ①論評・批評 : 3000字程度から15000字程度まで。
 ②作品紹介・コラム:500字程度から2000字程度まで。

b. 形式
 .txt または .doc

c. 締め切り
 第一稿:2017/5/1
 (※ 個別に連絡いただけましたら延長することは可能です)
 (※ その後、何度か原稿の校正上のやり取りをさせていただけましたら幸いです。)
 最終稿:2017/5/5 

d. 送り先
 anime_critique@yahoo.co.jp
 ※ 参加可能性がありましたら、あらかじめご連絡いただけましたら幸いです。その際、書きたい作品、テーマ、内容についてお知らせくださると、なお助かります。
 ※ 原稿内容について、編集とのやりとりが発生することにつき、ご了承ください。

(4)進呈

寄稿いただいた方には、新刊本誌を進呈(※ 進呈冊数は2を予定)させていただきます。

 

3、企画趣旨代わりの小噺がてら

 

 思い出せば随分昔のことになるのでしょうが、一つ大して気の利かない小噺を思い出しましたので、一つお耳汚しをば。

※ ちょうど高校2年生の夏になるでしょうか。私は当時東北の仙台で、凡庸極まる夏休み期間を過ごしていたのでした。高校からはじめた弦楽器が滅法に面白く思えた私は、起きてから寝るまでの間、空いた時間は殆ど楽器にしか触らないような生活を送っていたのですが、その甲斐あって、(今考えれば)随分面倒見の良かった先生に、随分なご厄介をかけるようになっていました。
 今となっては動機が何だったのかは最早思い出せません。あえて思い返そうとするならば、私を見兼ねた先生が仰ったのだと、「どこか興味のある大学のオープンキャンパスにでも行ってきなさい」と、その先生はただの一学生を広い学内から探し出して、わざわざ最上階の(音が響きづらい)倉庫兼部室にまで言伝に来てくれたのだと推し計れます(もしそうでなければわざわざは遠出しなかったくらいには不精かつ音楽に没頭していたために、そうとしか思えないのです)。

 当時の先生を美化するべきなのかどうかは、いまになっては判りかねます。ギリギリとはいえ既に21世紀でしたから、某省的な圧力があったのかもしれませんし、そもそも「オープンキャンパス」というような軽薄な響きのイベントごとに当時の私が勇んで参加したかすら定かではありません。その証拠とはいえませんが事実として、結果としては、私はその年の大学のオープンキャンパスには参加しなかったのでした。
 しかし、ならば全く徒労とも言えようことに、私はその年、私の記憶が正しければ(オープンキャンパスが終わった後の何もないはずの)京都大学に足を運んだのでした。それは紛うことなきことなのです。

 今となってみれば、オープンキャンパスは大学の主たる宣伝場という印象が強いかもしれませんが、21世紀初頭にあっては、そんな横文字は大して耳慣れた文字列ではなかったはずです。ともかく、そんな行事が催されているという話を耳にし、Windows98搭載PCで検索をしていた記憶が蘇ります。ただし、調べた結果としてはオープンキャンパス自体は残念ながら開催日を終えていたのでした。
 では諦めるかといえばそうではなく、その当時の私は「とりあえず見てくるか」という心算で青春18切符を買いに行ったのです。一つのことを始めると融通が効かずにそのまま事を続けてしまうという悪癖が露出したものと思い出されますが、そこは高校二年生で、明くる朝には仙台から京都に向けての出立のため、家をあとにしたのです。
(あまりにも唐突だったためか、父親が職場から渡されたはずの携帯電話を急ぎ私に渡す羽目になり、それによって仙台で働く父親と首都圏の若い女性との密通の事実を期せずして知ることとなりましたが、未だその事実は露見していないはずでしょう。何事にも正負の側面というものがあるものです。)

 そんなこんなでかつては定期便であった「ムーンライトながら」に揺られ京都に到達し、ユースホステルを起点として、大学巡りをすることになりました。同室のよくわからない大学生ら(思い返せばオタクっぽかった。)と話したり、同世代の女学生(なぜあの時期に京都に来ていたのかは全く不明。)を駅まで見送ったりしたような気もしますが、それ自体はまぁ通り一遍の対応で済ませたような気がします。
 一つ残念なことに、無鉄砲な私は(オープンキャンパスどころか)偶々お盆休みにかぶる時に大学に向かってしまったようで、図書館にも入れず某寮への侵入も失敗したりと散々な目に会いました。とはいえ、キャンパス内を目的なく徘徊していると、いかにもな大学生や研究者の方々と思しき人々とすれ違うことで勝手な納得感を得ていたような気がします。

 さて、思い出した小噺というのはここからです。
 その足で、出町柳に向かって歩いていた時、「もし」と声をかけられたのでした。「もし」と声をかけられること自体が(当時ですら)風情があったもので振り返ると、そこには女性が一人、日傘を傾けて立っていたのでした。
雪駄を履いた(なぜ雪駄かといえば、下らないことに私の通う高校に「下駄禁止」の規則があったため。)、見た目はズダ袋にしか見えない帆布リュックを背負う若者にわざわざ話しかけなくてもいいように思うのですが、何故かその人は私を引き止めたのでした。まぁ、東北の片田舎からやって来た洗練されない少年と言うのは、いかにも安全そうに見えるものでしょう。
 「綺麗な人だな」というのがこちらから見た第一印象で、立ち止まって話すとどうやら地下鉄の駅に行きたいのに迷っているという話。「私自身も所謂お上りさんなのですが」と言うと、「では一緒に参りましょう」という始末で、「ははぁこれが出来すぎた話というやつか」と思いつつ、彼女を今出川駅までお送りした次第です。
 道中ニコニコしながら歩む彼女に「京都の方なのですか?」と頓珍漢な質問(京都人なら迷うわけなかろう。)をする私に、「いえ、普段は大阪の方に住んでおりまして」と彼女は言う。「なるほど、では今日は偶々なわけですね」と返す不甲斐ない私に、「そうですね、今日は親類の関係で来ておりまして。私自身は仙台から来たのです」と彼女は返す。
 「なるほど遠い地だから仕方ないですね」と応じつつ、あれ?と思って「私も昨日仙台から来たのです」と付け加えると、先方の顔は見る見る内に綻び、私が通っていた学校(仙台第一)とほぼ同名の学校の名(宮城一女)を、通っていた高校として挙げるのでした。
 そこから先は、随分いろいろな話をしたような気がするのですが、あまり覚えていません。覚えているのは、先方が仙台の好きだった菓子屋の話などをするのを、大して上手くない相槌とともにうんうん頷くことしかできなかったと言うことくらいです。

 世が世なら、と言うか、私の歳が歳なら、それはとても『夜は短し歩けよ乙女』調だったと言えましょう。実際には「黒髪の乙女」とは些か言いづらいものの、お話しさせていただいたお相手は、白髪混じりでありつつ背筋がピンと張った、初老ではあれ美しい女性ではありました。連絡先すら聞くことはできず(21世紀初頭はそういう風習さえなかった。)、何度もお辞儀をして階段を降りる彼女を、私は今出川で見送ったのでした。
 今思い返せば、その女性の向かうべき場所は今出川駅から直通で行ける場所ではなく、やはり私には荷が重かったガイドだったわけですが、スマホもなく、当時は道を尋ねるべき歩行者も少ない(そんな時がかつての御所付近にまだ在ったのです。)まま、ともに見知らぬ京都の地であれこれと考えあぐねて照りつける日差しの中あるき回ったその日の記憶は、ふと意識に浮上してくる記憶の一つとなっているのです。

 その後、私は京都の大学と東京の大学(どちらも馬鹿みたいに古い寮があって、とりあえず生活はままなるだろうと言う)のいずれかを選択するにあたり東京の片田舎の方を選んだわけですが、『夜は短し歩けよ乙女』の、恐るるところなしとばかりに進む「黒髪の乙女」を見て、あの時の「袖振り合い」感を僅かながらに思い出したわけです。

 私たちは「袖振り合って」どこに行くのか?どこに行くことができるのか?『四畳半神話大系』での遅々とした歩みとは裏腹に、『夜は短し歩けよ乙女』では軽快に「乙女」が進んでいきます。御都合主義と言う揶揄すら届かぬまま、彼女は歩みを進めるのです。酒場から宴会へ、宴会から舞台へ、舞台から四畳半へ。惨めさなど些かも感じないまま、感じさせないまま。イメージからシンボルへ、シンボルからメタファーへ、彼女はくるくる変わる背景の中をずんずんと進みます。

 私たちはどこにいるのでしょう?どこに行くことができるのでしょう?そんなことを思いながら、私は「袖振り合う」数々の人たちのことを思うのです。また、そんな数々の人達の袖振り合った数々の人たちのことを、訊きたく思うのです。本作において寄稿を募集すると言うのは、そう言う問いの下にあるように思えてならないのです。

 

以上

 

