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書肆短評

本と映像の短評・思考素材置き場

2016/01/29 ガラこわ 生コメンタリーの様子(なんとなくver.)

『ガラスの花と壊す世界』、2016/01/29(Fri)生オーディオコメンタリー(コメンタリー担当:石原P(ポニーキャニオン)、加藤P(A-1)、石浜監督、横山音楽担当)の様子をなんとなくメモ起こししてみました。

 

 


#冒頭 A.D.21c 日本-多摩地区

ピアノ曲難易度はかなり調整
背景キレイめに-望遠なのに尻アップ-
シリアスシーンの音楽の難しさ
爆発エフェクト止めはデータ世界で起こってるんだよ、と言う描写


#第二階層 戦闘①

背景ぼかしと遠近の無効果(背景の人におこられた)
フラクタル=スケール感が出せない難しさ
アンチウィルスプログラムの競合(デッドロック)を活かした描写
カントクさんの絵は健康的な感じなんだけど、今見てみるとかなりきわどい
芝生や家がどんどん成長=創造されていく感じ
ドロシーのカットのきわどさ(股や脇など)


#第一階層 家-三鷹喫茶店-ビル屋上

空間の音響効果の特殊性-切れ目なく続く音
大きさがない世界の象徴としてのフラクタル
うxいるすのわかりやすい禍々しさ-色彩(黒-白-赤)
喫茶店の会話は監督の演出シーン(配置間違えて怒られた?)
髪なびきシーンのこだわり


#家-Backup Data旅行 感情獲得

鼻歌の演出(録音?)の難しさ
リモに母親っぽい感じを出したかった感
デュアルの感情獲得(?)
とはいえピアノシーンにおける苦しみのわからなさ-戸惑い(涙なし)のギャップ
目が光る描写:検索エンジン
ドロシーのアクション入れは意図的、ドロシーの照れ獲得
キャラソン①の挿入(声優さんがうまいので作曲的に助かった)
シリアスシーンの突然の挿入、自然描写への移行(人間でいえば5年くらいの経験?)
キャラソン②の挿入(デュアルなので浮くように歌ってほしいという要望)
女子会感


#ドロシー回想-第二階層戦闘②

武器-ペンの意味
アンチウィルスプログラムの競合(デッドロック)描写②
空間の硬さ-足音

#家 リモ覚醒
謎解き音楽-フェーズ
リモおでこのマークはマアープレゼン画面と一緒
衣装の変化はupdateごとに大きくは3つ(6種類)(「夜」は一回しか訪れてない)
覚醒の音楽(実は結構難しい)
処理速度の限界をこえたものの、viosのおかげでなんとかなった形


#第0階層 戦闘③

カントクさんの元々の絵っぽい世界
プログラムmotherの暴走
最後の人間の居場所はコロニー(炎色の特殊性でわかる?)
最後の攻撃(階層破壊)は偶然のウィルス攻撃(リモじゃないよ)
第0階層の大きさは不明、やや小さい?
デュアルとvios(=スミレ)の邂逅シーン
アンチウィルスプログラムの競合(デッドロック)の解除描写(額を打ち合わせるシーン)


#リモ消滅

強制フォーマット描写としての身体の融解
ヒューリスティックエンジンとしてのデュアル-ドロシーの設定明かし
3匹の鶴、3人のつながり(+3世代の関係回復も?)
ドロシー、涙の獲得
motherモードとリモ、両方をつなぐ関係の明示
リモのデータの浮遊
「これが夢見るってことなんだね」


#エンドロール 黒

主題歌のintroようやく登場
キャラクター名義ではない主題歌の意味(人間への?成長を感じさせるもの)
大人の事情+やっぱ音だけで背景ない方がいいよね


#質疑

Q.) 花を返すシーン、すみれのback−upからとったもの?
A.) そう。おばあちゃんのデータと知らず、とってしまったし、その出会いのために本編があった。

Q.) リモーネ、スミレ、ダイアナの三人が最後一緒だったわけだが、それは修復とみていいのか。
A.) そう。かみ合わなかった関係の修復とみてよい。

 

...

と、ここまで来て追記しようとしたら、他の人がとても詳しいものをあげていたことに気づいたので(どうやってこれを一度で聞き取れたのかというレベルの精密さです。)、こちらを合わせて参照いただければ、正確性はより高まるものと思います。

 

  

文フリ振り返り(1):ヒグチさんの『多重要塞 第四号』「日常系とは何か」 #bunfree

思えば文フリも昨年の秋で、もはや二ヶ月前。その後も冬コミだなんだと色々あって、どうにもまとめられていなかったので、ぼちぼち読み返している次第です。

今回はヒグチさんの『多重要塞 第四号』掲載「日常系とは何か〜死者の目・生を相対化するまなざし〜」を読み直しましたので、以下その感想。

 

・雑感

まずヒグチさんの文は(最新の「日常系とは何か」も、アニクリに寄稿いただいた『SHIROBAKO』論「キャラクターの生まれる渚」もそうですが)いずれも問題設定がクリアで読者を迷わせるところがなく、かつ、次ページをめくらせる動因を与える躍動感がとても好みです。クリアと言っても作品の要素をそぎ落としてるわけではなくて、作品のどこに着目してるのかが読者の手に取れるような感じで、動線がはっきりしているといったほうがいいかも。

 

・例示:『ほしのこえ

ということで「日常系とは何か」に戻って。

そこでは、日常系の系譜を1930年代の戯曲『わが町』や映画『ロープ』から現代の漫画・アニメまでをつなぎ合わせた上で、「死者の目線」という一つのテーマに引きつけて論じています。特に新海誠ほしのこえ』のところへの接続と言語化が非常に巧みだと感じました。以下はそこに主眼を当てて取りまとめさせていただきます。

おさらいですが、『ほしのこえ』では、同級生のノボルとミカコは異生命体との交戦の中、(半ば自らの意思で、半ばはそうではなく)宇宙と地上とに引き裂かれます。彼らは恋人というわけではないのですが、互いがともに過ごした時間を懐かしみつつ、互いにメールを送りあいます(途中から途絶)。末尾の場面ではミカコからのメールが銀河間をまたぐことで8年という時差を伴って、さらにはノイズで部分的なものに留まりつつも、未来のノボルの下に届きます。

これを受けてのモノローグの場面が、本作において傑出した箇所です。彼らは、互いの時間や場所は遠く隔たりつつも、彼らは同じ言葉で同じ「ここ」という場所を指し示します。いつかの、そして遠くどこかの〈彼方〉に隔たった彼らのモノローグが「ここ」という言葉において重なり合う。互いに独立でありながら「同じ言葉」で重ねられていくそのモノローグは、以下のような形で進行していきます。

 

---(引用)

ノボル「ミカコからのメールは2行だけで 後はノイズだけだった。でも、これだけでも……奇跡みたいなものだと思う」
ノボル「ねえミカコ、俺はね」
ミカコ「私はね、ノボルくん。懐かしいものがたくさんあるんだ。ここにはなにもないんだもん。例えばね」
ノボル「例えば、夏の雲とか、冷たい雨とか、秋の風の匂いとか」
ミカコ「傘に当たる雨の音とか、春の土の柔らかさとか、夜中のコンビニの安心する感じとか」
ノボル「それからね、放課後のひんやりとした空気とか」
ミカコ「黒板消しの匂いとか」
ノボル「夜中のトラックの遠い音とか」
ミカコ「夕立のアスファルトの匂いとか…。ノボルくん、そういうものをね、私はずっと」
ノボル「ぼくはずっと、ミカコと一緒に感じていたいって思っていたよ」

---(引用了)

彼らのモノローグは重なりこそすれ、決して互いに交わること(ダイアローグになること)はありません。それは、時差が示す通りに同じ時に発せられたものではないからです。そして、同じ場所としての「ここ」で発されたものでもありません。それは片や銀河の彼方のアガルタに飛んだものの「ここ」であり、片や日本の片隅に遺されたものの「ここ」であるためです。言い換えれば、片や15歳という現在にとどまり続けるミカコの「いま」であり、片や24歳という未来において過去の亡霊のようなミカコのメールを受け取るノボルの「いま」であるためです。
しかし、彼らは15歳という時間から互いに取り残されつつも、彼らは「いま」「ここ」にいると言葉を重ねることができます。それは、ノイズや距離という瑕疵があるからこそ見える、どこでもない「いま」と「ここ」のことを指すはずです。単なる郷愁に還元されることのない、かつて過ごしたかさえ定かではない「いま」を、ミカコとノボルは「いま」と名指すからです。

 

---(引用)

ミカコ「ねえ、ノボルくん?わたしたちは遠く遠く、すごくすごーく遠く離れているけど」
ノボル「でも想いが、時間や距離を越える事だって、あるかもしれない」
ミカコ「ノボルくんはそういうふうに思ったことはない?」
ノボル「もし、一瞬でもそういうことがあるなら、ぼくは何を想うだろう。ミカコは、何を想うだろう」
ミカコ「ね?私たちの想うことはきっとひとつ」
ミカコ「ねえ、ノボルくん?」
ミカコ「わたしはここにいるよ。」
ノボル「    ここにいるよ。」

---(引用了)

ヒグチさんの論考は、『ほしのこえ』のこの語りを「現在だけが連続的に積み重なったような立体的な感覚」「死者/宇宙人/未来人的な、時間と空間を「いま」と「ここ」の連続体として感覚するような視点への到達」として、日常系を先取りする視点として取り出します。その要点は、生者が見た出来事の先後や重み付けを持った臨場的な視点から遠のく「死者の目線」です。この主題は、後の『GJ部』『けいおん!』といった日常系において発展させられ、出来事(イベント)の濃淡を持たない無名的で相対化された視点であり、かつ、終わりが定まった期間を振り返ることが最初から内在化された視点として結実する、と変じていくことになる。このようにヒグチさんの論は進んでいきます(※詳細は『GJ部』以降のアニメ作品分析のところを参照)。

やや拙速かもですが、「日常系作品が(視聴者というよりも)キャラクターが見ている過ぎ去った過去としての風景として見られる時、初めて切れ目のない長回しや他愛もない風景描写に寄る画面の意味が明らかになる」、このようにヒグチさんの論を要約できるかもしれません。あるいは視聴者側に寄せて言えば、決して経験としては触れることのできない音と映像の「私的」な重なり(キャラクターに見られることで現前する空間)に、臨死的な視聴とともに接近することは許されている、とも。