文フリ新刊寄稿募集 アニメクリティークvol.6.6 続・新房昭之ノ西尾維新『続・終物語』 #bunfree

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1、検討・寄稿募集作品例:

(1)続・終物語及び関連諸作品

 ・化物語
 ・偽物語
 ・猫物語(黒)
 ・〈物語〉シリーズ セカンドシーズン
 ・憑物語
 ・終物語
 ・暦物語
 ・傷物語Ⅰ, Ⅱ, Ⅲ

(2)新房昭之(総)監督の携わったアニメ作品に関連する評論

(3)他、西尾維新原作作品に関する評論

 

2、寄稿募集要項

(1)募集原稿:

 続・終物語及び関連作品
 

(2)装丁・発刊時期:

 オフセット印刷、A5、32頁程度で企画しています。
 発刊時期は、2018年秋の東京文フリ(11月)です。
 

(3)募集原稿様式

a. 文字数:
 ①論評・批評 : 1500字程度から15000字程度まで。
 ②作品紹介・コラム:300字程度から1000字程度まで。

b. 形式
 .txt または .doc

c. 締め切り
 最終稿:2018/11/23
d. 送り先
 anime_critique@yahoo.co.jp
 ※ 参加可能性がありましたら、あらかじめご連絡いただけましたら幸いです。その際、書きたい作品、テーマ、内容についてお知らせくださると、なお助かります。
 ※ 原稿内容について、編集とのやりとりが発生することにつき、ご了承ください。


(4)進呈

寄稿いただいた方には、新刊本誌を進呈(※ 進呈冊数は2を予定)させていただきます。

 


3、企画趣旨

「文字とは、奇瑞を記し、凶兆を知り、天を動かすものである。個人のためにつくられたものではなく、集団に与えられた恩寵だった」円城塔『文字渦』2018)

「鏡はその裏箔を反映させることはできないが、それなしではそもそもいかなる反映もありえない。鏡の裏箔は下部構造(原-痕跡、差延、代補、再-マーク、反覆可能性)でできており、反映-反省を可能にするものなのだが、それはまた、反映-反省が自己自身へと閉じることを防いでもいる」(ロドルフ・ガシェ 対話「思考の密度」2008年)

 

 本というものには顔があり、裏(奥行き)もある。文字どおり、裏の顔(裏表紙)も、裏の顔の裏(裏表紙裏)もある。文章にも、言葉にも裏の顔(トリック、皮肉 etc.)があり、もしも読まれたならば声にも顔(声音/声色)と裏(裏返り/裏声)がある。解釈が介在する以上、意味が決定不可能な文章というのも存在するし、意味上、映像化不可能な文章というものもまた存在する。

 では、解釈を駆動する最小単位、線/文字には顔があるだろうか?線/文字には裏があるだろうか?(文字を鏡写しにしても左右反転にしかみえない。文字が印刷された紙を裏から透かして見ても、左右反転にしかならない。)

 上記鏡映反転の現象において知られているように、もしも対象物に奥行きがなければ、裏返す操作と反転(逆転)する操作に見かけ上の違いはない。しかし、線/文字に裏面などないことを認めた上で、線/文字(最小単位、個体、キャラクター etc.)に「裏」を(すなわち奥行きを)与えるならば、その時一体どのようなことが起こるのだろうか?(それは、描かれたキャラクターに”原理的に”書き込まれえない裏面を与えることと、どのくらい似ているだろうか?)

 

 「白黑反轉」(©️傷物語から「鏡映反転」へ。西尾維新(原作)×新房昭之(監督)『続・終物語』の鑑賞後、編者に浮かんだ疑問は上の通りである。

 

 西尾維新の終わりを与えるはずの物語のそのまた続き、『続・終物語』の映像化は後日談やファンディスクに収まらない。『続・終物語』は、登場人物による自己の解釈を描き、作者による自作品解釈の挫折を描き、そうして、「心残り」からも漏れ出る残りを、虚構の(しかし、真実の別面でもある)像として浮かび上がらせる。ヴェールの奥から身を現さない忍野忍(=反転に耐えられる文字列「忍 野 忍」のその裏面)はその徴(憑)であり、心残りがないはずの戦場ヶ原ひたぎの別の顔はその証(言)である。

 西尾維新は、膨大な『物語』の系列、上/下(巻)、白/黒にわたる文字の渦を、自覚的に反覆し、ひたすら反転させてきた。その現在としての『続・終物語』は、自身の本の最小構成要素たる文字を裏返す。別のフィクションの内部に取り込んでしまう荒技を映像化するもの、端点を繰り延べるものとして『続・終物語』はある(はずである)

 

 文字の映像化の限界とともに、文字に「裏」を与えるもの、端点(終わり/はじまり)を裏返すもの、永井均森見登美彦の比喩を借りるならば)表返された世界-袋。『続・終物語』をそういうものとして読み解いたら、どのような展望が開けるだろうか。

 

vol.6.6の発刊趣旨は以上である。

 

以上

 

 

 

 

------以下は、vol.6.0の情報

 

 

 

 

「表紙

 

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目次

 

 

I Outline

1.1  ねりま @AmberFeb 
 いまを途中から生きる

II Technology→Narratology

2.1  Dieske @diecoo1025 
 アニメ『化物語』における「キネティック・タイポグラフィ」再考ー「おもし蟹」の表象に見る「ひたぎクラブ」の主題
2.2  tacker10  @tackerx
 失われた接点(キス)を求めて ー「西尾維新×新房昭之×シャフト」論
2.3  橡の花  @totinohana
 文脈的「モンタージュ

III Metaphor→Metonymy

3.1  みら  @paranoid3333333
 鉄血にして/熱血にして/冷血の吸血鬼 ー分断され接続する『傷物語』について
3.2  あんすこむたん  @deyidan 
 ビジュルアル×トリック ークビキリサイクル終物語
3.3 ぽんてぃーぬ 
 映画『傷物語』の力学 ー青年期の終わりと「これからの日本」
3.4  今村広樹 a.k.a yono  @iyono
 なぜメフィスト賞作家で西尾維新作品の映像化が多いのかについて少し考えてみた

 

 

本文

 

 

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(ページサンプルは後日挿入)

 

 

 

 

------------------------------------------以下、発刊趣旨など

 

 

 

1、検討・寄稿募集作品例:

(1)「物語」シリーズ
 ・化物語
 ・偽物語
 ・猫物語(黒)
 ・〈物語〉シリーズ セカンドシーズン
 ・憑物語
 ・終物語
 ・暦物語
 ・傷物語Ⅰ, Ⅱ, Ⅲ
(2)「戯言」シリーズ
 ・クビキリサイクル 青色サヴァンと戯言遣い
(3)新房昭之(総)監督の携わったアニメ作品に関連する評論
 ・コゼットの肖像
 ・ぱにぽに
 ・ef
 ・ひだまり
 ・まどマギ
 ・打ち上げ花火
  など
(3)他、西尾維新原作作品に関する評論

2、寄稿募集要項

(1)募集原稿:

 新房昭之×西尾維新をテーマに寄稿募集を行います。折しも、三部作となった『傷物語』がこの2017年1月の公開をもって完結し、シャフト×新房も10年を過ぎた現在、新房(総)監督による西尾維新作品のアニメ化についての総括を行うのが適切であると考え、今回の企画に臨んだ次第です。
 
 さて、新房監督といえば、かつて『幽☆遊☆白書』で激しいアクションを指示するコンテ・演出から、トメの多用やカット数をふんだんに利用した近時のシャフト諸作品まで、幅広い作品を手がけて監督です。例えば、トメの多用については監督本人曰く、現場の制作環境の過密さを緩和するための手法であったともされており、純粋に表現面からの要請とは異なる面から意図的に映像作りをしているとの姿勢も見え、『アニクリ vol.5.0「アニメにおける資本」号』との連続性も意識して同人誌作りができるものと考えています。
 もちろん、新房監督も株主兼制作パートナーとして参加するeggfirmの活動なども含め、アニメをめぐる環境に踏み込んだ検討も募集しています。

 また、西尾維新といえば、文字媒体の特質を遺憾なく発揮した文体・語彙選択で知られているわけですが、そのような作品をアニメ化するに際しての巧拙や功罪については、各人の思うところがあるのではないかと思料します。とりわけ、西尾作品についてはプリプロ段階での緻密な検討が要求されると目されることから、この点についての言及を有する批評については特に力を入れてご寄稿いただけましたら幸いです。

※ もちろん、作品評論の常として、どこまでが新房昭之西尾維新によるものかという線引き問題は生じる(例えば、新房は原作者の参加(クレジットにせよ脚本会議にせよ)を積極的に促す監督として知られるが、原作者との距離はどうか? 例えば、尾石、大沼、宮本、川畑等々との「分業」の度合いはどうか?)ものの、この点を含めた議論喚起をなすべく、この度の寄稿募集を行った次第です。
 ※気になる読者は、おはぎ(@ohagi2334)さんのクレジットリストに詳しいので、参照してください。
 

(2)装丁・発刊時期:

 オフセット印刷、A5、100頁程度で企画しています。
 発刊時期は、2017年春の第24回東京文フリ(5月)を想定しています。
 

(3)募集原稿様式

a. 文字数:
 ①論評・批評 : 3000字程度から15000字程度まで。
 ②作品紹介・コラム:500字程度から2000字程度まで。

b. 形式
 .txt または .doc

c. 締め切り
 第一稿:2017/3/25
 (※ 個別に連絡いただけましたら延長することは可能です)
 (※ その後、何度か原稿の校正上のやり取りをさせていただけましたら幸いです。)
 最終稿:2017/4/15 

d. 送り先
 anime_critique@yahoo.co.jp
 ※ 参加可能性がありましたら、あらかじめご連絡いただけましたら幸いです。その際、書きたい作品、テーマ、内容についてお知らせくださると、なお助かります。
 ※ 原稿内容について、編集とのやりとりが発生することにつき、ご了承ください。


(4)進呈

寄稿いただいた方には、新刊本誌を進呈(※ 進呈冊数は2を予定)させていただきます。

 


3、企画趣旨

(underconstruction)

 

アニメクリティークvol.5.5 「新海誠/君の名は。特集号」発刊告知 #bunfree #anime_critique

2016.11.14 書影案(表紙案)更新

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君の名は。』特集号を発刊します。寄稿者等計15名参加、記事数は22本予定です。

以下の通りです。

 

 

1、コンテンツ

 

1.) 『君の名は。』読解・解説・批評・評論等 ×11本

2.) 『君の名は。』コラム ×4本

3.) 追録小説『君の名は。』 ×7本

 ※ 各評者による自身の評論+『君の名は。』への導入となるショートショート

4.) イラスト (作成中)

 

 ※ 東京文フリ11/23(水・祝日)頒布

 ※ A5, 100ページ: 頒布価格600-700円予定

 

 

2、寄稿者・参加者

 

1.) contributor.
 @WataruUmino , @wak , @totinohana , @tackerx , @SpANK888 , @narunaru_naruna , @Mrbitss , KH, @kei_furuto , @frenchpan , @diecoo1025 , @deyidan , @burningsan , @AmberFeb201

2.) illustrator.
 @yopinari , @konkatuman

3.) editor.
 @Nag_Nay

 

 

3、sample. 追録小説

 

i.) かつて敗れていったツンデレ系サブヒロイン (@wak) | Twitter

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ii.) なーる (@narunaru_naruna) | Twitter

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iii.) バーニング (@burningsan) | Twitter

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iv.) 偽うみのわたる@文フリ東京 カ-39 (@WataruUmino) | Twitter

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v.) ねりま (@AmberFeb201) | Twitter

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vi.) すぱんくtheはにー (@SpANK888) | Twitter

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vii.) tacker10 (@tackerx) | Twitter

 (under construction)

 

 

 

4、sample. 評論等

 

i.) かつて敗れていったツンデレ系サブヒロイン (@wak) | Twitter

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ii.) ぱん (@frenchpan) | Twitter

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iii.) K.H.

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iv.) 古戸圭一朗@3日目東U24a (@kei_furuto) | Twitter

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v.) バーニング (@burningsan) | Twitter

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vi.) 香川に行ったあんすこむたん(旧でりだん) (@deyidan) | Twitter

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vii.) なーる (@narunaru_naruna) | Twitter

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f:id:Nag_N:20161108115055p:plain

 

viii.) ねりま (@AmberFeb201) | Twitter

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ix.) すぱんくtheはにー (@SpANK888) | Twitter

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x.) Dieske (@diecoo1025) | Twitter

 (under construction) 

 

xii.) tacker10 (@tackerx) | Twitter

 (under construction)

 

xiii.) (No name)

 (under construction) 

 

 

評論・コラムは、『君の名は。』に関する読解・解説・批評・評論等を含む。
その直後に挿入されている追録小説は、各評者による自身の評論+『君の名は。』への導入となるショートショートとして補録された。なお、TwitterにおけるSS例を念頭に 140×6字=840字 の制限の下、執筆を依頼している。

なお、本冊子は、アニメクリティーク vol.5.0 「アニメにおける資本・文化・技術/不条理ギャグアニメ」 特集号(近刊)との連関を意識して作成した。アニメ制作工程にあらたな潮流を導入した製作者としての新海誠の顔とともに、アニメクリティーク vol.5.0をあわせて参照されたい。

 

 

以上 

 

 

 

------------以下、公開時 8/27 における寄稿募集文など

 

1、刊行趣旨:寄稿募集に際しての若干のメモ

 

2013年10月のたそがれ時、自らの片割れに逢いに行くために、彼女(の身体をした彼)は疾走する。しかし、自らの片割れに出逢ったがために、彼女は「あの人の名前が思い出せないの?」(=「彼は誰?」)と叫ぶことにもなる。というのも、そもそもたそがれ時に逢えるのは、この世ならざるものであり、此岸と彼岸との距離を隔てたものだからだ。
・・・
ではなぜ彼女は、現実には不在である存在を思い出すことができるのだろうか?
忘れてしまった何か・何処か・誰かを覚えていられるというのは、それが錯覚でなければ、一体どのようなことなのだろうか?
あるいは、現実に生きる私たち視聴者は、同様に知らない者を記憶し、知らない者の名を呼ぶことは(オカルト的な意味ではなく)本当にできないのだろうか?

 

(1) 『君の名は。』:集大成/新境地としての二面

1−1: 連続性

上記のたそがれ時を跨いだ場面には、既存の新海誠作品と『君の名は。』を繋ぐ時間的遅延・空間的距離のモチーフが現れている。
作中で述べられているとおり、たそがれ時は彼岸と此岸を繋ぐ時間であり、世界には存在しないはずの魔に逢うことのできる場である。そこで彼女は、彼女の世界には存在しないはずの彼に出逢う。山を降りた今や名前も思い出せないけれども、自分の「半分」をなしていた誰かに彼女は確かに出逢った。その記憶だけが、彼女の今(作中2013年10月)の衝動を支えている。
・・・
物理的な距離を隔ててなお自分とはもはや決して分離できないくらい距離が近づいた他者、下手をすれば何年何十年と不意に記憶を苛み続ける確固とした他者のモチーフは、『秒速』や『ほしのこえ』でそうであったように新海誠作品を要約する時の一つの常套句として通用するものと思われる。
実際、本作においても、「あの人の名前が思い出せんの!」と叫ぶ忘却の直前、爆破シーンにおいて勅使河原との会話で「(「ごめんやって」て)私が!」と述べていたのは、その片割れは「私」と未分の他者だからである。そんな他者がいた確信すら残らない過去の引っかかりとともに、大人になった今(作中2021年時点)でもまだ、彼女は自らをそんな誰かに投じ続けている。
だからこそ作品冒頭、美しい街の風景を背景とした「気づけばいつものように」「私は誰か一人を、一人だけを、探している」という二人のモノローグの重なりは、既存の新海誠作品を想起させるに相応しい場面の一つであるだろう。

 

1−2: 断絶

そんな既存作との連続性に対する予感を裏打ちするように、彼女たち二人をつなぐ携帯電話というガジェットは、いつもの通り不通である。相互通話は不可能で、互いの携帯に入れたアプリ(オンラインストレージ上)にメモを保存しておくことができるだけだ。この、2つの一方通行のコミュニケーションもまた、新海誠的であるとされやすいかもしれない。
・・・
しかし、ここで既存作との一つの断絶が走る。というのも、この不通はいつもどおりの設定考証にとどまるものではないためだ。
本作においては、携帯電話は最初から一度たりとも通じたことがない。そのため、彼女たちは、かつて通じ合った(と相互に信じた)関係の不在に縛られているわけではない。つまり、携帯電話の不通は、(不通の)ガジェットが表していた過去を表す物ではない。この点で、過去の呪縛に焦点が当てられていた既存作とは一線を画する。
本作で彼女たちは別の仕方で繋がっている。例えば、糸守町の風景画によって、油性ペンで引かれた名の痕跡によって、名でさえない衝動を伝えるだけの「好きだ」の文字によって、そして何より形に刻まれた意味や歴史を失ってしまった遺物たる組紐によって。
もちろん、名前ももたないただの線の痕跡など、結びつけられるべき場所を持たず、容易く失われてしまう。脳状態に書き込まれなかった記憶が保持しえないように、あるいは現実との整合を持たない夢は、夜を明かせば早晩(いつか)消えてしまうように。それでも彼女たちは、決して現実にはありえなかったはずの記憶の場所を手繰りよせようともがき続ける。満員電車から身体を押し出す際の自動ドアもまたある意味でそうであるように、引き戸を(手前側ではなく)奥側に開け放つ時、彼女たちは自らを焦燥とともに世界に押し出している。