蛇足ですが、ある意味では、このヒグチさんの主題はまさに『ほしのこえ』(ノベライズ版)において、過ぎ去ったものとして呼び起こされる冒頭の場面を思い起こすことでこそ明らかになるかもしれません。そこでは電車に乗ったミカコが次のように独白していたからです。「私は電車に乗っていた。乗客席と運転席を隔てる壁にもたれて、後ろ向きに立って、すごいスピードで流れ去っていく景色を自動ドアのガラス越しに眺めていた。でも本当はすごいスピードで流れ去っているのは景色ではなく、電車に乗った私の方だ。そう思った瞬間、なんだか追い立てられたような慌てたような気分になって、無意識に携帯電話を取り出していた」。ここには、まさに生者が死者になる経過をふと思い起こしてしまう瞬間と、その瞬間をつなぎとめるガジェット(メディア)としての携帯電話が現れています。実際には「サービスエリア外です」というよく見知った文字列とともに、ミカコはその瞬間をつなぎとめることはできませんが、これもまた遍在化した「死者の目」の先取りのように思えた次第です。

以上に加え、ヒグチさんの論考がさらに読ませるものになっているのは、このような作品の取り出しにとどまらず、表現論として上記の「死者の目線」を取り出すところに眼目があるものと思います。上記のような視点が、カットの長回し(あえて切り出すべき出来事を持たせないカット)や、出来事としてわざわざ取り出すにはあまりにも瑣末な事物への「寄り」であったりする描写の切り出しにも表れていることをヒグチさんは追っていきますが、この点も、日常系が概して社会状況的な論じられ方やストーリー的な特徴とともに語られるのとは異なり、作品内在的な丁寧な論考に仕上がっていると思いました。

 

※ 2016/1/22追記(1):この記事について、たかひろさん(@kenkyukan)から「(一つの筋としてはありうるものの)セカイ系と日常系のつながりを前提とする論の運びはどうか?」という趣旨の疑問をいただきました。本来一読者にすぎない私がヒグチさんを代弁できるわけではないのですが、せめてもと思い、読み取った限りで若干の情報追加とさせていただきます。

冒頭で述べたように、ヒグチさんの論のうち『ほしのこえ』に議論を集中させたのは私であり、ヒグチさんの論として「セカイ系から日常系へ」というスローガンがたてられているというわけではありません(この点、やや絞りすぎた抜粋のために議論の混乱を招いてしまい、大変申し訳ありません)。ヒグチさんの論は戯曲・映画・漫画・アニメにまたがる共通項として「死者の目」というキーワードを設定し、そこから遡る形で「あたかも『ほしのこえ』が日常系作品として読めるとすればどのような形でか?」という筋が採用されているものと思います(p.39上段を参照)。

たかひろさんからは、「(『ほしのこえ』を起源として日常系の系譜を見るとすれば)アフターストーリーorアナザーストーリーの形が考えられる」というご提案をいただいており、これ自体は一つの見方として至極もっともと思うところであります。一方で、おそらくヒグチさんの記述の趣旨としては、日常系の系譜は(いわゆる「中間項=社会の不在」というセカイ系作品の規定にとらわれず、)価値相対的・無時間的・人間外的といったいわば「人間(生者)の不在」というより一般的で包括的なジャンルとして捉えられているように読み取った次第です。そして、ヒグチさんの文章で(そして私のまとめで)、『ほしのこえ』を「セカイ系」として名指していない理由はおそらくそこにあるものと思います。

では、このようなたかひろさんとヒグチさんの両立する妥当な二つの見方の間でどのような違いが生じるでしょうか。①たかひろさんの「アフターストーリーorアナザーストーリー」という見方をとる場合には、あくまでも作品外的で二次創作的な付け足しとして日常系が付加されることになります。これに対して、②ヒグチさんの場合には、不在の者(死者)の目線がもともとの作品に内在した形で提示されていることになります。つまり、「作品外」というファクターを、①まさに新たな創作として作品外で追加するのか、それとも、②既に作品内に折りたたまれたものとして提示するのか、という作品の位置付けの違いとして、二つの見方の違いは現れるように思います。

実際、ヒグチさんの論の『GJ部』『ゆゆ式』『けいおん!』分析においては、既に日常パートそれ自体において既に懐古的な儚さや淡い憧憬が画面に入り込んできており、それゆえにこそ何気ない日常の瞬間瞬間の輝きが際立つ、という分析がなされています。日常系の風景は(視聴者というより)キャラクターによって見られた、一度たりとも現前はしたことはなく、そしてもはや遠く離れてしまった「いま」「ここ」として、言い換えれば「仮想的に死ぬ」刹那にわずかに触れることが叶うかもしれないようなものとして、その離接感と共に提示されているものと、私の方では読み取っている次第です。

完全な蛇足でしたが、2016/1/22追記(1)は以上です。

※ 2016/1/22追記(2):この記事について 、さらに橡の花さん(@totinohana)からもう一つ鋭い球が来てましたが、今しばらく少し保留とさせてください。(私の無知と勘の悪さゆえに、「過去」のobject(化)のどこに着眼したものか正確に把握できていないためです。デカルト以前/以後における「主観/客観」概念の転換のことかしら? そうじゃなくてカントの超越論性とか物自体とかのアレ? いやはたまたセールとかこの頃のSR系の議論とか? などなど色々迷ってしまって結果わからずという次第。もしよろしければ、橡の花さん、ヒントをいただけましたら幸いです。)

 

・終わりに

思い出せば、ヒグチさんが寄稿してくださったアニクリ3.0での特集(2)「アニメにおける〈音〉」における『SHIROBAKO』論も、映像・音響演出を介して視聴者とキャラクターの隔たりを肥えさせるような表現手法に着目していたわけで、なるほど日常系としてまとめるとこう言う風になるのかと膝を打っていた次第です。また、今思い返せば、この日常系論は同vol.3.0の特集(1)「蟲・生物・人工物」や同2.0での特集「〈彼方〉の思考」とも響き合うものだし、さらには同4.0での特集における史観・慰霊の問題にも通じるところがあるものと考えておる次第です。

次号『アニクリvol.1.0』では「時間(歴史/世代)」をサブテーマに岡田麿里作品の2012−2016まとめを行う予定ですし、『アニメクリティークvol.5.0』では【(原作)アニメ化】のプロセスから作品を見てみてはどうかという意見をいただいており(SpANK888さん感謝です!)、積み残してきた「日常・萌え・不条理ギャグ」をテーマ案として立てることを検討していることもあって、編集側としてもぐっとくるものがあった良論考でした。

※そういえば昨年の作品で言えば、『がっこうぐらし!』をヒグチさんがどう見たのかとかは、また機会を設けて伺いたい所存です。

 

短いですが、良評論を読ませていただき、大変ありがとうございました。

次回は未定ですが、『Life is like a Melody ―麻枝准トリビュート - 死んだセカイ戦線』雑感を予定。

告知:アニクリ新刊『vol.4.5_β ガールズ&パンツァー 特集号』の発刊予定について #C90 #anime_critique

告知記事、下記に移動しました。

 

nag-nay.hatenablog.com

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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こちらはまだ構想段階ですが、先んじて告知させていただきます。

 

夏コミの応募に向け、この度、新たに新刊『アニメクリティーク vol.4.5_β ガールズ&パンツァー +α 特集号』を作成する予定です(→ガルパン記事についてはこちら)。

この付番でわかるように、『vol.4.0 戦争とアイドル/境界線上の〈身体〉』の「戦争と〈身体〉」パートを引き継ぐものです。(同「アイドルと〈身体〉」パートにつきましては、2016年秋文フリの『vol.4.5 資本と偶像(仮)』で新刊を予定しています。詳しくはアニクリ総合ページにて。)

表紙は、『vol.4.0』『vol.2.5』でおなじみのコンカツマン先生にお頼みしてあります。絵柄はリンク先にて。

 

さて対象作品ですが、第一部ではガルパンを中心としていますが、第二部ではそれに限らず、「戦争と〈身体〉パート」の拡充をなしうる作品選定を行いたいと考えています。

第二部の一案としては、@tacker10 さんや @SpANK888 さんにご寄稿いただいた論考を引き継ぐ形で、フルCGアニメの勃興などを受けての作画工程に焦点を当てた対象作品選定、あるいは(所謂)「作画アニメ」などへの注目を背景として作品カテゴリー別の対象作品選定、などを行うことも検討しています。

こちらはご意見募集中ですので、どうぞ忌憚なきご意見よろしくお願い致します。

アニメクリティーク vol.1.5_β「心が叫びたがってるんだ。」の事後諸々 ♯anime_critique ♯ここさけ

冬コミでは新刊vol.1.5_β ここさけ特集号は、ほぼ完売となりました。お手に取っていただいた皆様には大変お世話になりました。どうぞ忌憚のないご意見、どうぞ宜しくお願い致します。

「入手できなかったよ!」という方については、COMIC ZIN様のアニメクリティークページにて通信販売をやっていただいております。移転した秋葉原の店頭または新宿の店頭にもあるかもしれませんので、こちらでもどうぞよろしくお願い致します。

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さて今日の話は、wakさんこと 超成瀬順を性的な視線で見る奴バスターズさん にご寄稿いただいた内容紹介と、事後のつぶやきについてです。

(「超成瀬順を性的な視線で見る奴バスターズ」という文字列は非常に共感する名前ではあるのですが、以下では諸々の便宜のため「wakさん」に統一させてください。)

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1、アニメクリティーク vol.1.5_βのwakさんの評論について

 

wakさんにご寄稿いただいた評論は、本人がおそらく20回ほどの劇場での鑑賞を経て書かれたものであることを如実に示すような、丁寧かつ作品への(あるいは成瀬順への)愛情に溢れた評論となっています。全体は三部構成となっており、構成は以下のとおりとなっております。

 [ wak評論 構成 ]

 ・1、はじめに
 ・2、ミュージカルを作り上げるまで
 ・3、ミュージカルの先へ
  (1)逆転1 虚構から現実への反映
  (2)逆転2 罵倒する側にまわる成瀬順
  (3)虚構と現実、二つの和解

 

冒頭「1、はじめに」では、総特集号の巻頭にふさわしく、本作を見開き1頁で的確に要約いただいています。その上で、同評論の関心が「成瀬順の幻想が反映されたミュージカルと、ミュージカルの筋書きが反映された地域ふれあい交流会当日の展開」にあることが確認されています。