 

1−3: 喪失の記憶、喪失されつつある記憶

このようにして考えていくと、時間的遅延・空間的距離という常套的なモチーフとは異なり、本作にはもう一つ、新たなモチーフが読み取りうるかもしれない。そのモチーフとは、「喪失の記憶」というモチーフである。それは、何かを失ったという喪失の記憶であるとともに喪失されていく記憶であり、失ったものが何なのかさえ忘れてしまう喪失の記憶である。「忘れちゃだめな人」を忘れてしまう喪失であり、記憶が絶えず薄らいで、幸福な時間が絶えず失われてしまう世界を忘れてしまう喪失である。
・・・
作中に「今はない景色」という言葉がある。それは、よく描けているかつて在りし牧歌的な糸守の景色であるとともに、「東京だっていつ消えてしまうかわからない」カタストロフの悲劇の風景でもある。これらの景色は、しかし実は常に一つである。美しい景色は次の瞬間、突如として悲劇の中に落ちて消えてしまうかもしれない。むしろ、悲劇が悲劇として理解されるからこそ、記憶は容易く埋没し、風化してしまうのかもしれない。例えば図書館に山と連なる本の中に埋もれてしまうように。
喪失の記憶を強調する本作は、確かに糸守の悲劇を「夢のように美しく」に描いている。しかし、その美しさに魅了されるだけで背景世界にアクセスせず、過去の記憶を反復することに拘泥していたならば、既存作品における背景美と変わるところはなかっただろう。本作では、彼女たちは背景に介入する。幻想的な美しさの中にあった残酷さに対して抗うことにこそ、彼女たちは衝動を持つに至る。
美しいのは、背景の美しさに抗い、美しさの中にある(妄想にすぎないかもしれない)歪さへの衝動を持つ彼らである。(その点では必死な滝について放っておけないという奥寺先輩のセリフは、我々視聴者の視線を先取りしているのかもしれない)。
・・・
もちろん、その衝動さえも、大人になってしまえば容易く失われてしまう。彼らはもはや2013年の出来事の当事者ではないし、ほとんどすべてのエピソードを忘れている。そうして忘れ去って誰しも大人になり、衝動を失った今(作中の2021年)になってみれば、奥寺先輩の言うように「君も幸せになりなよ」と言葉を投げかけることは容易にできる。できる、のだろうけれど、それでも幸せが何かを知るには誰もが多くを忘れすぎているのではないかという思いに、彼女たちはとらわれざるをえない。

私の片割れを、たそがれにおいて、それと意識することなく、「いつ失われるかもしれない」都市で探さざるをえない。これは呪いだろうか?祝福だろうか?

 

(2) フィクションを通過するという「ヒジョウな幸運」?

 

さて、以上のような長々しい本作のパラフレーズは、オタク的な妄想だろうか? あるいは新海誠による呪いのようなものだろうか?
そうではない、と筆者は感じる。これは非常な幸運なのだと筆者は信じる。

流れ、つまり「ムスビ」を保持することは苦しい。知っているはずの通学路を知らないかのように振る舞うこと、知っている人を知らないかのように取り扱うこと、忘れちゃいけない人に忘れたかのように出会うこと、自分の名前を知らないかのように返事をすること、そして「まだ知り合ってないのに(名を呼んで)会いに来る」こと。これらはどれも不合理で、現実にそぐわない振る舞いで、フィクションでしかありえない。有り体に言えばそのフィクションは(勅使河原のいうmulti-verse並みの)オカルト的妄想にすぎない。

それでもこんな妄想は、現実でしかない他者との間では辛く、まだ見ぬ(虚構の)他者との間では「大変な幸運」なのだ、と言うのが、本作から読み取りうる寓意であると筆者は信じる。
・・・
たとえその妄想が非情なカタストロフの希求であったとしても、その世界が美しいと思えるのは、絶えず失われつつある何かへの衝動を呼び起こさせるからだ。そして、何かに取り憑かれたかのように、既知の事実を掘り起こすのは、そこに「今はない景色」、つまりかつてあったかもしれない景色や未だあったことのない、尋常ならざる景色を重ね合わせてみることができるからだ。
こうして黄昏の妄想は終わりに抵抗する。終わりが始まることにも、終わりが終わることへも抵抗する。名を呼ぶことで既知になる何かに抵抗している。
・・・
君の名は。」の句点もまた、「君の名は(宮水三葉)」と呼ばれてしまうことへと抵抗している。命名儀式に対して抵抗している。すでに知り合った既知の人を、名前なしに呼ぼうとする衝動だけが、その言葉にまだ滞留している。
映像そのものは「君の名は。」に始まり、「君の名は。」で終わる。そのラストが、その句点の手前に留まったことは必然である。
・・・
筆者はここにフィクションのキャラクターの救いを見る。彼女たちは自らの片割れの名を知らず、現実の我々以上に片割れに出逢い損ねている。私たちがフィクションを既知のものとするより先に、彼らはフィクションの側に進んでしまう。
それでも彼女らが幸運なのは、その名指しえないフィクションを真に受けることができるからだ。その不合理な衝動こそが、現実に生きる私たちにとっては「今はない景色」である。
だから我々視聴者もまた、フィクションを現実的な形で思い起こさねばならない。フィクションの中に閉じこもるのではなく、より多くのフィクションに身をさらさなければならない。そしてより多くのフィクションを通過して、より多くの景色を眼差さなければならない。

そう信じつつ、以上を刊行趣旨としたい。

 

(3) 寄稿募集

そんな救済をめぐる物語として、私は『君の名は。』を観た。そこに既存の新海誠作品との断絶をも見た。しかし、この見方については異論も予想される。例えば次のようなものが一案としては考えられよう。
・そもそも新海誠を論じるにあたっては、映像をこそ(あるいは『ほしのこえ』以降からほぼ全作にわたって続く映像の作り方の変化をこそ)論じなければならないのではないか?
・本稿冒頭にある疾走にしたって、運動表象として論じなければ手落ちなのではないか?
・あるいは、主観ショットが三人称のショットに移り変わる定位置回転の構図こそが、彼女たち二人のストーリーラインと画面との照応関係に立っているのではないか?
・既存の新海誠作品との連続性をむしろ強調すべきではないか?「失われつつある記憶」のモチーフは、『秒速』以来の十八番ではないか?
・あるいは、もはやMVを思わせる挑戦的な音楽の導入については触れなくてよいのか?
などなど、ざっと思いつく異論反論はこのようなものが挙げられるだろう。
・・・
編集側としてはいずれも尤もだと考える。それとともに、問題だと感じるのは、これらの問いを整合的に掛け合わせ、蓄積する場所が(少なくともWeb上では)僅少なことにある。そもそも統合思考に乏しいツイッターは時とともに流れさってしまいがちだし、思い出して見返そうとした時の一望性にかけるきらいもある。何より、著者たち相互の間で意見をぶつけ合う場の設定が、なかなか困難になりがちな点も指摘できるかもしれない。
可能ならば、弊アニメクリティーク誌が(実際既刊の編集過程で意見照応をさせ、可能ならば本誌に反映させてきたように)意見を闘わせる場所になれれば、と考えている。アニメクリティーク誌は、次号『アニクリvol.5.5_β 新海誠君の名は。』特集を文フリで無事出すことができれば、丁度3年目を迎えるとともに、計9冊目の刊行となる。長い間弊誌を支えてくださった寄稿者諸氏・読者諸氏に改めて御礼申し上げるとともに、広くご協力を仰ぎたい所存である。

以上を踏まえ、各人それぞれの観点を伴った論争的な寄稿文を、以下の要領に従い募集したい。

 

 

2、寄稿要領

 

(1)発刊趣旨

 以上の通り。

(2)装丁・発刊時期:

 オフセット印刷、A5、60頁程度で企画しています。
 発刊時期は、2016年秋の文フリ(11月)を想定しています。
 

(3)募集原稿様式

a. 文字数:
 ①論評・批評 : 3000字程度から15000字程度まで。
 ②作品紹介・コラム:500字程度から2000字程度まで。

b. 形式
 .txt または .doc

c. 締め切り
 第一稿:10/1
 (※ 早めが嬉しいです。ただ個別に連絡いただけましたら延長することは可能です)
 (※ その後、何度か原稿の校正上のやり取りをさせていただけましたら幸いです。)
 最終稿:11月上旬

d. 送り先
 anime_critique@yahoo.co.jp
 ※ 参加可能性がありましたら、あらかじめご連絡いただけましたら幸いです。その際、書きたい作品、テーマ、内容についてお知らせくださると、なお助かります。
 ※ 原稿内容について、編集とのやりとりが発生することにつき、ご了承ください。


(4)進呈

寄稿いただいた方には、新刊本誌を進呈(※ 進呈冊数は2を予定)させていただきます。

 

以上 

 

すぱんくtheはにーさんの評論冒頭

さて、コミケ期間限定で、すぱんくtheはにーさんの評論冒頭1節+αを紹介します。

ガルパンがないぞ」という話は無しで。第2節でちゃんと出てきます。あと3節はカオスですが、読ませるものになっています。話としては『アニクリvol.4.0』のすぱんくさんの論に続くもので、そちらをお読みくださると理解が進むものと思われます。(例によって簡潔な紹介で申しわけありません)

本誌においては、本論考に続いて、@tackerx さんと、@totinohana さんからのレビュー、そして 、@SpANK888 さん自身によるリプライが掲載される形となります。

 

以下、抜粋となりますので、どうぞよろしくお願いいたします。

 

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1 Kickstart My Life

(1)Kickstart the life, but whose?

『ばくおん!』最終話において、主人公・佐倉羽音は「バイクでいままで一度もコケたことがない」と述べた。それに対し、バイクに乗ることを勧めた天野恩紗は羽音へ向けてこう告げる。
バイク乗りってのはコケて初めて一人前になる生き物なんだからな」

この一言は事もなげに投げかけられるが、一見すると逆説的だ。
なぜなら、想定している/されているライディングを行う限りバイクはコケないためだ。決められた挙動の中では、バイクはコケることはない。ならば、普通に考えれば、「コケない」ことが一人前の証明なのではないだろうか?バイクを上手くコントロールすることで「コケない」ことが一人前の証になるのではないのだろうか?

しかしそうではない。
ここには、虚構のキャラクターが「決められた運動」から逃れ、予想を逃れるという意味において初めて実在する「生き物になる」過程が、如実に示されているためである。

 

(2)Kickstart “My” Life

バイクをコントロールする機構は両手と両足にしかない。しかし、その四ヶ所だけで「バイクに乗る」ことは
できない。自立できない乗り物であるバイクはライダーの支えなしでは真っ直ぐに走ることすらかなわなず、曲がり角では操作機構には存在しない、車体ごとライダー自身の体を傾けるという挙動によって初めて曲がることが可能となる。
全身をフルに使いながら「想い通りのライン」を走っていく快感はバイクの大きな魅力の一つだ。

そしてその快感は「ダンス」に似ている。
手足の挙動を越え、ステップし、全身を動かすことで「想い通りの振り付け」を描く。全身で「イメージする身体」を表出させる快感は、バイクとダンスに共通する”喜び”である。

しかし同時に「想い通りのライン」「想い通りの振り付け」は、「決められた動作」をライダーに強要していく。そういった「決められた動作」として印象的なものに、アニメにおける「バンク」システムがある。変身や合体、あるいは必殺技といった「重要でありながら決まった動作を行う」シーンを、銀行(バンクbank)に預けるように保管し再利用するために引き出すシステムである。
それは「バンク」シーンの度に、同じ映像を画面に描く。それは正に「思い通り」の動作を常に、完璧に描くことができるシステムであり、ある種「思い通りのライン」「思い通りの振り付け」の完成形であると言える。
それは何度でも何度でも、同じ動作を「再現」することができる。しかしそれは先に述べたように、決められた運動から逃れられない「虚構」であることを強く要請するものでもある。
一方でバイクも「バンク」を行う。バイクはカーブを曲がるときその車体をライダーごと斜めに傾むける(バンクbank)することで旋回性能を得る。その瞬間に「思い通りのライン」が要求するバンクの角度は一つしか無いのかもしれない。だが路面の状況や、道路の混雑状況、マシンのコンディション、あるいはライダーの精神状態によって「思い通りのライン」は変化し、同時に「バンク」の角度も変化していく。
同じバンク(bank)という言葉を持ちながら、アニメにおけるそれは「決められた動作」を繰り返すものであり、バイクにおいては「一度しか現れない」ものだ。
その一回性によって変化する「バンク」は常に異なった結果をもたらし、それは時としてバイクがコケる可能性を開いてしまう。そしてコケるがゆえに、その挙動は「決められた動作」から逃れることを可能とするのである。
つまりコケることができないバイク乗りの姿は可変する「バンク」ではなく、不変の「バンク」によって「決められた動作しかできない」虚構的存在となってしまう。
……つまり恩紗のセリフはこう言い換えられる。
バイク乗りってのはコケて初めて生き物になる(傍点:生き物になる)んだからな」

 


(3)Kickstart their life

過去、『アニメクリティークVol.4』の拙論では、アニメにおけるアイドルのダンスを例に、次のように述べていた。『アイカツ!』における大空あかりの「ダンスの失敗」は、ダンスが持つ規定された動きから外れるものである。それゆえにキャラクターを「決められた動作しかできない虚構的存在」から「予想外の動きをする実在的存在」へ変化できる一つの回路として働くものだ、と。
この理路は、一見すると捻り過ぎで蛇行しているように見えるかもしれない。拙論以降のアニメ表現としても、例えば『プリパラ!』では、ガァルルというダンスの習得をはじめたばかりのキャラクターがライブを行い、そのステージ上でアイドルとしては未熟なガァルルは「転倒」する。つまり、大空あかりもガァルルもアイドルとして未熟である表現として「ステージ上での転倒」が描かれ、コケることが一人前ではないことの表現となっているためである。
しかし、ここでは実は、コケるのはアイドルとして未熟だからだ、という意味自体が「転倒」しているのだ。

(引用はじめ)
「死なない身体」を持つアイドルから、「殺せる身体」を持つアイドルへ。もはや決して取り戻せないもの(典型的には死の可能性)を与えることによって、もともと死んでいたはずのキャラクターは、はじめて生を得ることができる。(『アニメクリティークVol.4 Dance of the Dead——自然主義的フィクショナリズムと、殺せる身体の行方』より)
(引用終わり)

バイクはコケて傷つくことによって、取り戻せない欠損を得る。ダンス中にコケることによって、取り戻せないステージの失敗を得る。それは「死なない身体」から「殺せる身体」への移行である。絶対に傷つかないバイクから傷つくバイクへ、虚構的存在から実在的存在への変化がここでは起きているのである。彼らはここで彼らにとっての「私の生」を駆動させている。

それは私たち現実の身体と、キャラクターたち虚構の身体の境界がまるで取り払われたかのような錯覚を覚えさせる。そしてその瞬間、私たちの現実は虚構によって上書きできる可能性が開かれるのだ。
虚構がフィクションが、現実に生きなければならない私たちの世界を豊かにするためには、この境界の「混乱」によって現実と虚構を等価に繋ぎ止めなければならない。
この虚構的存在から実在的存在への変化だけが、それを可能にするのである。

2 その鼓動さえも暖かい

(1)突発的な写実--『ばくおん!』

バイクがコケることが、なぜバイク乗りを「生き物」にするのか。ここで、虚構の存在が実在の傷を負う可能性を先鋭化した作品として、もう一つ『ガールズ&パンツァー』を上げることができる。

『ばくおん!』最終話では、上記の会話のあと羽音がバイクを初めてコケさせてしまうシーンが描かれる。駐車状態からバイクを倒して傷をつけてしまうのだが、このとき羽音の顔には特徴的な「歯」が描かれている。
『ばくおん!』全話を通してこの歯の描かれ方がされるのは、この1シーンのみだ。さらに、通常描かれる歯の表現よりも写実性を持った描かれ方がなされている。
アニメの中のバイクが傷つき、実在的存在になろうとするその瞬間に、羽音の口にも写実的な歯が出現する。この含意は何か?

そもそも鉄の馬とも形容されるバイクは、人馬一体としてライダーとの身体的結びつきを強く要請する乗り物だ。二輪車の教習ではこのように言われる。「バイクは見ている方向へ曲がっていく」と。バイクに跨った状態での視線の方向は、自然と体に傾きを与え、その傾きによってバイクは自然に視線の方へ曲がる。
この意志と動作と挙動の一致は、ライダーとバイク本体との境目を曖昧にしていく。まるで自分とバイクはこの跨った状態が本来あるべき「私という生き物」の姿であるかのように強く錯覚させられていく。キックスターターを蹴ることによって、「私」は初めて自分の輪郭を拡張し、生(My Life)の実感を得る。
ここから、バイクの傷とは、ライダーにとって延長された自分の身体に与えられた傷となる。だからこそ、バイクが傷つく=実在的存在になるとき、ライダーの身体には写実的な歯が現れ、バイクと同時に虚構的存在から実在的存在への移行が起きるのである。

(2)必随する傷--劇場版『ガールズ&パンツァー

 

 

-------------

 

 

 

(以下略)

 

以後、2(2)が続いたのち、

 

3 伝えるべきもの

(1)身体の消失点の〈彼方〉
(2)死ぬことのない死体を見るのか?生くることなき生を見るのか?
(3)乗りと勢いの国は此処に

と、バイク乗りならではの叙情的な一節で文章はしめられます。

  

なお、橡の花さんとtacker10さんからのコメント(とリプライ)については、すぱんくさんに関する様々なネタバレを含むのでこちらでは省略ということで。

 