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察しのよい読者であればここで気づくように、次の「2、ミュージカルを作り上げるまで」では、言葉を失った少女・成瀬順の過去・妄想・願望がいかにミュージカルへと反映されていったのかという過程が、丁寧に追われていきます。第一幕から第五までは喋れなくなった成瀬順ができあがるまでの過去(や現在まで続く成瀬順の"覗き癖"のような傾向性など)を示しているものとして整理され、第六から第七前半までが現在まさに進行中の「みんな」でミュージカルを作り上げるリアルタイム過程が反映されたものとして整理されています。

この突合せは、まさにストーリーを書いている成瀬順目線から見たものとしてはまさにそのとおりであると思います。というのも、成瀬順が家から飛び出し、バスの中で「私の言葉を歌にしてください」というメールとともに坂上に送ったミュージカルのストーリーは、まさに第一幕から第五幕までの尻切れトンボのものであったからです。クラスで初めてまともに口をきいてくれて「歌なら気持ちが伝わるんじゃ」という言葉をくれた「王子」・坂上にならば、自らの過去を一緒にミュージカルにしてくれるように頼むことができるし、言葉を歌に乗せることのできる 「すごい坂上くん」=「王子」の助けを借りることができれば「玉子」の呪いを解くことができるかもしれない。そう、成瀬順は考えたはずです。

実際このことを示すかのように、上記箇所までの段階では未了であった第六幕以降は「この先はまだ…」との言葉どおり、その後の坂上の曲当てや田崎・周囲のみんなとの交流・和解の中で作り上げていったものとして書き足されていきます。第六幕〜第七幕前半までは、まさに現実の「みんな」とのミュージカル創作の中で、同時並行で作り上げられていったものなのです。

  ・・・

以上のことを確認した上で、「3、ミュージカルの先」では、そのような流れがことごとく逆転させられる様子が緻密に追われていきます。最初の(1)虚構から現実への反転 では、現実を成瀬順の願望によって色付けるかのようにミュージカルを作り上げてきたストーリー(成瀬順の願望>現実)が逆転し、ミュージカルのストーリーを坂上がトレースするかのように秩父市内を奔走する筋(現実>成瀬順の願望)へと転換されます。これは、前日の「俺は別に成瀬のこと、そんな風に思ってない」との言葉を盗み聞きしてしまったことを契機として、「王子」・坂上に対する願望どおりのストーリーが頓挫してしまったことで、その現実をミュージカルによって塗り替えることができなくなったためであると考えられます。

この箇所でwakさんが「「夢見がちな引きこもり体質の少女がクラスメイトと頑張ってミュージカルを演じきることで自分の殻を破って成長する」というテーマなら、クラスのみんなで『青春の向う脛』を無事に上演すれば目的を果たせるはずです。でも、そうならなかったのは何故か?」という問題提起をしているのはまさに蒙を開かれる感じがしました。wakさんの整理を敷衍すれば、成瀬順が自分の気持ちを伝えたい相手は「王子」・坂上なのだけれど、ミュージカルを介して気持ちを伝える相手は「みんな」に拡大しているというギャップのために、成瀬順は「王子(偽)」・坂上との何らかの折り合いをつけることなしにはミュージカルに戻れない、というジレンマに遅まきながらも直面せざるを得なくなった、という風にパラフレーズできるかもしれません。

次の(2)罵倒する側にまわる成瀬順 では、全てを放り出したことで「みんな」から罵倒されるはずだった成瀬順が、やや唐突ながら罵倒する側にまわったことの意味が検討されることになります。その直前で成瀬順は、第三幕に重ねる形で「みんな燃えちゃえばいい!!」と叫んでいました。その劇と現実のシンクロニティは、第一には「みんな」の舞台が燃えちゃえばいい(それによって私を罪人にしてくれ!)という含みをもつとともに、第二には坂上も「私の王子様」ではなく「みんな」の一員にすぎないという糾弾の意味をもあわせもつものと思われます。

wakさんは罵倒シーンについて、「少女の精神世界の廃墟の中で、好きな相手と二人だけになり、本当の言葉を相手にぶつける…私にはこれが根源的なコミュニケーションを描いているように感じ、成瀬順の罵倒を受けてとても昂揚してしまいました」と書かれています。この記述は、罵倒シーンを介するまでは「王子(偽)」・坂上を遠ざける趣旨であったことを示す点に眼目があるものと思われます。成瀬順は罵倒シーン前においては、理想の「王子様」に適合するかしないかを判断できる特権的な地位を手放しておらず、罵倒シーンによって理想の「王子様」という理想自体に別れを告げるに至るという流れが、上記の簡潔な一文には込められているのではないかと読み取った次第です。その後、成瀬順がミュージカルに復帰した後でも、「少女」という「王子」と対になる存在ではなくその裏にある「心の声」役として、「少女」の影でなく別の姿をとって現れる理由は、ここに求められるでしょう。

最後に(3)虚構と現実、二つの和解 では、「少女」の役割を脱した成瀬順が「心の声」としてミュージカルに復帰することと、母親らを含む「みんな」と坂上、二者との新たな和解が虚構と現実の双方で達成されたことで、彼女の『青春の向う脛』が本当の終わりを迎えたことが確認されます。現実の反映である虚構、虚構の反映である現実、それらを超え出る和解の契機を経ることで、幼少期の終わりと青春の痛みを抱えつつも「思ったより綺麗」な世界へと飛翔する。そのような希望を描き切った物語として、また劇中劇と作品とが呼応し合う稀有な作品として、本作があったと総括されることになります。

  ・・・

  ・・・

と、このようにwakさんの議論は作品内容と作品構造に定位しつつ場面転換を丁寧に追い、wakさん自身が心揺さぶられた箇所を深堀りすることで作品の核を見出すという、読者にその情熱を伝播する良随筆になっています。編集の私にとって残った若干の疑問としては、その議論で引用されなかった場面・幕があるということに関わっています。その引用されなかった場面とは、第七幕の後半から最終幕にかけての箇所です。引用すると、「その時、少女の目から涙がこぼれ落ちました。少女の涙は大地に沁み渡り、それが芽吹き、花が咲き、鳥が飛んできて、少女の閉じ込めていた想いを、花や鳥たちが代わりに歌います。心を叫んでごらん、こわがらずに大きな声で、あなただけの言葉が、この世界を輝かせるよ。少女の本当の気持ちを知った人々は少女の罪を許しました。そして世界が少女に向かって歌い出したのです」。

この箇所は非常に重要に思えましたので、アニメクリティークvol.1.5_βの目次ページにあえて引用しておきました。また第七幕の後半を形作ることになったエピソードもまた、裏表紙に引用することで補足とさせていただきました。上記のエピソードは、「王子」・坂上の両親の離別の悲しみ(忘失)を前にした成瀬順が「少女は王子に、どんな言葉をあげられる?」と自問するとともに、悲劇をハッピーエンドに変更することを提案した箇所です。

この箇所は場面的には離れた罵倒シーンにも、かなりクリティカルに関わっています。成瀬順というのは自罰感情に駆られるその性格ゆえに、自分をミュージカルという上辺に寄せることでしか自分を表現できなかった存在です。そんな成瀬順は、坂上の両親との確執を垣間見たことで、ある種短絡的に、「王子」がくれたような優しい言葉を返してあげれば「王子」も救われるんじゃないか、と短絡的に思ったのではないかと思われるためです。

上記のような成瀬順の気持ちが間違っているというわけではありません。そういう「優しい」言葉というのが成瀬をかつて救ってくれた「王子」の言葉でもあるからです。しかし「優しい」だけの言葉は「卑怯者」のセリフに他ならず、「思わせぶり」な言葉は「いいかっこしい」の現れかもしれない。それらをただ与える坂上を、成瀬順はのちの罵倒シーンで糾弾していました。翻って、その罵倒の言葉は、まさに、成瀬順が変えようとしたハッピーエンドのご都合主義的ストーリーそのものへもブーメランとして返ってくるはずです。ただ「優しい」だけの思いというのは、人を傷つける「一番タチの悪い!」ものでしかない。そのことを、罵倒シーンは、成瀬の口を介して、成瀬自身と坂上とに、ともに言い聞かせるものであったと言えるのではないでしょうか。この点で、上記の第七幕の後半という新たに付け加えられたエピソードは示しています。

 ・・・

実際に、そのような「少女」・成瀬順の決断は坂上の介入によって、活かされるとともに別のものに変化しています。坂上が提案したクロスメロディ(悲愴+Over The Rainbow)によって、悲愴でも喜びでもないそれらが混ざり合った別の気持ちとして、そのような成瀬に内在した二つの気持ちが双方ともに息吹を取り戻すことになります。このことのもたらす意味に気づくのは、成瀬も坂上もともに、罵倒シーンを介してではありますが。いずれ、安直な「優しいふりして卑怯者」の言葉を捨てるのは、成瀬も坂上も同時であり、それは、このクロスメロディの場面に潜在しているように思います。

このように考えていくと、わざわざ成瀬順の物語を二重化したクロスメロディの二声というのは、単純に妄想・願望であるところの「少女」「王子」「玉子」を棄てさせるためだけにあるわけではありません。おそらくは、成瀬順に「心の声」を捨てることなく「玉子は私」という言葉を与える重要な役割を持っていたはずです。それをミュージカルの奇跡と呼んでも良いかもしれません。既定の「少女」から離脱した一人の裸の個人としてだけではなく、ミュージカルは成瀬順に「心の声」の役割を与えることができますし、坂上の前において自らに溜め込んだ言葉を解き放つ「玉子」の役割を背負うこともできます。そこで成瀬順は、妄想の「少女」「王子」「玉子」から脱して、心の声と玉子を携えて誰か(本作では仁藤ですが)に「王子」を届けるものとして現れます。