以上

 

tacker10さんの評論冒頭(抄録)

さて、コミケ期間限定で、tacker10さんの評論冒頭1節(といっても7000字超ありますが)を紹介します。

これは『アニクリvol.4.5_β ガルパン総特集号』の第1章の基調となる「アニメにおける輪郭線と音」についての論考です。(本来ならここで編集側での概説を加えるべきでしょうが、あくまでも紹介につき、今回は省略するということでどうぞよろしくお願いいたします。)

本誌においては、本論考に続いて、@totinohana さんと、@yokoline さんからのレビュー、そして 、@tackerx さん自身によるリプライが掲載される形となります。

 

以下、抜粋となりますので、どうぞよろしくお願いいたします。

 

------------------

 

0.はじめに


 二〇一二年放送のTVアニメ『ガールズ&パンツァー』第一話「戦車道、始めます!」冒頭シーン、隊列を組みながら前進して行く敵軍を捉えた戦車の一人称視点とも言うべき画面に、二人の少女が身を潜めて喋る声が何処かから聴こえて来る。

「マチルダⅡ四両、チャーチル一両、前進中」
「流石、綺麗な隊列を組んでますねえ」
「うん、あれだけ速度を合わせて、隊列を乱さないで動けるなんて、凄い」
「こちらの徹甲弾だと正面装甲は抜けません」
「そこは、戦術と腕かな」
「へへっ、はい!」

 我々は、その声が果たして誰の発した音なのかを画面に探す。しかし、この時に音源となるはずの二人は画面に存在せず、喋り声は誰のものでもない「フレーム外の音」として反響する。代わりに、まさに描かれている砲台の如く声の主を探して画面上に向けられた我々の視線=照準線は会話の対象となっている戦車の隊列を発見する。つまり、画面上を彷徨う声は、その主ではないが、会話の対象となっている遠景の戦車の姿に己が落ち着くべき居場所を得ているのだ。
 そこから、すぐさま画面上には輪郭線を基本に描かれた二人の少女が現れる。崖下から駆けながら偵察から帰還したらしき二人は、一方がそのまま戦車をよじ登って画面手前へ消えて行くのに対し、もう一人は画面内に留まって、操縦席に手を伸ばして車中の人物を起こす芝居を見せる。それと同時に、画面には「麻子さん起きて。エンジン音が響かないように注意しつつ展開して下さい」という先程と同様の声が与えられていることで、つい先程までは「フレーム外の音」だった喋り声が、映像におけるキャラクターと声の芝居のシンクロによって、今度はいままさに画面内に映る少女から発された「インの音」として鑑賞者に理解される。そして、それまでは遠方を進軍する戦車の隊列に視線を促しながら彷徨っていた声が目の前に自身の宿るべき主を見出されるのに伴い、我々の意識もまた、遠景から近景へダイナミックに運動するのだ。
 このようにして、作中で最初に画面上を彷徨う声の主という大役を戦車から受け継いだ彼女こそが本作の主人公、西住みほである。

 このシーンが端的に示す通り、「映像作品」において画面上の音はミシェル・シオンが『映画にとって音とは何か』で定義した「イン/フレーム外/オフ」の境界を筆頭に様々な隙間を、さながらどのように困難な場所も踏破する戦車のように軽々と踏み越えて行く。例えば、先述した場面、画面内で発されたみほの「麻子さん起きて下さい」という声は、実際には描かれてはいないものの車中に存在するであろう呼び掛けられた対象としての「麻子」というキャラクターを画面外の余白に生じさせながら、その「みほ」と「麻子」という異なる輪郭線で区切られた二人の人物の隙間を越えている。キャラクターを境界に囲まれたある種の枠(フレーム内フレーム)であることを考えれば、会話もまた、人物のフレームからフレームへと声が境界を跨ぐことに他ならない。
 翻って、アニメーションにおける輪郭線には、先程の場面で「麻子」を眠りから起こすための線で描かれた芝居に声が同期することで、かつて「フレーム外」を漂っていた声が西住みほというキャラに吹き込まれる(「イン」になる)かのように複数の線で描かれたコマ毎に異なった形のキャラクターをキャラとして結集させると共に音の在り処を即座に同定させる力がある。しかも、運動の方向は、外から内のみではない。アニメーションに特殊な輪郭線は、何処まで行っても仮初であり、それ故に音源の一意性を越え出て行く。よって、画面の中に一旦は位置付けられた音も、まるで鳥たちが止まり木で羽を休めた後に再び力強く羽ばたいて行くかのようにその輪郭線から、次のコマ、次のカットという新たな空間へと形を変えながらより力強く運動して行く。再び冒頭シーンで説明すれば、偵察から帰還した二人が画面の手前に消え、同時に「麻子」を起こすみほの声によって、画面の手前にはみほの指示する「展開」を行うだけの余白が既に充分な形で伸びている。その余白に対して実際に画面は「展開」され、その中をまた声が渡って行くことで画面は(同時に我々の意識も)運動して行く。
 そもそも文芸、音、映像、舞踏といった諸技術は各々が独立した空間認識と時間認識を持つ。それらの形式が折り畳まれた複合芸術であるアニメにおいては、それぞれの要素が複数のリズムでお互いに介入し合いながら映像内外に伸縮する広い空間への運動を生んで行くのだ。
 以上を確認した上で、本稿では、アニメ『ガールズ&パンツァー』シリーズにおいて、主人公の西住みほが自由に動き回ることの出来る大洗女子学園戦車道チームという開けた空間=充分な余白を得ることで本来の大胆さを発揮して行った姿に注目する。
そうすることで、同作が先述の境界を踏み越える音の特性への自己言及的な内容を展開して行く点を捉えるためである。
そして、その自己言及が行き着く先に、もはや声が台詞自身すらも必要としなくなった臨界点としての異なる声が自由に共存し得る場である輪郭線まで辿り着き、アニメという媒体を捉え直すことが本稿の目的だ。

 では、実際に本編の内容に踏み込んで行こう。

 

1.繋がる輪郭線、共有される声

(1)戦車から大胆に飛び降りること
 アニメ『ガールズ&パンツァー』の主人公である西住みほは、元来非常にアクティブな性格の持ち主だ。それは二〇一五年に公開された映画『ガールズ&パンツァー劇場版』で挿入される回想シーンに描かれた彼女の幼少期の姿を観れば一目瞭然である。
 何処までも広がる畔道を走る戦車上で、幼少期のみほは目を輝かせ、自由に飛び回る鳥たちに飛び跳ねながら手を振り、戦車を降りる際にも姉のまほが差し出した手にかぶりを振って自分の力で飛び降りようとする。眉の動きや頬の高潮に現れているように、彼女の表情は感情表現も豊かに描かれており、年齢の割には既に落ち着いた描写の姉とは極めて対照的である。
 しかし、前述の回想シーンから数年後の時点となる、『ガールズ&パンツァー』第一話「戦車道、始めます!」で県立大洗女子学園に転校して来たみほにその溌剌とした面影は全くない。寧ろ、どちらかと言えば気弱で、引っ込み思案なタイプという印象に描かれている。
 それにもかかわらず、実際には彼女こそが後にこの弱小高校の大洗を率いて戦車道全国高校生大会優勝を果たすのである。
 それも第一話の印象から思いも寄らない大胆な作戦を用いて。
 故に、ここで重要なのは、彼女の立てる作戦の大胆さが、元来彼女が持ち合わせていたアクティブな性格の発露であったと劇場版で捉え直されている点だ。当然のことながら、映画『ガールズ&パンツァー劇場版』が『ガールズ&パンツァー』の後から制作をされた作品で、みほの幼少期の挿話も事後的に追加された描写であることからすれば、「みほは大洗女子学園で変わったのではなく、大洗女子学園において本来の大胆さを取り戻した」という仮説を立てることはそう不自然なことではない。事実、追加された回想シーンが、みほを(建前上)勘当した母・西住しほとの厳格な会話シーンの直後に置かれていることから考えてみても、みほが西住流・黒森峰女学園で自らに課された役割にきつく縛られ、西住の名に伴う重圧を背負い続けていたことを強調しているのは間違いないだろう。
 そもそも、黒森峰を追われる原因となった戦線離脱もまた、回想シーンと合わせれば、役割の持つ閉塞性を否応なく強調する場面として解釈できる。回想シーンで、みほは戦車からの飛び降りに(姉の支えもむなしく)失敗するが、泥だらけになった二人は当たりも外れも区別がつかなくなったアイスの棒を見て笑い合う。「撃てば必中」(=必ず当たりを引く)を標榜する西住の名と役割を背負う前の二人は、その名に泥を付けることを厭わず己で決断して戦車から飛び降りるような大胆な行動を取り、例えそれが失敗したとしても結果に対して屈託なく笑いあうことがまだ出来たのである。そのような思い出が描かれた回想シーンが挿入されたことで、みほが取り戻すべきものが明確に示される構成になっているのだ。
 つまり、みほに必要だったのは、自身の背負った重責を下ろし、かつてありし日に発揮していた大胆さを取り戻すことが出来るための環境だったのだ、ということをこのシーンでは再確認できるのである。
 そして実際、第一話「戦車道、始めます!」は、彼女が大胆に動き回れるだけの環境を得るまでの物語を描いている。では、ここから実際に第一話の内容を確認してみよう。

(2)輪郭線を跨ぐ声
既に述べた通り、大洗に転校して来たみほは、それまで過ごして来た黒森峰での過去が原因で引っ込み思案な性格になってしまっていた。そんなみほだが、クラスメイトの武部沙織と五十鈴華に声を掛けられることで、次第に明るさを取り戻すかに見える。しかし、それも束の間、生徒会が戦車道の授業を履修するように迫ると、彼女の姿は同ポジに固定され、全く動かないままカメラに捉えられる(或いは、囚われる)。また周囲に促されて保健室に向かう際も、まるでその眼はゾンビのように虚ろになって、声を発する余裕すらなく、無言のまま立ち去ってしまうのだ。この一連のシークエンスで明確なように、転校当初のみほにとって戦車道とは未だ重く圧し掛かるだけの、自身の動きを阻害し、封じるものでしかない。
 反対に、沙織や華と一緒に話す時には彼女の動きが大きく躍動していた(例えばみほが二人と喋りながら食堂で踊るように喜ぶ)ことは非常に重要である。何故なら、この時点から彼女たちがみほにとって自由に動き回るためのキーとなることの予兆が既に示されているからである。
 そして事実、沙織と華こそが後にみほが大胆に動くための環境を得る契機となるのだ。
 以下、更に詳しく見てみよう。角谷会長を筆頭とした生徒会の面々はみほを呼び出し、戦車道の履修を拒んだことを口々に責め立てる。この生徒会の面々に対し、沙織と華は、自分たちは戦車道を選びたかったはずなのに、みほを励ますかのように手を握りながら、怯えて黙り込んでしまっている彼女の代わりに弁護を行う。
そもそも、みほは戦車道が嫌いだった訳ではない。みほが避けているのは西住流戦車道であり、更に言えば、自分の心の赴くまま仲間一人すら助けることを許されないような、固定的に閉ざされた道の厳格さに他ならない。
 そして、仲間を助けるために声を上げる沙織と華は、戦車道に異を唱えるのではなく、やりたくないみほに固定的な道を押し付けることに反対している。
 だからこそ、ここにみほにとっての戦車道の転回が訪れる。そこで重要なのが、二人が行った代弁により、みほから発されるはずの声は自身の肉体という輪郭線を越え、異なる形に変形された輪郭線へと共有され、そこから発されたということだ。沙織と華の声は、一人の輪郭の内に閉ざされた空間を踏破する道(=余白)を切り拓いている。そのようにして沙織と華が切り拓いた新たな空間を得て一人の輪郭が三人の輪郭へと変形したことを契機に、みほの内に留まっていた声は溢れ出て、再び戦車道へとしかし西住流とは異なる形で戻ることを彼女は決意することが出来るようになるのだ。
 そこから第一話終盤、戦車前で振り向いたみほを捉えるカメラが高速で引いて行くと、いままで彼女たちが過ごしていた空間が学園艦という巨大な船の上だったことが明らかになる。これまでの検討を踏まえるなら、このシークエンスの重要性は明らかだ。 みほは、かつて畦道を走り、そして飛び回ったような大胆さを、西住流の名と責任と共に限定され続けてきた。その西住流から逃れる術は、戦車道自体を離れるということしか、みほには考え付かなかった。しかし、今やそうではない。みほはこれまで背負い続けて来た重圧に押し潰されていた声を共有してくれる友人たちを通じ、いま再び大胆に動き回れるような環境を得た。そして、みほの中にある道はその新たな空間(=余白)の踏破を開始する。即ち、「装甲も転輪も大丈夫そう。これでいけるかも」というみほ自身の声が彼女自身の姿から戦車、戦車から倉庫、倉庫から学園艦へと引いていくその超ロングショットには、これから大洗の皆で作り上げるだろう新たなみほ自身の戦車道が重ねられるはずである。このカメラの運動によって示される余白の広さという環境こそが、みほが再び在りし日の大胆さを発揮出来るようになるために得られた環境に他ならない。
 そして、そのような伸縮の余地を生む重要な役割を担ったのが、声と輪郭線の相互介入なのである。

(3)異なる次元の境界を渡る
こうして第一話では声が発されるための条件が描かれる訳だが、その点を踏まえてまず思い出したいのは、そもそもアニメのキャラクターが声を持たないということだ。我々に聴こえているのは、実際は声優に吹き替えられた声である。だが、それがキャラクターの発した声だと理解されるのは、キャラクターのイメージと声優により吹き替えられた声が共に与えられているからに他ならない。例えば、西住みほというキャラクターの声は西住みほというイメージと声優の渕上舞が揃うことではじめて機能するように。
 まず、西住みほの声が成立するために、声優(の渕上舞)が必要であることは、誰でも容易に想像がつく。何故なら、平面上に輪郭線で描かれたキャラクターには具体的な発声器官が存在していないことを知っているからだ。
 では、キャラクターのイメージのほうはどうか。
 そこで、例えば『ガールズ&パンツァー』が存在しなかった別の世界を想定してみれば良い。その世界で、もしたまたま渕上舞が「パンツァー・フォー!」という台詞を発したとしても、そもそも西住みほというイメージが存在しない以上、それが西住みほの声だと認知されることはあり得ない。そして、その反対に、冒頭で触れた通り、画面に発された声が画面内に現れて芝居を見せる少女のイメージとシンクロすることで己の宿るべき主を見出されるに至ってようやく、西住みほの声が成立するのである。
 即ち、キャラクターの声は、ある境界で区切られた、輪郭線で囲まれた器となるようなキャラクターのイメージを前提にして、その余白に声を吹き込む声優の身体という二つの輪郭線の境界(アフレコ方式で言えば、録音マイクを間に挟んだ声優と声を吹き込むべき映像が映し出されるスクリーンの隙間)を跨ぐことで動き出すのだ。
 そうした意味で、みほの声にならなかった声が、みほと沙織と華の三人が手を繋いで、隙間を跨いだより大きな輪郭線に共有されることでようやく外へ開かれて行ったことと、キャラクターの声が機能する条件は相同的なのである。
 そうして動き出した声を軸に、アニメ『ガールズ&パンツァー』シリーズはこれ以降、己を内に抑え込むのではなく、より開けた空間へ飛び出すような大胆さを是とする映像と音の特性を軸とした物語を展開して行く。視覚的に分かり易い例で言えば、大洗女子学園戦車道チームの面々が凝り固まった戦車のイメージへと囚われることなく、自分の好みにそれぞれの戦車を改造してしまうことが挙げられる。この大胆さは、戦車の起源が過去の第二次世界大戦の歴史にではなく、未だ余白である現在の彼女たちの戦車道にあることを示している。
 その大胆さを用いて大洗女子学園戦車道チームは、例えばサンダースの通信傍受による進路の先回り、アンツィオのデコイによる足止め、プラウダの大軍による包囲といった、自由な運動を抑圧しようとする様々な作戦を打ち破って行くのだ。
特にプラウダ戦では生徒会チームが自分たちだけで抱えていた (これまた門戸を閉じることである)廃校の危機という大きな秘密を他のチームメイトにも共有することで、ようやく重荷から解き放たれることになる。
 そして、隊長であるみほは、その重荷を引き受けつつも、活路を拓かなければならない必然性を、踊り(視覚)と歌(聴覚)に合わせてチームへと伝播することになる。
 この場面は、一人で戦いの起源を引き受ける必要などなく、より広い空間へ共有されるように運動が開かれる(それこそが戦車道である)という軸に貫かれていることを端的に示してくれるだろう。
 彼女たちが真にその重圧を共有する際に行うのが音に合わせて踊ることであるように、みほたち県立大洗女子学園戦車道チームの快進撃は音が新たな空間へと切り拓かれて行くことの追求と並行していたのだと捉えられるのだ。