罵倒をするというのは、自分にとっても相手にとっても厳しいものではあります。しかし、自分への本心からの罵倒なしには、とりわけ自分を守るための自虐芸や自罰感情にとどまらない罵倒なしには、成瀬順は、自分も相手もまた理想的な「王子」ではなく、汚点を携えた「玉子」であることに気づくことはできなかったでしょう。「玉子は私」という言葉は、かつて自らが夢中になっていたピアノのために両親の離婚を引きおこしてしまったと感じた坂上に対して、成瀬順が罵倒する役割を引き受けたあの罵倒シーンの後ならば、「玉子はあなた」にも変換されているはずです(※ 2016/1/5 wakさんからの指摘を受けて下線部分を追記いたしました)。無垢な「少女」はありえませんが、言葉を溜め込み、外圧から自らを守る殻をなす「玉子」なしには、私もあなたもない。このことをうけいれるためには、相手の言葉に踏み込み、その本心からの言葉に耳を傾けるための殻を必要とする。そのことを示す場面として、罵倒シーンは際立った重要性をもっているのではないでしょうか。

またこのように考えていくと、冒頭の吊るし玉子の神様をめぐるおじいさんとの会話もまた、一風変わった様相をもって立ち現れてくるようにも思えます。その神様は「おしゃべりが大好き」なため、「いろんな言葉を詰める」ことで「御供えの代わり」となります。言葉をかけた人々は、その言葉でもって神様を喜ばせることができるものとされます。そんな荒唐無稽なお話に、当初の坂上は冷ややかな態度で 接していました。しかし、実際にその後、妙に縁のあるエッグマラカスを見たことをきっかけに成瀬順の心に届く玉子の歌を紡ぎだすことができました。玉子の妖精とは異なり、ここでの玉子というのは、単に自分の内部に引きこもるための心の殻というだけではありません。「ご利益」があるかどうかはわからないけれども、ひとまずその心の殻の中に染み入る言葉を携えつつ、自分の外側にある玉子に自分の願いをかけて捧げてやる。最後の成瀬順が至った地点も、一人で閉じこもっていた玉子というのを超えて、自分の外部にあるその玉子に言葉を捧げる、という振る舞いの連鎖へと入り込むことだったのかもしれません。(※ 2016/1/5 wakさんからの指摘からちょっと考えたことを、下線部分で追記いたしました)。

これが、wakさんの評論へと編集側として付け加えたい蛇足の言葉というか、やや遅れ目の質問となります。

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2、事後諸々:坂上の言う「みんな」とはなんだったのか?

(正月休みにかまけて若干切れ切れの空き時間ができたことを理由に散々長々と書いてしまいましたが、)このエントリは本当はここから先のことを検討したかったのでした。ここから先というのは、上記3の(2)罵倒する側にまわる成瀬順 の冒頭、「行こう成瀬、みんなが待ってる」という箇所です。ここでなぜ坂上は、自分を名指すことなく「みんな」という言葉を用いたのか、というところに関わっています。

wakさんの本誌の文章から引けば、「坂上が成瀬順を迎えにラブホテルの一室へ到着した際、彼は「みんなが待っていることを強調します。『青春の向う脛』は成瀬順の個人的な幻想を元にストーリーを作り上げたはずなのに、クラスメイト全員で作品として作り上げていく過程で、成瀬順の個人的な幻想ではなくなってしまい「みんな」のものとなってしまいます。」という箇所の周辺についてです。

実は私は、教室で成瀬を探す場面で「俺」という主語を使ったのは違和感がなくて、ラブホテルの時に「みんな」と言ったのもそこまで違和感を感じなかったので、wakさんの指摘を受けてハッとしたところでした(というのも、実は主語の話はキーワードコラムにも載せたり、vol.1.5_β 掲載の拙稿「見られたい心を見つけた玉子」2(2)にも載せたりしていたのですが、この場面は主語というテーマにおいては重要視していなかったのです。)。

この違和の箇所を見過ごしていた理由としては、(「行こう成瀬」という文は坂上+成瀬が主語だし、「みんなが待ってる」は理由上の機能しかもってないから、「みんな」にそこまでの協調を与えられているかなぁと一見すると思ったという瑣末な点はさておき、)以下のような感じかと述懐した次第です。

(a.)教室の場面:「みんな」との対峙

教室で坂上が「俺」といったのは、「みんな」の空気が成瀬悪玉論に傾斜していたところで、その裏切りを裏切りとして了解した上で、「みんな」の空気とは別の欲求(成瀬に舞台に立ってほしい)をもっているものとして、自分を立てる必要があったからだと思っていました。その意味では田崎に「お前はどうすんだ!」と詰め寄られた言葉に対して、坂上なりに大真面目に向き合ったんだなぁと。つまり「みんな」とは別の自らの心の声に、あの時の坂上は向き合ったとは言える。恋愛対象じゃなくても応援はできるわけで、(Febriかどこかで脚本・岡田麿里さんも言ってたように)むしろそういう非-恋愛的な応援の契機こそが非常に力強い助力になるとも思える次第ですし。

(b.)自転車での捜索中の場面:「みんな」と「俺」に引き裂かれる坂上

これに対して、ラブホテルに行く時、着いた時に、坂上がもっぱら気にしていたのは「成瀬にどんな言葉をかけてやればいいか」という問いだったと思う次第です。実際に、坂上は「みんな」からの電話を受けて、成瀬の母が会場に来ていることを知りますが、この電話の場面は「俺」という主語で出てきたことと引き裂かれている描写と言えます。成瀬の母が「周りの人にどう言われているか」を気にしている人であることを鑑みれば、ここでも「みんな」の問題が、「俺」という主語を使った坂上に刺さる言葉になっていると思いました。あくまでも成瀬がミュージカルに向き合っていたのは「みんなのため」のミュージカルと個人的な成瀬自身のためでもあるわけですから、目的としての「みんな」と個人は両立するようにも思えます。

(c.)ラブホテル冒頭の場面:「みんなのため」の「俺」

ではなぜ、ラブホテルで現に成瀬に対峙する段階で、坂上は「みんな」という言葉から始めたか。坂上の目的としては、あんなにミュージカルを介して言おうとしたことがあった成瀬の本当の言葉を聞きたいということもあるでしょうし、実際にミュージカルで言おうとしたことが「みんな」で幸せになるための限られたルートだったということもあるでしょう。それを軽率に「俺」といったのでは、それこそが坂上の本心に反することなんじゃないかなぁ、と思います。「俺」という主語を引き受けることはもちろん大事なのですが、それこそ幻想の「王子様くずれ」でしかない奴から本心の言葉を向けられたところで、あの段階の成瀬順には響かなかった可能性が高い。成瀬順の受け取り体制が未だ整っておらず「玉子がいなければ困る」云々と言っている以上は、目的としての「みんな」を出すとともに「(俺と一緒に)行こう」という言葉を向けたことはそこまで変ではないかなぁと思ったのでした。

以上をまとめると、(a.)で「みんな」に対抗するための「俺」を打ち立てる必要があり、(b.)で「みんな」と「俺」が引き裂かれつつも「みんなのため」の関係を明示した上で、(c.)ではその目的としては「みんなのため」のミュージカルあっての坂上として「一緒に戻ろう(理由:みんなが待ってる)」という言わねばならなかったのではないか、という感じでした。こう考えれば、「みんな」という語で主語を誤魔化すという面もあるとは思うのですが、まさに坂上は主語としての自分・「俺」が引き受けられる限界にある言葉を誠実に選んでいたのではないかとも思えた次第です。

 ・・・

これに対して、wakさんの見解としては、以上の流れは「坂上自身の本心を言葉にするのを回避するため」という流れで理解したほうがいい、という話だったと思います。

この見解は、実際、罵倒を向けられた坂上が「おれ、成瀬と一緒だよ」と、本心が言えなくなっていた自分を見出すという流れにも適合する良解釈と思います。よって、もちろん成り立つとは思うのですが、そうすると全体的に坂上はかなり成瀬順に救われただけの救いがたいボンクラになってしまうとも思います。

そこで私としては、もうちょっと坂上がそういう仕方をとった理由を突めたいと思いました。例えば、上記の罵倒シーンへと至る流れを、目的としての「みんな」をクロスメロディの一声をなす重要部分として、やはりあの場面の直前に導入したことには重要な意味があるのではない、と。

実際、罵倒を請うというのは、ミュージカルの筋にはない奇妙な挿話です。「王子は優しい言葉をくれたのでした」にも、「少女は王子にどんな言葉をあげられる?」にも回収されない言葉です。なぜなら、完全であるはずの王子が自分の汚点を見つけてくれ、糾弾してくれ、罪人にしてくれ、という撞着めいたことを請うのですから。そうすると、あの罵倒を請う言葉は、まさに「玉子のせいじゃないとしたら、一体何のせいにすればいいのかわからない」成瀬順に対して、自罰感情以外の感情を与えるために、坂上自身を罪人であり「玉子」にするものであったと考えることができると思います。

その意味で、たそがれさんの次の指摘にある

というtweetの「でも罵倒してくれって頼むんだよ」という一文は、かなり示唆的なのではないかと思った次第です。なぜなら、罵倒を請うその言葉は、成瀬順を「罵倒されるべき罪人」の地位においてはくれないからです。成瀬順は、自らの立場を、なぜか「王子(偽)」を罵倒する本当の言葉を駆使する「少女(偽)」という倒錯した立場に置かざるを得ないためです。そう考えてみると、坂上の情けなさは意図されたものではないにせよ、極めて誠実な態度に思えたところでした。もちろん、

と書かれている通り、そんな坂上の態度はどこまでいっても情けないものです。そこにリアルな人間を感じるものでもあります。これについては100%同意です。しかし、全部を見返したときには、あの真剣な目で請う言葉がなければ、成瀬順は妄想と自罰という安直な逃げ道から解き放たれることはなかったと思うのです。その意味では、情けなさをさらけ出したことは(実際そんなこと考えてない以上、打算や狡猾さの表れとは言いませんが)成瀬順にとっては、人が良すぎるが痛くもある救済の言葉であったと思います。ダブルミーニングでやはりイタい言葉であったと言えるでしょう。

 ・・・

 ・・・

 以上は、成瀬順が過去を反復するだけの存在として読解するもので、若干成瀬順に対しては意地の悪い見方であり、坂上には好意的すぎるだろうという見方であるとは自覚しています。一方で、このような読解によることで、「王子」である性質を剥奪された坂上をただの人(あるいは単なるポンコツ)に貶めることもなく、やはりそれでも成瀬順の回想に現れ、彼女にとっての重要な存在であることを掬い取れるようにも思う次第です。