2.コマとコマの間を越えて

(1)声優:コマに合わせすぎる不自由さ
 そうして声優とキャラクターの境界を越えた新たな基盤を得て成立したキャラクターの声は、更に別の境界も跨いで越えて行く。それは、コマとコマの間だ。
 そもそもアニメの画面はコマの連続であり、実際はコマとコマには間が存在している。しかし、その間を渡るように、声は各コマを貫いて踏破する。つまり、映像(視覚)と声(聴覚)の間には、必然的にズレが介在してしまうのである。
 その際、日本で主にアニメと呼ばれる三コマ打ちの作画を基本とした作品では、映像と音声がズレて違和感を覚えさせないように、コマ毎の口パクにきっちり収まるよう演技をする高度な技術を必要とし、事実、声優はそうしたスキルを習得している。
 しかし、ここで実は声優の技術力が高いことが問題になる場合がある。声優があまりにきっちりとコマにハマるように演技をし過ぎると、例えば会話の間が次第にアニメで主に使用される六、九、十二コマという間ばかりになってしまい、本来の会話にある多様性が失われてしまう可能性があるのだ。例えば、この問題に対して実際に言及をし続けているアニメ監督の松尾衡は、そうした多様性の喪失を避けることを目的の一つとして、日本のアニメで一般的に使用されるアフレコではなく、プレスコを採用している。 それは、この多様性の確保をスタッフだけの能力に頼るのではなく制作過程において実現するためだ。確かに、松尾が危惧するように、音が画面にただ追従するようにせせこましく窮屈に押し込められた演技になることは決して良くない。例えば、余韻を残すなどのために、台詞の言葉尻を次のカットに溢す演出をしたい際は、そのオーダーに対して大胆に対応して貰う必要があり、きっちりカットに収める演技しか出来ない場合では困るためだ。そのような演出のオーダーを理解し、臨機応変に対応することも声優に求められる能力である。ここには、声優と演出という制作過程における課題が露呈しているのだと言えよう。

(2)キャラクター:コマ間の臨機応変を映像内で実現する
 そうしたアニメ制作における課題こそが、みほ率いる県立大洗女子学園と彼女がかつて在籍していた黒森峰女学院の決勝で描かれている。
 そこで、大洗と黒森峰の試合展開を順に追ってみよう。

 

(以下略)

------------------

 

以後、2(2)が続いたのち、

 

3.複数の声が共存する輪郭線へ
(1)劇場版における定石と臨機応変
(2)リズムと共に再生される「らしい」戦い
(3)輪郭線と輪郭線の間

4.おわりに

 

で論はしめられます。

 

なお、橡の花さんとヒグチさんからのコメント(とリプライ)については、以下の通りです。

 

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以上

PRANK! Vol.3 Side-B 水島努評論集 『おお振り』論 #C90

夏コミC90です。弊誌アニメクリティーク刊行会は3日目の東ポ15で配置されています。こちらについては別途リンク先の詳細を参照ください。試し読みもありますので是非。

 

さて、以下告知。

今夏は、いつものFani通( @fanitu )さんのところでほんの少しだけ評点をつけさせていただいたことに加え、久々にご近所の羽海野渉( @WataruUmino )さんのところで、水島努監督作『おおきく振りかぶって』についての寄稿をさせていただきました。

wataruumino.hatenablog.jp

 

以下、内容紹介+冒頭公開+目次紹介です。

 

 

 

1、内容紹介

 

取り上げた対象作品は、ひぐちアサ原作・水島努監督作品『おおきく振りかぶって』です。

原作は野球漫画として珠玉の出来でありつつ、アニメ化に際して(漫画からの単なる引き写しではなく)巧みな翻案がなされた本作について、微力ながら整理を施させて頂きました。

本稿のモチーフはある意味では単純で「プレイヤーでも監督でもない、外野席の一観客として目の前にある運動(作品)を「みる」とはどのようなことか?」というものです。

事前にご相談に乗っていただいたねりま( @AmberFeb201 )さんからは、「作品論であるにとどまらず、スポーツ論/スポーツ観戦論でもあり、『おおきく振りかぶって』という作品のみならずアニメ/スポーツを視る、という経験をアップデートする、そういう論考」と、身にあまる要約をいただき、とても感謝しております次第です。

詳しくは、下記ねりまさんの『おおふり』記事にて。

amberfeb.hatenablog.com

 

いつもながらの丁寧な仕事で、私の寄稿文いらないんじゃないかと思うほどですが、是非両方見ていただけたら幸いです。特に、夏コミのある8/12-8/14は折よく甲子園の最中ですし、ぜひ本稿とともに「野球(運動/ゲーム)を見ること」についてご一考くださいましたら、筆者としては大変嬉しい限りです。

今回の原稿は、ねりまさんに加え、橡の花 @totinohanaさんやtacker10@tackerx )さん、すぱんくtheはにー@SpANK888さんにもご意見をいただきつつ、楽しく筆を進めさせて頂きました。機会をいただいた(+遅筆に寛大なご処置をくださった)編集の羽海野渉さんを含め、皆様に厚く御礼申し上げます。

 

以下冒頭抜粋+目次紹介です。

 

 

2、冒頭抜粋

 

 

0. 0'00"00 よき観客(spectator)とは何か?

 

(1)運動の芸術

 

第一話アバン。

ボールは綺麗に宙を二つに割って緩慢に上がり、落ちたボールの映像は長く止まる。絶え間なく動いている(はずの)ゲーム中の奇妙な間を経て、フレーム外から訪れる気怠げな足音とともに、ボールは遅延させられた送球でピッチャー・三橋の下に戻ってくる。戻ってくるショットだけは唐突だ。ぶつけないように声がけだけはされているが、三橋が振り返った時にはボールはもう目の前だ。切り返しなしでただ一人、ピッチャーだけが画面中央に残される。

鋭くピッチャーを眼差す内野、憮然とした表情でミットを外す外野、そしていつまで経ってもサインを出さない捕手。”彼ら”はおそらく、ピッチャーの「正確」なピッチングに慣れきってしまっている。「正確さ」に肉薄するために、三橋がどれだけ困難な過程(プロセス)を経てきたかも知ることなく。

しかし、「正確」なだけではまだ野球(ゲーム)にはならない。その意味で三橋はまだ野球(ゲーム)に参加していない。ただの「正確さ」は、相対する者との間の運動の可能性を減らしてしまうものだからだ。

だからこそここに、”彼ら”と対照的に、息遣い荒く視線を彷徨わせるピッチャーの逃げ場のなさが見て取れる。そうして読み合いなしに放られた球は、再度正確に宙を二つに割って、映像はフェードアウトする。かくして、フレームの間に滞留する、緩慢さと性急さが折り重ねられたリズムの不安定さに、まず冒頭で視聴者は酔うことになるだろう。

アバン終了。

・・・

水島監督自身が絵コンテ・演出を手がけるこの三橋の中学生時代の回想シーンは、実は原作にはない、アニメ版『おおきく振りかぶって』にとって象徴的なシーンである。原作自体(複数の受賞理由に現れているように)、繊細な描写とともに競技としての野球を厳密に追求していることが高く評価されているところ、水島監督もまた、その緻密な競技性をアニメにする段において、その後の作品を予感させる方法論を本作にいかんなく導入している。その一つは、画面を緻密に配置することによって現れる重なり合ったリズム(polyrhythm)と偶然性(indeterminacy)のモチーフである(※1 例えば、アバンを経たBパートにおいては、三橋が西浦高校で会話ができること、声がけができることへと至る、リズムの調和(同期・回復)へと至る流れが明示されている。棒球(厳密にはナチュラルスライダーの亜種)と変化球を織り交ぜたテンポの良い投球の組み立てとその乗り越え。本作が最終的に至るのは、リズムの同期/ズレではなく、リズムの重なり合いである。第一話にはこの運動に参加する者たちの折り重ねられた視線交錯が既に予告されている。)。

本稿ではこの点を、同じく水島監督が脚本の筆をとった第1期第23話から、

①「ゲンミツに」(※2 第23話サブタイトル)、

②「5割(の意味)」(※3 西浦高校・栄口のセリフ「今日はこれで4打席バント。1回失敗してっからここで上げたら成功率5割だ。5割じゃ、バントの意味ねぇ!怖がんな!」)、

③「奇跡(の不在)」(※4 桐青高校のピッチャー・高瀬のセリフ「見ているほうはミラクルだなんだってはやすけど、あんなのやられてるほうが崩れているだけだ」)

という3つの語を借りつつ、3節に分けて掘り下げていく。

(2)「新設チームの快挙」といった物語(spectacle)ではなく

(以下略)

 

つかみの箇所だけで字数を食ってしまいましたので、そのあとの展開は本誌にて。

内容は下記の目次の通りです。

 

 

3、目次紹介

 

0. 0'00"00 よき観客(spectator)とは何か?

(1)運動の芸術(Art of Movement)

(2)「新設チームの快挙」といった物語(spectacle)ではなく
 (a)第1期 第1−12話
 (b)第1期 第13−25話
 (c)第2期 夏大美丞戦

(3)運動の批評(Critique of Movement)

1. score 野球アニメにおける「ゲンミツさ」とは何か?

(1)起こりそうなリアリティから「ゲンミツな」運動のリアルへ

(2)意味のあるデータ/意味の無いデータ

2. play 「5割」のブレ

(1)からだを他人のからだのように

(2)即興に抗する身体

3. time 「奇跡(ミラクル)」の価値は?

(1)重なりあう音と声

(2)偶然性を設計する

4. 0'00"00 No.2 批評もまた始まる

 

 

以上