以下は蛇足ですが、罵倒といっても、成瀬から出る言葉は関係のない他人にとっては可愛いものです。あるいは「綺麗な」言葉といっても良いかもしれません。罵倒の言葉を請うたところで成瀬順からは綺麗な言葉しか出てこない。そのことだけは坂上は知っていたかもしれません。すくなくとも、どんな言葉が出てこようとも、出そうとした成瀬の真摯な気持ちだけは本物でしょう。坂上が心打たれたのは、そのような「玉子」を抱えた成瀬順と「玉子」を抱えた坂上の姿が、二人にともに突き刺さる罵倒によって重ねられたからだ、というのは読み込みすぎかもしれませんが。

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というところで、ひとまずは今日はここまでです。

さっき思い出してざざっと書いたため、乱筆あらかじめお詫びいたします。 

 

 

 Nag

 

 

 

鉄血のオルフェンズ第13話 葬送 視聴雑感(+シークエンス相関図) #g_tekketu

1、相関図

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2、雑感

 

(未了)

 

 

 

3、DL

 

www.dropbox.com

 

 

[告知]アニメクリティークvol.4.5_β「ガールズ&パンツァー総特集(付:4号振り返り)(仮)」の発刊・委託販売について:2016年夏コミ #C90 #anime_critique

掲題の件、COMIC ZIN様にて委託販売開始しました。

http://shop.comiczin.jp/products/list.php?category_id=5829

 

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夏コミ3日目「東ポ15b」(アニメクリティーク刊行会)及び、1日目「西j18a」(M.O.M準備委員会さま)にて、掲題『アニメクリティークvol.4.5_β「ガールズ&パンツァー総特集号」(付:4号振り返り)』を発刊・頒布いたします。

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ついては、下記の通り情報更新しました。適宜リンク先の試し読み文章や、頁画像を参考に、ぜひ当日ご足労くださいましたら幸いです。

 

---------『vol.4.5_β』紹介

 

目次

 

0、 Outline. 戦争と(非)道の美学

戦車戦に何を「みて」いるのか?——ベンヤミン『複製芸術時代の芸術作品』から『ガルパン』へ

 Column.01. 来るべき「わだかまりのない試合」とは何か?—— 『リボンの武者』論 @Nag_Nay

 Column.02. 競技としての戦車道—— 「戦車道にまぐれなし」とスポ根批判 @Nag_Nay

 Column.03. 注解(コンメンタール)戦車戦規則——付:劇場版戦術一覧 @Nag_Nay

 

1、 Theme 1. アニメにおける〈音〉と〈輪郭〉

踏破する音と、開かれた輪郭線——アニメ『ガールズ&パンツァー』論 @tackerx

 Review.01. 西住みほの「戦車」性への共感と、「輪郭線を踏破する音」性への疑念 @yokoline

 Review.02. (無題) @totinohana

  Reply. 二者への応答 @tackerx

 Column.03. 爆音轟く無声映画---付:「極上爆音上映」トークショー @Nag_Nay

 Column.04. 0’00”  音への三つの応じ方---音、無音、騒音 @Nag_Nay

 Column.05. ラップランドの音楽論---Säkkijärven polkka @Nag_Nay

 

2、 Theme 2. 乗りと勢いの国

傷ついたのは誰の体?——延長された身体と、その消失。あるいはバイクに乗れ!バイクに! @SpANK888

 Review.01. すぱんくさんの原稿へのコメント @tackerx

  Reply.01. 輪郭線内外の「傷」 @SpANK888 

 Review.02. (無題) @totinohana

  Reply.02. とっちーさんへの「変身」? @SpANK888

 Column.06. ボコられの系譜——ボコミュージアムから大洗、「フィンランド化」まで @Nag_Nay

 Column.07. 差異、反復、期待——あるいは、デタントに向けた架橋について @nocitponap

 Column.08. なぜ何度も観に行くのか?——迷言「次こそは勝てると思った」  @Nag_Nay

 Column.09. 僕たちは繰り返す、興奮を得るために、その映画を。 @Wataruumino

 

3、 Theme 3. 「KAWAII」のは何か?

ライアン坊やにHeadshotをブチかましたとウワサのあの戦車(コ)がカワイイらしいと評判になっている件 @7kotro

 Column.10. 名前に何の意味があるのか?——集合名詞の二つの用法 @Nag_Nay

 

補、 付属冊子:「戦争と偶像」を振り返る---選挙戦×生前退位

 THE IDOLM@STER』シリーズ、『Wake Up, Girls』 、『艦これ』『GATE』『はいふり』『蒼き鋼のアルペジオ』『スカイガールズ』『ソラノヲト』について

 

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頁イメージ

 

0、 Outline. 戦争と(非)道の美学

 

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(中略)

 

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1、 Theme 1. アニメにおける〈音〉と〈輪郭〉

 

 

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(中略、レビュー、リプライ欄)

 

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(中略、コラム一部紹介)

 

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2、 Theme 2. 乗りと勢いの国

 

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(中略、以下コラム)

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3、 Theme 3. 「KAWAII」のは何か?

 

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(以下中略、コラム)

 

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今号でも寄稿文について論評・読解する相互レビュー・リプライ欄を識者(橡の花さん+ヒグチさん)の意見を取り入れ、前号より洗練させることができました。寄稿文の問題意識や議論の見取り図がよりわかりやすくなる形をとれたと思います。

あとデザインについては、少しだけ頑張りました。戦車ノンブルは全ページ違うため、本文で扱われている「あの場面」を思い出しつつ見開きでお楽しみください。画像はtacker10さん(IV号)、すぱんくさん(CV33)、こうたろうさん(97式中戦車)、橡の花さん頁 大学選抜(カール自走臼砲・自動装填装置付)、ヒグチさん頁 ひまわり中隊(黒森峰VI号Tiger I)
※(中隊は初期段階で再編成されるため)強く意識したわけではなかったのですが、今見てみると、3中隊・1小隊・大学選抜チームが一応揃っていましたね(全くの偶然です)。

今号は、コラムも充実していて計10本。羽海野渉さん、波野淵紺さんにご協力頂き、内容も色々です(詳細は目次ほか告知にて)。挿絵も画像のような感じでコンカツ氏と久瀬さんにご協力頂きました。

本文内容についてはまた追って告知しますが、おおまかなアニメクリティーク新号ガルパン総特集号、形式的なところでの特徴は以上のような感じです。夏コミ1日目にM.O.M発行準備委員会様(西j18b)、夏コミ3日目「東ポ15b」弊サークルにてお待ちしております。(既刊も出るはず)

 

 

---------以下、寄稿募集時(2015年時)情報

 

1、企画趣旨

劇場版アニメのBlu-rayの発刊に合わせ、『ガールズ&パンツァー』の振り返り総特集号を発刊いたします。

※ なお、本誌では『vol.4.0 戦争とアイドル/境界線上の〈身体〉 特集』の別綴にしていた当日配布ペーパーの続きを書いたものを、付録として採録します。取扱作品は、『THE IDOLM@STER』シリーズ、『Wake Up, Girls』 に加えて、『艦これ』『GATE』『はいふり』『蒼き鋼のアルペジオ』『スカイガールズ』『ソラノヲト』あたりを加えたものとなります。

 

2、寄稿募集要項

(1)募集原稿:

  TVアニメガールズ&パンツァー』及び劇場版ガールズ&パンツァー』についての評論

 ※vol.4.0の続刊という趣旨もあるため、vol.4.0の趣旨を引き継ぎ、各作品を論じたものも推奨→

nag-nay.hatenablog.com

 

(2)装丁・発刊時期:

 オフセット印刷、A5、60頁程度で企画しています。
 発刊時期は、2016年夏のコミックマーケットC90を想定しています。
 

(3)募集原稿様式

a. 文字数:
 ①論評・批評 : 3000字程度から15000字程度まで。
 ②作品紹介・コラム:500字程度から2000字程度まで。

b. 形式
 .txt または .doc

c. 締め切り
 第一稿:7/10
 (※ 個別に連絡いただけましたら延長することは可能です)
 (※ その後、何度か原稿の校正上のやり取りをさせていただけましたら幸いです。)
 最終稿:7月下旬

d. 送り先
 anime_critique@yahoo.co.jp
 ※ 参加可能性がありましたら、あらかじめご連絡いただけましたら幸いです。その際、書きたい作品、テーマ、内容についてお知らせくださると、なお助かります。
 ※ 原稿内容について、編集とのやりとりが発生することにつき、ご了承ください。


(4)進呈

寄稿いただいた方には、新刊本誌を進呈(※ 進呈冊数は2を予定)させていただきます。

 

 

3、付録(立川極上爆音上映のトークイベント記録)

 

 

先日のガルパン音響陣、岩浪(音響監督)、小山(音響効果)、山口(録音調整)らによるトークショー@立川シネマシティのメモと雑感。過去分のtogetterでのまとめもあったのですが更新はされてないっぽいので、手元のメモをとりあえずおこす形で。

 

冒頭から「こう三人で並ぶとSHIROBAKOぽくてやだね」から始まった、ガルパン音響チームによるトークショー。
極上爆音上映でおなじみ、立川シネマツーAスタジオの音響設備を用いたカール自走臼砲音で笑いをとった後、「(スターウォーズを抑えての)ガルパンの動員数勝利」、「平日朝からの圧倒的客入り」、「SW公開から1週間でのAスタジオ取り戻し劇」などなど他劇場では起こりそうにない事態を導いたスタジオ設計や音響へのこだわりについての話などなどがざっくばらんに展開された感じ。


1、遠山企画室長から極上爆音についての説明

最初はスタジオ設計について。
・シネマツーのリアルサウンドシステムについて:映画館ではなくレコーディングスタジオでの音を届ける趣旨。スタジオ、という呼称の意味はここにあるとのこと。
・スピーカーはMedia Soundの音楽用スピーカーを使用。スピーカーの配置も特徴的で、スクリーン横に配置してある。スクリーン裏に配置しないことでクリアな音を実現している。
・スタジオ設計も特徴的で、壁の傾き(× 反響)を入れたり、天井吸音システム(× 壁吸音)を導入したりと、稀有な方式を採用。

・また(素人の劇場バイトさんでも操作可能な単純なものではなく)わざわざ操作が面倒な音響調整卓を入れているというこだわり。

 → ...といったこれら諸々を活かすことで、『This Is It』での音響上映から『極上爆音ゴジラ』『マッドマックス』での極上爆音上演へとつながった。実際今年は『マッドマックス』で新規サブウーファーを導入。音響スタッフそのものが来てくれる稀有な機会をもらっている(『鉄男』『フラッシュバックメモリーズ』『進撃の巨人』etc.)、とのこと。

 ちなみにここらへんの経緯はつい先日のリアルサウンド記事や、ちょっとまえのアスキー記事にもあったところ。

 


2、岩浪音響監督からスピーカー・ウーファーとかの説明

・センター、左右、ウーファーとカーブドスクリーンの構成。「音にうるさいオーディオおじさんのシアタールーム」を大きくした感じとの概括。
・フローティングも特徴的。遮音と響きに注力した「箱の中に箱というスタジオ」なんだけど、(通常のスタジオでさえ数億かかるから)いくらかかったんだろうね、と笑い。


3、各種実演と色々

(1)実演1:カール自走臼砲音の音・実演(最初はセンタースピーカーのみ、次いで +サラウンドスピーカー、さらに +ウーファー、最後にウーファーのみの音)。
 小山さんからの補足で、アタックを出すためにセンター(センターに高い音だけを入れる)を使い、リアにきしみ音を中心に置いて、左右(LR)は空気の破裂音を入れてるとの説明。
 参考にしたのは(TV版)『プライベートライアン』か(劇場版)『マッドマックス』かとの挿話あり。

(2)実演2:(戦車ごとの戦車内反響音の違いを反映した)アンビエンスについても実演。
 くぐもった反響音をプラスすることで、狭くて硬いところでの会話であるということを感じさせることができれば成功。

(3)実演3:さらに(無線の音などの特殊効果を入れる)フィルターについて。
 無線については、周波数の真ん中を切り出して(フィルター)、ひずみを追加するというもの。

(4)実演4:これまでのまとめ。「この戦いに意味があるとは思えない」以降の継続高校活躍シーンを例に。
①セリフのみ:(物語上のシークエンスを出発させるときの)大きめの音声への変更など調節
②音楽のみ:カンテレ音とカンテレ残響
③背景のみ:戦車内音・アイドリング音・エンジン音、爆発音、破裂音
④以上の3つのあわせ
 必要音を強調しつつ、不要音を「小山さん一人で」カットすることが重要との指摘あり(例えば、まほの犬が「ハッ、ハッ」といってる音は当然カット(捨象)する。趣旨はまほのなんとも言えない表情に視聴者の目を集めたいから)。
 不要音を捨象できない例としていくつかのハリウッド作品があるかも。仕上げの時間が取れない製作スタイル・多人数製作の問題の現れか。

 

などなど。
最後は『アンツィオ戦』『TVシリーズ』もシネマシティでやりたいね、との話で了。

 

当日メモは以上。雑感はまた今度追記します。

ここさけ聖地巡礼記録+新刊資料(仮)



下記、アニクリ新刊「vol.1.5_β 心が叫びたがってるんだ。特集号」表紙のための資料的な聖地巡礼記録となります。

nag-nay.hatenablog.com

 
 
(1)冒頭、順の放課後ルート
 
11:30頃
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15:00頃(12/8追加)
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17:00前頃(12/8追加)
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参考:夕焼けが入らなかったので、羊山山頂夕焼け。秩父が山で囲まれているためか、街全体がぼんやりと暗くなっていく感じ。

16:30-17:00頃(12/8追加)
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(2)山の上、秩父遠景(※参考)
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(3)山の中腹、順と玉子の会話場面
11:30頃
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15:00頃(12/8追加)
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17:00頃(12/8追加)
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(4)通学路の玉子の寺、坂上と順の会話

13:00頃

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15:30-16:30頃(12/8追加)
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(5)横瀬駅、田崎と仁藤の会話
 
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(6)走り出しバスに飛び乗った順と坂上の遭遇場面?
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(7)ジョナサン+坂上と仁藤の帰宅路
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(8)坂上の家での曲選択+順と田崎の帰宅路
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(9)その他

 
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ドゥルーズ『襞ーライプニッツとバロック』河出書房(1998版)より抜粋

『襞ーライプニッツバロック』河出書房(1998版)「III部 身体をもつこと」より抜粋。


第7章 襞における知覚

p.147
私は身体を持たねばならない。このことは一つの道徳的な必要であり、一つの「要請」である。そして第一に私が身体をもたねばならないのは、私の中に薄暗い部分があるからである。しかし、この第一の推論から、もうライプニッツの独創性は際立っている。彼は、身体だけが精神において薄暗いものの理由になっている、というわけではない。そうではなく、精神は薄暗く、精神の底は闇に包まれている。そしてこの闇に包まれた本性こそが身体の理由であり、身体を要請するのである。
…無数の個体的モナドが存在するからこそ、各々のモナドは個体化された身体を持たねばならないのであって、この信頼は一つのモナドの上に映ったほかのモナドの影のようなものである。一つの身体をもつがゆえに、われわれの中に薄暗いところがあるのではなく、われわれの中に薄暗い場所があるがゆえに、われわれは身体をもたねばならないのだ。

p.151−152
宇宙論的なものから微視的なものへ、しかしまた微視的なものから巨視的なものへ。
ライプニッツは、ときどき全体性を示す言葉で語ることがあるとはいえ、均質な部分の和以外のものを問題にしている。問題は部分-全体の関係ではない。全体は部分と同じく、感覚し難いことがあり得るからである。あまりに慣れてしまっていると、私には水車の音も聞こえはしない。
…実はライプニッツは、小さな知覚と意識的な知覚との関係は部分と全体の関係ではなく、凡庸なものと、顕著なものあるいは注目すべきものとの関係だということを、たえず明言しているのだ。
…海鳴りを(※例に)とってみよう。少なくとも二つの波が生まれつつある、かつ異質なものとしてかすかに知覚され、それらが、ほかに「勝り」意識的になる第三の波の知覚を決定し得る関係の中に入らなくてはならない(そのためには海の近くにいなければならない)。
…巨視的なレベルの「決まった形」は、いつも微視的レベルに依存するのだ。

p.156-157
ライプニッツが保存しようとする「明晰かつ判明な」デカルト的表現の射程とは、一体何なのだろうか。それぞれのモナドの特権的帯域は混乱した出来事からなるにもかかわらず、なぜたんに明晰であるのみならず、判明でもあるといえるのだろう。要するに、このようなものとしての明晰な知覚は、決して判明ではなく、注目に値するとか、顕著であるという意味で「秀でている」のである。それは、ほかの知覚との関わりで際立っており、最初のフィルターとは、凡庸なものに働きかけて、そこから注目すべきもの(明晰にして、秀でたもの)を抽出するフィルターである。しかし判明なものとは厳密に言えば、別のフィルターを前提とし、これは注目すべきものを規則的なものとみなして、そこから特異性を抽出するのだ。これはすなわち、理念の、あるいは判明な知覚の内的特異性である。ここで特異なものから凡庸なものをひきだす第三のフィルター、十全なもの、あるいは完全なもののフィルターについて言及すべきだろうか。そうするとフィルターの組織は、たとえその最後のフィルターはわれわれの力を上回ってしまうにしても円環状のシステムになるのだ。
…特異性とは、なによりもまず屈折であり、ほかの特異性の近傍にまで延長され、距離の関係に従って宇宙の線を構成する屈折の点である。そして特異性とは、遠近法の関係に従ってモナドの観点を定義する限りでは、凹の側の曲線の中心である。最後に特異性とは注目すべきものであって、モナドの中における知覚を構成する微分的関係にしたがう。さらに、第四の特異性というものもあり、物質あるいは広がりにおいて、それが「極地」つまり「極大」と「極小」を構成する事をのちに見てみよう。

p.163−166
なぜ身体なしではすまされないのか。何がわれわれをして、現象または知覚されたものを超えさせることになるのか。もし知覚の外に身体がないとしたら、ただ知覚する実体だけが、宇宙の多様性や動物性を犠牲にして人間的であり天使であるに過ぎないだろう、とライプニッツはしばしば々述べている。知覚されたものの外に身体がないとしたら、知覚するもの自身において、これほどの多様性はないだろう(それはまさに身体に結合され「なくてはならない」)。しかし実際の推論ははるかに奇妙で複雑である。つまり、知覚されたものは何かに似ており、知覚されたものはわれわれはこの何かを考えるように強いる。
…第二に、知覚されたものが何かに似ているということは、即座に知覚が一つの対象を表象するということを意味するのではない。デカルト主義者たちは、知覚の幾何学性を強調したが、それによって明晰で判明な知覚は、広がりを表象するのに適していたのである。あいまいな、あるいは混乱した知覚の方は、表象性を欠き、それゆえ相似を欠いた慣習的な記号としてしか作用しないのである。ライプニッツの観点はまったく異なっていて、相似に関しても、同じ幾何学、同じ地位は成立しない。
…第三に、それなら相似させられたものは、先の類比に従えばどのように現れるだろうか。類似の物質的側面はどのように現れるのか。魂における心的メカニズムに一致する物質的物理的メカニズムなどを引き合いに出してはならない。モナドの内にある心的メカニズムはあらゆる外的因果性を斥けるからである。


第8章 二つの階

p.171
すでに初期の文章でライプニッツは、唯名論者たちが集合的な全体しか認識せず、そのため概念を捉えそこなってしまうと非難している。概念のない方は、配分的(distributif)であって集合的ではない。羊たちは集団的に一つの群れのメンバーであるが、人間たちはそれぞれ個別に理性的である。そこでライプニッツは、理性的存在としてのモナドたちは、みずからの概念のない方に対するように世界に対することに気づく。それぞれのモナドが、それぞれに世界全体を包摂するのである。モナドたちはおのおの(every)である、一方身体たちはone, some, any なのである。
モナドは、おのおのと全体の関係に従って配分的な単位なのであり、一方、身体はあるものと他のものという関係に従って、集合的であり、群れであり、集積なのである。

p.178-179
世界、世界の錯綜した線はモナドにおいて現働化される潜在的なもののようだからである。つまり世界は、モナドの中においてだけ現働性をもつにすぎず、おのおののモナドは世界を自分固有の観点と固有の表面において表現するのである。しかし、潜在的-現働的という対は問いを終わりにするわけではなく、さらに可能的-実在的という非常に異なる対が存在する。例えば、神は無数の可能世界から一つの世界を選ぶ。つまり、他の諸々の世界も、それらを表現するモナドにおいて等しく現働性をもっていて、アダムは罪を犯さないし、セクストゥスはルクレチアを犯さないのである。従って、必ずしも実在的ではなく、可能なままにとどまる現働的なものが存在する。現働的なものは実在的なものを構成しないのであって、それ自体実在化されなくてはならないのである。そして世界の現働化という問題に加えて、世界の実在化という問題がある。神とは、「存在化するもの」であるが、〈存在化するもの〉とは一方で〈現働化するもの〉であり、他方では〈実在化するもの〉である。世界とは、モナドあるいは魂の中で現働化される潜在性であるが、また物質や身体において実在化されなければならない可能性である。実在の問題が、諸々の身体についてたとえ外観ではないにしても単なる現象に過ぎない身体について提起されるのは奇妙なことで、反論の余地がある。(※すぐ下に続く)

p.180
しかし、厳密に言って現象とは、モナドにおいて知覚されるものである。知覚されるなんらかのもの=x に似ているおかげで、われわれはたがいに作用し合う身体が存在し、そのような身体にわれわれの内的知覚が対応するのではないかと問い、まさにこのことによって現象の実在化という問題、より正確には知覚されたものを「実在化するもの」という問題、つまり、現働的に知覚された世界を客観的に実在的な世界、客観的な〈自然〉に変形するという問題を提起するのである。実在化するのは身体ではなく、身体において何かが実在化されるのであり、それによって身体そのものが実在的あるいは実体的になるのである。

p.181
ライプニッツの哲学は、アルノーへの手紙に書いてあるように、精神的なモナドとの関連でも、物質的な宇宙との関連でも、世界があらかじめこのように理念的に実在することを要求し、出来事のあの沈黙し、陰に隠れた部分を要求するのである。出来事について語りうるとしたら、それを表現する魂と、それを実現する身体にすでに組み入れられたものとして語りうるだけである。しかし、そこから逃れてしまうあの部分がなければ、われわれは出来事についてまったく語ることができないだろう。このことがいかに困難でも、ある回線については、それを導く魂からも、それをやってのける身体からも逸脱する潜勢的なものから出発して考えなければならないのだ。

p.181
物質的宇宙も、魂も、世界に関して表現的であるといわれるのである。魂の方は、現働化しながら表現し、物質的宇宙の方は実在化しながら表現する。確かにここには、まったく異なり、実在として区別される二つの体制がある。一方は配分的であり、もう一方は集合的であるからである。それぞれのモナドは、他のモナドとは無関係に反応し合うことなく世界全体を表現するが、すべての身体は他の身体の印象や反応を受け取り、様々な身体の集合が、物質的な宇宙が、世界を表現するのである。だから予定調和はまず、二つの体制の間の一致として現れる。しかし、これらの体制は第二の相違を抱えている。魂の表現は全体から特殊に至り、つまり世界全体から特権的な帯域に至るのだが、一方宇宙の表現は部分から部分に、近いものから遠いものに至る。身体は魂の特権的な帯域に相当し、徐々に他のあらゆる身体の印象を受け取るからである。

p.185
魂と身体の予定調和は、実在的な区別を律するのだが、一方では統一がそれらの不可分性を決定する。私が死ぬときでさえも、私のモナドは身体から分離されず、そのもろもろの部分は対抗するのに甘んじている。すでに見たように、モナドはそれ自身において身体なしに知覚することなど出来ず、身体に「似ること」によって知覚する。

p.204
ライプニッツはしばしばモナドについて3つのクラスを区別している。知覚しか持たない裸のエンテレケイア、あるいは実体的形式。記憶、感情、そして注意を備える動物的魂。最後に理性的精神である。この分類法の意味はすでにみたとおりである。しかしモナドにおけるこのような「度合い」と「あるものがいろいろな度合いで、他のものを支配する」という事実の間にはどんな関係があるのだろうか。

p.207−208
世界は魂において現働化され、身体において実在化される。それゆえ世界は二度折り畳まれる。それを現働化する魂において畳まれ、それを実在化する身体においてさらに折り畳まれる。それぞれの場合に、魂の本性あるいは身体の限定に対応する法則の体制に従うのである。そして二つの襞の間には、間-襞、二襞、二つの階の折り目、蝶番、縫い目をなす不可分性の帯域がある。身体が実在化するということは、身体が実在的であるということを意味しない。魂において現働的なもの(内的作用あるいは知覚)を、何かが身体において実在化する限り、身体は実在的になるのである。われわれは身体を実在化するのではなく、魂において現働的に知覚されたものを、身体において実在化するのである。身体の実在性とは、身体における諸現象の実在化ということである。実在化するのは、二つの階からなる襞、紐帯そのもの、あるいはその代替物である。ライプニッツの超越論的哲学は、現象よりもむしろ出来事に向かい、カント的な条件付けを、超越論的な現働化と実在化という二重の操作で置き換える(アニミズムとマテリアリズム)。


第9章 新しい調和

p.219
感覚し得る対象を連続性の法則に従う形象や相の系列に変えること、これらの形象化された相に対応し命題の中に記入される出来事を指定すること、命題の概念を含み尖端あるいは観点として定義される個体的な守護に対して命題を術語化すること、概念と個体の内面性を保証する識別不可能性の原理。ライプニッツはこれを、ときに「遠近画-定義-観点」という三対として要約している。ここから出てくるもっとも重要な帰結は一と多の新たな関係に関わる。一とは客観的な意味で常に多の統一であるが、こんどは主体的な意味で、一「の」多様性と多「の」統一があるのでなければならない。こういして一にして多、多にして一という関係が、セールが示し多ように、一にして一、多にして多によって補足される限りにおいて、「万物が一つの中にある」という一つの円環が実在する。

p.233−234
物質的な宇宙は、外延における、水平的で集団的な統一性に到達するが、そこでは展開するメロディ自体が対位法の関係に入り、それぞれが自らの枠をはみ出て、別のメロディのモチーフになり、こうして〈自然〉全体が様々な身体とその流れの巨大なメロディとなる。そして外延におけるこの集合的統一性は、主体的、概念的、精神的、調和的、そして配分的な別の統一性と矛盾しないのであって、これに身体を与える限りにおいて反対にこれに依存するのだ。それはまさにモナドがまさに身体と諸器官を要求し、それなしには自然を知りえないからである。「諸感覚の符号」(メロディ)は私が現実の中に調和を識別するためのしるしである。単に和音の中に調和があるのではなく、和音とメロディの間に調和があるのだ。このような意味で、調和は魂から身体に、知性的なものから感覚的なものに至り、感覚的なものにおいて持続するのである。

p.236
ライプニッツモナドは、閉鎖と選別という二つの条件に従う。一方でモナドは、その外には実在を持たない世界全体を包摂している。他方でこの世界は、第一の収束する選別を前提とする。この世界は、当のモナドによって排除される、他の、可能ではあっても発散してしまう世界とは区別されるからである。そしてそれは、第二の共和する選別を伴う。なぜなら問題になるそれぞれのモナドは、それが包摂する世界において明晰な表現の帯域を自分のために切り開くからである(この第二の選別こそは、微分的な関係または調和的な近傍によって行われる)。ところでこれは最初に、そしていずれにしても消滅することになる。調和的なものが序列の上でのあらゆる特権を失ってしまったら、もはや不協和音は「解決」されることなく全音階を逃れるセリーの中で発散は肯定され、このセリーではあらゆる調性が解体される。しかしモナドが共可能的なものでないもろもろの世界に属して発散する系列に結ばれる時には、また別の条件が消滅するのである。いくつかの世界にまたがっていたモナドが、まるでペンチで半開きにされたかのようである。

p.237
問題はあいかわらず、世界に住み着くことである。しかしストゥックハウゼンの音楽的な住まい、デュビュッフェの造形的な住まいは、内部と外部、指摘と公的の相違を存在させない。それらは変化と軌道を一致させ、モナド論をノマド論によって二重化する。音楽は住処であり続けたが、変わったのは住処の組織とその性格である。確かにわれわれの世界とテクストを表現するのはもはや協和音ではないが、われわれはライプニッツ主義者であり続ける。新しい外皮とともに、新しい折り方を発見するが、われわれはライプニッツ主義者であり続ける。なぜなら問題はあいかわらず折ること、折り目を広げること、折りたたむことだからである。

 

 

 

告知:アニクリ新刊(3)『アニクリvol.4.1 <harmony/>, 屍者の帝国 最速レビュー』原稿募集について #bunfree

『アニメクリティーク vol.4.1 <harmony/>, 屍者の帝国 最速レビュー』募集要綱

 

・文字数: 1000字以上、10000字以内
・形式 : .txt または .doc
・テーマ: 『<harmony/>』『屍者の帝国』にかかわるものを募集。
 原稿内容につき、編集とのやりとりが発生する場合がございます。
 予め、ご了承ください。
 ※ 参加するかどうかについては予めご連絡いただければ幸いです。
  その際、書きたい内容(感想or評論、物語評論or作家論など)や
  構想なども、わかる範囲で、記載頂ければ幸いです。
 ※ 最終的な原稿の採否については編集側の判断とさせていただきます。
・〆切 : 11月19日(水)〆切

・送り先: anime_critique@yahoo.co.jp

・掲載誌の提供(2部予定)をもって、掲載料にかえさせていただきます。

 

なお、発刊につきましては、 

・発刊時期:第21回東京文フリ(11/23)

・発刊形式:コピー本/全28頁 予定

 

以上です。


よろしくお願いします。

告知:アニクリ新刊『vol.1.5 岡田麿里2012−2016/〈時〉をかけるアニメ』の発刊予定について #bunfree #anime_critique

アニメクリティーク刊行会では、2013年に発刊しました創刊号『vol.1.0 岡田麿里2008−2011』、2015年に発刊しました『vol.1.5_β 心が叫びたがってるんだ。総特集号』(2015/12/29 冬コミ頒布済 →事後報告はこちら、 →通販サイトはこちら)の続刊を発刊します。

 

『vol.1.5 岡田麿里2012−2016/物語の〈傷〉』(2016/05/01 文フリ頒布予定)

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いずれも表紙は、『vol.1.0』『vol.2.0』『vol.3.0』『vol.1.5』とアニクリを牽引していただいた yopinari くんにお願いしてあります。

目次は下記の通りです。

 

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※2016/4/30追記 ひとまず全体が校了して印刷所に回されたので、各評論冒頭を掲載します。 

 

Nag「アウトライン」

 対象作品:(1)B★RS × キズナイーバー、(2)峰不二子という女 × 絶園のテンペスト、(3)鉄血のオルフェンズ × M3 × 絶滅危愚少女、(4)心が叫びたがってるんだ × WIXOSS、(5)凪のあすから × 迷家

 岡田麿里関連作品を二作品ごとに対照させつつ、計11作を検討していくもの。

 

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tacker10「幻想の舞台から目覚めるために」

 対象作品:絶園のテンペスト

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konkatuman「ウィクロスおまけまんが」

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tacker10「アンチ・ロマンチシズム」 対象作品:機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ 

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(tacker10評論へのコメント(SpANK888))

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すぱんくtheはにー「離散と忘却の孤児たち(オルフェンズ)」 対象作品:機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ 

 

 

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(すぱんく評論へのコメント(tackerx))

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ふると+Nag「虚構に追いやられた痛みを引き取りにいくために」 対象作品:B★RS 

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超成瀬順を性的な視線で見る奴バスターズ(wak)「廃墟のお城で何が起きたのか」 対象作品:ここさけ

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なーる「凪のあとから 〜 自由のその先へ」 対象作品:凪のあすから

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晴れない空の降らない雨「「恋愛」「想い/語り」「家族」」 対象作品:ここさけ、オルフェンズほか各種

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※2016/4/27追記 ひとまず全体が校了して印刷所に回されたので、各評論冒頭と、一例として、ふると+Nag「ブラック★ロックシューター論」全文(画像)を掲載いたします。

 

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以上、2016/4/27追記終了。

 

 

 

 

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さて、今回は後者2についての寄稿を募集いたします(2016年5月文フリでの頒布予定)。

対象作品詳細は下記ですが、2012年の『ブラック★ロックシューター』『峰不二子という女』『絶園のテンペストや2013年の『凪の明日から』『WIXOSS』、2014年の『M3』から2015年『ここさけ』、そして現在放映中のアニメ『機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ』(第13話記事はこちら)、2016年公開予定の劇場版『selector destructed WIXOSS』までを含めたいと考えています。

最新作として予告されている『迷家』については、文フリ後の夏コミあたりであれば、付属冊子として作成できるかもです。

 

寄稿募集文と対象作品群は、以下の通りです。

 

 

1、『vol.1.5 岡田麿里2012−2016/〈時〉をかけるアニメ』(2016年5月 文フリ頒布)

 

1、検討・寄稿募集作品例

 

ブラック★ロックシューター(2012年)

アクエリオンEVOL(2012年)

AKB0048(2012年)

LUPIN the Third -峰不二子という女-(2012年)

さくら荘のペットな彼女(2012年)

絶園のテンペスト(2012年)

がんばれ!ルルロロ(2013年)

AKB0048 next stage(2013年)

劇場版 花咲くいろは HOME SWEET HOME[5](2013年)

劇場版 あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。(2013年)

凪のあすから(2013年)

selector infected WIXOSS(2014年)

M3〜ソノ黒キ鋼〜(2014年)

絶滅危愚少女 Amazing Twins(2014年)

selector spread WIXOSS(2014年)

幸腹グラフィティ(2015年)

機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ(2015年)

心が叫びたがってるんだ。(2015年)

映画かいけつゾロリ うちゅうの勇者たち(2015年)

selector destructed WIXOSS(2016年予定)

 

その他、2011年以前の作品についても可。(※ただし、2011年以前の作品のみの検討の場合には、下記②にあるとおり、寄稿文の文量については比較的短いコラム形式のものを想定しています。「一緒に論じることに意味がある!」という主張がある場合には、是非一報戴ければ幸いです。)

 

2、寄稿募集要項


(1)募集原稿:

 岡田麿里脚本・シリーズ構成アニメ作品(劇場版含む)のうち、寄稿募集原稿例に掲げた作品を中心として論じたもの。あるいは、アニメ作品における「時間性」「歴史性」「世代継承性」についての検討を含むもの。その両方に関わるもの。
 
(2)装丁・発刊時期:

 オフセット印刷、A5、100頁程度(¥500での頒布予定)で企画しています。
 発刊は第22回文学フリマ(2016年5月)および夏コミ(2016年8月)を想定しています。

(3)募集原稿様式

a. 文字数:
 ①論評・批評 : 2000字程度から15000字程度まで。
 ②作品紹介・コラム:500字程度から2000字程度まで。

b. 形式
 .txt または .doc

c. 締め切り
 原則として2016/3/19(土)。鉄血のオルフェンズのみ2016/4/10(日)
 (※ 個別に @anime_critique あるいは @nag_nay までご連絡いただけましたら、延長することは可能です)
 (※ その後、何度か原稿の校正上のやり取りをさせていただけましたら幸いです。)

d. 送り先

 anime_critique@yahoo.co.jp
 ※ 参加可能性がありましたら、あらかじめご連絡いただけましたら幸いです。その際、書きたい作品、テーマ、内容についてお知らせくださると、なお助かります。
 ※ 原稿内容について、編集とのやりとりが発生することにつき、ご了承ください。


(4)進呈

寄稿いただいた方には、新刊本誌を進呈(※ 進呈冊数は2を予定)させていただきます。

 

 

 

 

---- 以下は、既刊1.5_β に関する記録です。

 

 

2、『vol.1.5_β ここさけ特集号』(2015年12月 冬コミ頒布(※了))

 

(1)検討・寄稿募集作品

 

劇場アニメ『心が叫びたがってるんだ。』に関する批評・評論・SS等。

一作品に特化した特集ということで、原則としては作品内容に定位し、かつ、テーマ設定が明確なものでお願いできれば幸いです。

(※ なお、監督・脚本家・製作過程等に関する総論も可能ですが、こちらをご希望の場合に関しては、下記編集連絡先までご一報ください。コラム形式での執筆をお願いする場合がございます。)

以上に加え、現在、座談会を企画中です。こちらについては追って詳細をご連絡させていただきます。

  

(2)装丁・発刊時期:

 表紙カラー・オフセット印刷、A5、80-100頁程度で企画しています。
 発刊は冬コミ(2015年12月)を想定しています。

 

(3)募集原稿様式

 

a. 文字数:

 

 ① 座談会1「定型の反復」(仮題)、座談会2「演出・表現・物語」(仮題)

 

 ② 論評・批評・SS:3000字程度から15000字まで。

  内容は、本作から読み取れるテーマの設定が明確になされているものでお願いできれば幸いです。

 

 ③ キーワードコラム :200字程度から800字まで。

 ※コラムについては、若干募集要項を修正しました。各評論の合間に、挿入していければ幸いです。現状では暫定的に以下の各キーワードを設定しました。これ以外にも追加は可能です。各キーワードに沿って、本作から読み取ったことを、まとめていただければ幸いです。

 1. 言葉について:
 「お喋り」(ex.ドロドロ、沈黙、殻)
 「妄想」(ex.王子/玉子、お城、物語、愛)
 「定型/定型外」(ex.母による命令/祖父母-孫関係(=父抜き))
 「夢」(ex.トラウマ、夢(物語)のトレース、妄想、長引く夢(恋愛))
 「主語」(ex.主語の曖昧化、「言いたいことあるならはっきりいえばいいのに」、伝染)
 「翻訳」(ex.漢字の点、外国語による距離化)

 「呪い」(ex.因果応報:「いないと困るの!」、成瀬自身に自覚された夢=幻想)
 「吊るし玉子」(ex.空っぽの玉子、溢れ出る中身、スクランブル、詰められた玉子)

 2.身体について:
 「小走り」(ex.お喋りな身体・動作表現、不自然な走り)
 「掌」(ex.手を合わせた祈り、歌、ミュージカル)
 「痛み」(ex.心、身体、過去の記憶)
 「カット」(ex.髪、コマ、傷、息)
 「涙」
 「押し/引き」(ex.押し倒す成瀬、押しに弱い坂上、引きのショット)

 3.繰り返しと定型句について:
 「代役」(ex.DTMミント、ミュージカルの代役)
 「ミュージカル」(ex.こっぱずかしい台詞、坂上だけがなしうる(?)こと)
 「定型句」(ex.仁藤の褒め言葉、坂上の言い訳、行き場を失った言葉)
 「主語の欠如」(ex.全ての呪いの言葉が全部自分に返ってくる)
 「時差」(ex.延期する仁藤、瞬時に切断する坂上、遅延する成瀬・田崎)
 「名前」 
 「罵倒」(ex.定型句としての罵倒、それだけしかない罵倒)

 4.人間関係について:
 「罪」(ex.無知の成瀬の二つの罪、目の前の相手を見ない田崎)
 「馴れ合い」(ex.三嶋→田崎/田崎→三嶋という閉じた関係、「田崎だけの問題じゃん?」)
 「お前ら」(ex.阻害された山路、私たちという輪)
 「靴」
 「過去/現在」(ex.「あなたがくれたこの世界」、「あなたのとなりに」)

 5.視線について:
 「見る/見られる/眉庇効果」(ex.内観/外観/一部しか見えない)
 「心の中」
 「メール」(ex.お守りとしての携帯=繋がったメール)
 「封印」
 「格好よさ」(ex.ピアノ、勘違い、行為に対する気づかないふり)
 「狡さ」(ex.坂上が成瀬に頼られる快楽を悪用した振る舞い) 

 以上どうぞよろしくお願いします。

 

b. 形式
 .txt または .doc

 

c. 締め切り
 第一稿:2015/11/29(日)
 (※ 個別に連絡いただけましたら延長することは可能です)
 (※ その後、何度か原稿の校正上のやり取りをさせていただけましたら幸いです。)
 最終稿:2015/12月6日(日)

 

d. 送り先
 anime_critique@yahoo.co.jp
 ※ 参加可能性がありましたら、あらかじめご連絡いただけましたら幸いです。その際、書きたい作品、テーマ、内容についてお知らせくださると、なお助かります。
 ※ 原稿内容について、編集とのやりとりが発生することにつき、ご了承ください。


(4)進呈

寄稿いただいた方には、新刊本誌を進呈(※ 進呈冊数は2を予定)させていただきます。

 

  

サンプル画像1、『vol.1.5_β 心が叫びたがってるんだ。特集号』表紙(2015/12/29 冬コミ頒布)

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サンプル画像3、『vol.1.0 岡田麿里2008−2013』(2015/12/29 冬コミ頒布)

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(旧告知文) 

nag-nay.hatenablog.com